『うさぎちゃん』

 そんな甘い一夜を過ごして、次の日私たちはまた関くんの実家にお邪魔した。家には普通に英佑くんがいた。昨日と同じようにニコニコしていて、昨日のことを聞きたいと思ったけれど何となく聞きにくくて。チラチラ見ていると英佑くんがそれに気付いてふっと笑った。


「七瀬ちゃん、心配かけてごめんね」


 その笑顔は穏やかで。もしかしたら解決したのかな、と思った。

 リビングでお茶しながら、お母さんが持ってきてくれたアルバムを見た。子供の頃の関くんは可愛くて、きゅううんとなる。身悶える私を見て関くんは爆笑していた。


「もっと子供の頃のもあるはずなんだけどね。どこ行ったかな」


 お母さんはそう言ってまたアルバムを探しに行く。そう言えば小学校からの写真しかない。関くんも一緒に行ってしまった。


「あ、これ美優ちゃんだ」


 英佑くんが写真の中の女の子を指差す。とても可愛い子だ。その子はどの写真でも関くんの隣にいて。もしかして……


「これね、兄ちゃんの元カノだよ」


 やっぱりね、だと思ったよ。ふーん、高校の時こんな可愛い子と付き合ってたんだ、ふーん。


「高校のときずっと付き合ってたんだよ。突然美優ちゃんが留学しちゃって別れたけど」

「そうなんだ」

「あ、英佑何見せてんだよ」


 戻ってきた関くんが、引っ手繰るようにアルバムを取り上げる。チラッと私を見て、関くんはそのアルバムを隠してしまった。


「もう過去のことなんだしいいじゃん。七瀬ちゃんにだって元カレくらいいるでしょ?」


 英佑くんの言葉に私は苦笑いする。ごめんなさい、私関くん以外と付き合ったことなんてないです……


「もういいだろ。そろそろ昼ご飯作る」

「えっ」

「えっ」


 関くんの言葉に、英佑くんと私は即座に反応する。関くんは私たちの反応が不服だったのか口を尖らせた。


「……何」

「ご、ご飯なら私が作る!」

「え、七瀬ちゃん作れるの?俺、七瀬ちゃんの料理食べてみたいなー」

「そ、そう?じゃあ作るね」

「兄ちゃんは座ってなよ、ね?」


 英佑くんとの共同作業で何とか関くんが台所に入るのは阻止できた。

 昼食は食材が準備されていて、すぐにできた。料理と言うより切るだけだった。お母さんが準備していたのは手巻き寿司だったから。それでも関くんが準備していたと思うとここが血塗れになってただろうけどね……。

 食材を切っていると、お母さんが台所に来た。


「あ、七瀬ちゃんやってくれてるの?ありがとう」

「いえ、ご馳走になるんですからこのくらい」

「私ね、料理全くできないの。航佑も私に似たのか全くでしょ?器用なのに何故か料理だけ」


 ふふっと笑うお母さんに、私も思わず笑みを溢す。すると突然、お母さんが「あっ!」と声を上げた。


「ねぇ、七瀬ちゃん子供の頃にここ来たことない?」

「え……」

「昨日から思ってたの。面影があるし名前も聞き覚えがあるからそうなのかなって思ってたけど」

「き、来たことあります。でもごめんなさい、全然覚えてなくて……」

「うん、まだ小さかったものね。あの子のことも覚えてない?ほら、橘さん家の、こずえちゃん」

「こずえ、ちゃん……」

「あ、でもみんなにはうさぎちゃんって呼ばれてた」

「……!」


 うさぎちゃん。懐かしいな……。


「覚えてる?うさぎちゃん」

「はい!とっても可愛かったし、それに……」


 あの時の会話。まだ鮮明に覚えている。


『私ね、おうちに帰りたくないんだ』

『どうして?』

『こわいんだ』

『いつかぼくが七瀬ちゃんをむかえにいってあげる』

『ほんと?』

『うん、七瀬ちゃんをこわいひとからまもってあげる』

『うれしい。約束だよ!』

『うん、やくそく!』


 指切りした時の手の温かさと柔らかさは、嬉しい気持ちと一緒に今も心に残っている。


「……ねぇ、七瀬ちゃん」

「はい」

「いっぱい迷惑かけてごめんね。あの子には今までも苦労させてきたから。今回も航佑に頼っちゃってダメな親だね」


 悲しそうに笑うお母さんに、仕事の後にバイトをして疲れ切っていた関くんを思い出す。『少し疲れた』私の肩に顔を埋めて言った言葉を思い出す。


「……関くんは、きっとお母さんが関くんに頼らなくても助けようとしたと思います。関くんは、すごく優しいから。私は……何も出来ないけど。そんな関くんが好きなんです。あんなに優しい人に育ててくださったお母さんに感謝しています」

「……そう。あの子は誰にも頼らずに全部抱え込んじゃうから……。七瀬ちゃん、あの子のことよろしくね」


 辛い時に頼ってくれなくて寂しかった。これからも関くんは何かあったら私に心配をかけないように一人で解決しようとするんだろう。きっと、私が何を言っても。でもそれは今まで関くんが必死でお母さんと英佑くんを守ってきた証。関くんが優しい人だって、証。泣きそうになって、お母さんに頭を下げた。肩に乗ったお母さんの手は優しくて温かかった。

