あの日の君

 少しの沈黙の後、うさぎちゃんが部屋から出て行く気配がして。しばらくこのままでいようと思っていたら、関くんの指が耳を撫でた。


「……っ」


 ピクッと体が跳ねる。関くんの指は明確に、私の敏感な部分を撫でて……


「……七瀬さん、起きてるんでしょ」

「……!」


 ふっと息を吹きかけるように、関くんは耳元で囁いた。私は、さも今起きましたというようにゆっくりと目を開く。そして関くんのほうに顔を向けた。


「……っ」

「……七瀬さんって嘘つくの下手だね」


 クスクスと笑いながら、関くんの手が私の手を布団に縫い付ける。ゆっくりと顔を近付けてきて、一瞬躊躇った私に強引にキスをした。


「……七瀬さん、ごめん」

「んっ……」

「いっぱい洗ったし歯磨きも五回はしたから怒らないで」

「そ、それうさぎちゃんに失礼なんじゃ……」

「七瀬さん以外の女が傷付こうがどうでもいい」


 ふと真剣な表情になって、関くんはまたキスを落とす。この部屋はどこだろう。いつ誰が来るか分からないのに、キスなんてしてていいのかな。……でも、やっぱり気持ちいいや……。


「七瀬さん、あとさっきの話だけど」

「うん?」

「外国行きたいって言ったの、旅行で行きたいって意味だから。俺日本好きだし」

「う、うん……」

「ほんと何で俺の周りにはハタ迷惑な女ばかりなんだ」


 げんなりした顔で言う関くんに苦笑いする。目の前の女が一番ハタ迷惑な気がしますけどね……彼氏のキスシーンで卒倒するなんて……

 でも関くんはそれ以上言わなくて。一番大事なところは聞けなかった。忘れられない人。いるのかな。

 それを聞く勇気もなく、私たちはみんながいるリビングに戻った。大丈夫?!と口々に心配そうに聞いてくれるみんなに迷惑をかけたことを詫びながら、うさぎちゃんと百合さんを見る。う、噂に違わぬ美人姉妹だ……


「あ、あの、ははははははじめまして辻七瀬と申します!本日はお恥ずかしいところを……」

「ご、ごめんね!私が悪いから!」


 そう言ってくれたうさぎちゃんは心配そうな顔をしていて。さっきのことは気にしないようにしようと思った。関くんの毒舌にも特に落ち込んでいる様子はない。


「あ、あの、英佑くんに聞きました。親身になってアドバイスくれたって……」


 そう言ったのは百合さん。活発なのが表に出ているうさぎちゃんとは正反対で、百合さんは名前の通り白くて儚げな美少女だ。


「いいいいいえ、恋愛経験もほぼありませんのに偉そうなことを……」

「七瀬ちゃん、百合妊娠してなかったんだ」


 英佑くんの明るい笑顔に、私はそう、と微笑んだ。


「しつこいくらいに待ってたらようやく話聞いてもらえて。条件はあるけど付き合うこと認めてもらえたんだ」

「っ、そっか……!」

「航佑くんと七瀬さんのおかげです」

「俺は何もしてないよ」

「うん、頑張ったのは英佑くんだから」


 ニッコリ笑うと、二人は目を見合わせて笑った。うわあ、何だかすごく思い合ってるのが伝わってきていいな……。


「一人身なの私だけかー。彼氏欲しいなぁ」

「こずえ姉ちゃんは外国人の方が合うと思う」

「やっぱり?私もそう思う」


 英佑くんたちと笑い合っているうさぎちゃんは明るくて、気にしないでおこうと思ってもやっぱりさっきのことが気になる。うさぎちゃんは関くんのこと好きなんじゃないのかな……?


「そう言えばさ、七瀬ちゃん小さい頃にこずえ姉ちゃんに会ったことあるって言ってたよね」

「えっ」


 英佑くんの言葉にうさぎちゃんが反応して私の顔をじっくりと眺めてくる。何となく気まずく思って目をこっそりと逸らせば、「どこで?」と聞かれた。


「え、えっと、あそこの公園で……確か小学校一年生と二年生の時に……」

「七瀬ちゃんって航ちゃんと同い年?」

「い、いえ、二つ上でっす……」

「じゃあ私が幼稚園の時か……あ、私航ちゃんと同い年なの」

「あっ、そうなんですか……」


 うさぎちゃんは色んな角度から私をじっくり見て、そしてふっと息を吐いた。


「ごめん!覚えてない!」


 そ、そうですか……。 私の中でとても美しい思い出として残っているから、覚えられていなかったのはとてもショックだった。あの頃から印象の薄い地味な子どもだったのか……


「七瀬ちゃん、気にしないで。こずえ姉ちゃんが馬鹿なだけだから」

「失礼な!」

「め、滅相もございません、私が地味なだけですからお気になさらず」


 そう言って頭を下げた瞬間、うさぎちゃんが「あ!!」と大声を上げた。ビクッと体を揺らして頭を上げたらうさぎちゃんにガッと肩を掴まれた。ななななんてパーソナルスペースの狭い人なんだ怖い……!


「おじいさんが将棋上手な人?!」

「は、はい、まあ……」

「夏休みにちょっとだけ来てた人だ!」

「あ、はい、」

「ははーん、そういうことね」


 うさぎちゃんはニヤッと笑って、関くんを見た。


「私ね、うさぎのぬいぐるみをずっと持ってたからうさぎちゃんって呼ばれるようになったんだ」

「は、はぁ……」

「ちなみにそれは航ちゃんがくれたものなんだけど」

「はい……」

「その子、うさぎのぬいぐるみ持ってた?」

「……」


 薄れゆく記憶を必死で辿る。あの子はピンクの服を着ていた。短い髪にリボンを付けて、お人形さんみたいに可愛くて……。持っていたのは、……うさぎのぬいぐるみじゃない。


「フィギュア……」

「そう。男の子用のおもちゃだった」


 あ、あれは目の前にいるうさぎちゃんじゃなかったってこと……?頭が混乱して難しい顔をする私の肩に、誰かの手が乗る。


「七瀬さん、ちょっと二人で話そう……」


 それは関くんの手で。関くんは何故か赤い顔をしていた。首を傾げていると、ニヤニヤ笑っているうさぎちゃんが頷いた。私は関くんに手を引かれるまま二階へ上がる。リビングを出る時に後ろで「こずえ姉ちゃん、どういうこと?」とうさぎちゃんに尋ねている英佑くんの声が聞こえた。

 関くんの部屋に着いた途端、関くんは私のことを抱き締めて。戸惑う私の耳元で囁いた。


「これから話すことは全部真実だけど、引かないで聞いて」


 戸惑いながら頷くと、関くんは真っ赤な顔をしたまま押入れからアルバムを取り出した。


「俺の子どもの頃のアルバム、見てないでしょ」

「う、うん……」


 確かに中学校や高校のアルバムしかなくて。お母さんが探してもなかったって言ってた。それが、このアルバム……?関くんが開いてくれたアルバムを見て、絶句した。


「う、うさぎちゃんだ……!」


 そこに写っていたのは、男の子の服を着ている私の記憶の中の『うさぎちゃん』だった。急いで関くんを見上げると、関くんはさっきより真っ赤になっていて。まだ頭が混乱している。関くんは一つ深い深いため息を吐いた。


「……七瀬さんが子どもの頃に出会った『うさぎちゃん』は、俺なんだ」


 ……え?ちょちょちょちょちょっと意味が分からない!


「で、でも女の子の格好して……」

「……夏休み。うさぎの誕生日があるんだけど。子どもの頃から自由で厳しい家を嫌がっていたうさぎが、少しだけでいいから私の代わりをしてほしいって俺に頼んだんだ」

「……」

「だから俺は、うさぎの服を着てあの公園で遊んでた。もちろん、すぐにうさぎの母親にバレるんだけどアイツ毎日毎日懲りずに代われって言ってさ」

「……」

「でも俺も七瀬さんに会いたかったからうさぎの言うこと聞いてた。だから、ごめん。あれ、俺なんだ……」


 まさかの事実に頭がついていかない。私の初めての友達は、初めてできた大切な人は関くんだった。


「き、気付いてたの?私だって……」

「……うん、七瀬さん全然変わってないし。すぐ分かったよ」

「っ、な、なんで言ってくれなかったの?」

「……言えるわけないじゃん、女装してたなんて……」


 真っ赤になる関くんが、あの頃言ってくれた言葉を思い出す。


『いつか僕が七瀬ちゃんをむかえにいってあげる』

『七瀬ちゃんをこわいひとからまもってあげる』


 関くんはあの頃から、とても優しい人だった。


「七瀬さんは、俺の初恋の人だけど。もちろんずっと好きだったわけじゃない。俺の中でもいい思い出として残ってたけど、ずっと覚えてたわけじゃない」

「うん……」

「でも、七瀬さんは全然変わってなかった。優しくて、笑顔が可愛くて」


 関くんの指が頬を撫でる。小さなプクプクとした手が、ゴツゴツとした男性の手になって。でも変わらないと思う。優しい体温だけは。安心する体温。


「再会した時、思ったんだ。もう一度会えたのは奇跡だから……この奇跡を、手放しちゃいけないって」

「関くん……」

「七瀬さんが俺を覚えていなくてもいい。俺は子どもの頃のまま素直で優しい女性に育った七瀬さんを守りたいって」

「……っ」

「好きだよ」


 抱き寄せられて、関くんの胸に顔を埋めると泣きそうになった。今までの嫌だったことや悲しかったこと。全部消えたみたいだった。関くんは約束通り、私を迎えに来てくれたのだ。


***


「航ちゃんと七瀬ちゃんは運命の人だったんだね!」


 その後、私達を駅まで送ってきてくれたうさぎちゃんがそう言って笑った。二人とも照れ臭くて苦笑いを浮かべるしかない。うさぎちゃんは不意に寂しそうな顔になって、言った。


「なんかさ、やっと喉の奥につっかえてたものが取れた気がする」

「……」

「航ちゃん、七瀬ちゃん、幸せになってね!」


 きっと、うさぎちゃんは関くんのことが好きだったんだろうな。でも、明るさの中にその気持ちを押し隠して。微笑む彼女は綺麗だった。


「また日本に帰ってきた時は会おうね」

「うん」

「その時は航ちゃんよりずっとずっとかっこいい人紹介するんだから!」


 手を振るうさぎちゃんに頭を下げて、私は関くんの手を取って歩き出した。お母さんや英佑くんもまた来てねって言ってくれたからまた来たいな。景色を見て立ち止まれば、関くんが振り返る。


「ここは関くんに出会えた、大切な場所だね」


 そう言って笑うと、関くんも少し恥ずかしそうに笑ってくれた。

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