 切った野菜やお魚を持ってリビングに行くと、関くんと英佑くんは将棋をしていた。おじいちゃんが将棋が好きだったから懐かしい。私には難しくてよく分からないけれど。

 二人は私が来たことに気付いて将棋を中断してお手伝いをしてくれた。海苔の切り方で言い合っている二人はとても楽しそうで仲がよくて微笑ましい。


「いただきます!」


 テーブルを囲んで手を合わせたちょうどその時。ピンポーンと、インターホンが鳴った。英佑くんが出て、すぐに戻ってきた。後ろに女の子二人を連れて。


「航ちゃん!!」


 そのうちの一人が、目を丸くしていた関くんに飛びつく。ちょちょちょちょっと待ってどなたかな?!引きはがそうとする関くんに、彼女はなんと。


「な…………!」


 キスをしたのだ。何が楽しくて彼氏と他の女の子のキスシーンを見ないといけないのだろう。放心状態で魂が抜けてしまった私の肩を関くんが揺する。彼女を押し飛ばして。


「な、七瀬さん!今のは違う!今のは!」

「七瀬ちゃん、大丈夫?ちょっとこずえ姉ちゃん、兄ちゃんの彼女いるって言ったでしょ?」

「え、航ちゃんの彼女?い、今のは挨拶みたいなものなの、ごめんね?!」


 関くんの声。英佑くんの声。関くんにキスした美女の声。全部右から左に抜けていく。き、キスなんて、キスなんて……!


「七瀬さん。ちょっと一回俺のこと見て!」

「兄ちゃん、キスしたら戻るんじゃない?!」

「はぁ?!ここで?!」

「え、じゃあ航ちゃんの彼女に私がはじめましてのキスを……」

「うさぎは黙ってろ!」

「え、うさぎ?」


 突然我に返った私に全員の視線が向く。そ、そういえばさっき英佑くんがこずえ姉ちゃんって言ってた気が……。目の前の美女をじっくりと見つめる。顔は全然違うように見えるけれど、子どもの時から顔が全然変わっちゃうこともあるもんね。この人が、うさぎちゃん……。


「な、七瀬さん。もう大丈夫?」


 関くんが心配そうに聞いてくる。その途端さっきのキスが脳裏に蘇ってきて。私は白目を剥いてその場に卒倒した。



「……こっち帰ってきてたんだな」


 意識が浮上した時、最初に聞こえたのは関くんの声だった。途端にさっきのキスを思い出して胸がギュッと苦しくなる。多分あの感じだと、うさぎちゃんは誰にでも挨拶代わりにキスしちゃうんだろうけど……。やっぱり関くんが他の女の子とキスしてるのは見たくない。


「うん、やり残したことあったから」


 これは多分、うさぎちゃんの声だろう。二人が近くにいて、話している。何となく目を開け辛い雰囲気で、私はそのまま様子を窺った。


「向こうは楽しいよ。自分がすごく狭い世界で生きてきたことが分かる」

「……」

「航ちゃんもさ、言ってたじゃない。いつか外国に行きたいって」

「……」

「一緒に行こうよ」


 全然聞いたことのない事実に、ドクンと心臓が動いた。


「……美優ちゃんに聞いた。航ちゃんには忘れられない人がいるって」

「……いや、それは、」

「私のこと、覚えててくれたんでしょ?だって航ちゃん昔から私のこと……」


 衣擦れの音がする。二人が近付いているのが分かる。関くんには忘れられない人がいて、そしてそれはうさぎちゃんで。きっと二人は幼馴染みで、子供の頃から関くんがうさぎちゃんを忘れられないとしたら。……私に入る隙なんてあるんだろうか。

 よく分からないけれど、多分うさぎちゃんは外国に住んでいて。関くんもいつか外国に行きたいと思っていて。特に目標もなくただ毎日仕事をして生きている地味な私と、昔から一緒にいて、関くんの目標の先にいる人。比べるまでも……


「ちょっと、触らないで」


 でも聞こえてきた関くんの声は冷たかった。……あ……、これ女の子に冷たくなる時の……まさかね……


「勘違いしてるみたいだから言うけど、俺はお前を好きになったことないよ」

「で、でも美優ちゃんは私のこと忘れられないんだろうって……」

「勝手に人の気持ち決めないで。お前は俺にとってずっとただの幼馴染みだし、外国行きたいってずっと住みたいって意味じゃないし」

「そんな……」

「俺に彼女がいるの知ってるよね?その彼女の前でそんな話する無神経さも嫌だ」


 あ、相変わらずキツい……。どうすればいいんだろう。色々な情報が頭の中に一気に入ってきてパンクしそうだ。ギュッと目を瞑った時。関くんのらしい大きな手が髪に触れる。


「……俺は、七瀬さんと一緒にいられたらそれでいいよ」


 さっきと打って変わって優しい声。私の心を一瞬で落ち着かせてしまう声。頭を撫でる手は優しくて、泣きそうになってしまった。

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