彼の目

「えっとまず、資料の入力からお願いします」


 気まずい。気まずすぎる。まさか雑務や初歩的な仕事の新人教育を任されるとは。


「いつもやってんのお前だろ」


 そんな簡単な理由で私を指名した部長を本気で恨む。一応抵抗はした。私は既に亜美ちゃんの教育を任されているし、亜美ちゃんは他より大分手の掛かる子だから、と。けれどもちろんその抵抗は聞き入れてもらえなかった。関くんと、もう一人の新人さん、横谷さんの教育係は私に正式決定した。


「センパイ、私あの女嫌いです」


 顔をしかめた亜美ちゃんが私の近くでそう言う。確かに清楚でお嬢様風の横谷さんは亜美ちゃんとは正反対のタイプだ。それに、関くんをロックオンした亜美ちゃんにとって、彼を下の名前で呼びさりげなくボディータッチをする横谷さんは気に入らないだろう。


「そんなこと言わずにさ、とりあえず仕事しよ?」

「本能的に嫌いです」


 ……分かったからまず手を動かそうか。


「辻さん、すみません」


 そう話しかけてきたのは関くんだ。無意識の内に緊張してしまう。けれどもちろん、関くんとの会話は仕事のことだった。



「航佑、ご飯食べに行こう」


 お昼休み、横谷さんは当たり前のように関くんを誘った。そこに無理やり食い込んだのは亜美ちゃんだ。


「えー、みんなで行きましょうよー。ね、センパイ?」

「えっ、私も?」


 驚いて固まる私に亜美ちゃんはウィンクをする。でも私はそこでハッとした。関くんと私のお弁当の中身が、全く一緒であることに気付いたのだ。絶対バレる。バレるととても困ったことになる。


「あっ、わ、私もうちょっとやっていこうかな!だから三人で行ってきて!」

「えーそうですかー?まぁ、センパイだけ全然年違うから会話に入ってこれないですよね。じゃ、行ってきます」


 ……亜美ちゃんとはひとつしか変わらないけどね。亜美ちゃんの言葉に顔を引きつらせながら、私は自分の席でお弁当を開いたのだった。



「では今日はこの辺で。お疲れ様でした」


 定時を少し過ぎた頃、そう言うと亜美ちゃんは真っ先に帰っていった。今日も合コンだろうか。


「お疲れ様です」

「お疲れ様」


 横谷さんと関くんも少し後に帰っていった。私はもう少し残業だ。関くん、晩ご飯はどうするだろう。料理が出来ないってことは、外食かコンビニ?……て、私には関係ないか。横谷さんと帰っていったし。よし、仕事しよう。そう思いPCに向き直った時。


「お疲れ様です」


 私のデスクに缶コーヒーが置かれた。振り向くと、さっき帰ったはずの関くんがいた。


「え、ど、どうしたの?」

「僕らに教えてくれてたから、自分の仕事残ってるんだろうなと思って」

「……っ」


 それはそうだ。そう、なんだけど。嬉しい、な。私を気に掛けてくれていたことが。喜んじゃダメなところだよね。部下に心配されるなんて。


「あり、がとう」


 ああ、でも。嬉しい。


「帰ってご飯作っときます」

「えっ、な、何を?」

「卵かけ御飯なら作れるから」


 ……それ料理じゃないけど。関くんが準備してくれるなら何でも美味しいかも。


「お願い」


 笑いを堪えてそう言えば、関くんは「はい」と笑った。



「ただいまー」


 結局家に帰れたのは9時を回った頃だった。お腹空いた。


「お帰りなさい」


 あ、こうやって迎えられるのいいかもしれない。関くんにバレないようにニヤニヤしながら、先にお風呂に入る。

 サッパリしてリビングに戻ると、テーブルの上にはご飯と卵と歪な形のキャベツと魚のお刺身が乗っていた。


「えっと、これは……」

「キャベツの千切りです」


 相変わらず自信満々だけど、これどう頑張っても千切りじゃない。でも関くんが頑張ってくれたのが嬉しくて。


「いただきます!」


 と手を合わせたのだった。

 関くんは私が帰ってくるまでご飯を食べずに待ってくれていたらしく、二人向き合ってご飯を食べた。


「まさか同じ職場だと思わなかったね」

「本当にビックリしました」

「ごめんね、上司と一緒の家なんて気まずいよね」

「いえ、全然。七瀬さんのことは全然嫌じゃない」


 関くんって、全部計算なのかな。職場では苗字なのに家では名前で呼ぶとか。職場ではきっちり敬語で一人称も「僕」なのに、家ではたまにタメ口で一人称が「俺」だとか。切り替えがちゃんとしているのはすごいけど、さっきみたいに甘い言葉を普通に言われると恋愛経験0だとすぐその気になっちゃう。


「そう言えば、横谷さんと仲いいんだね。いつから一緒?」


 話題を逸らそうとそんなことを言ってしまって、また後悔。これは明らかに干渉だ。ルームメイトとしても上司としても、こんなこと絶対聞くべきじゃない。


「ごめ、」

「気になる?」


 急いで発言を撤回しようとしたのに、関くんはそれを遮った。そして、反射的に顔を見てしまった私はその目に吸い寄せられるように。たまにする、関くんのあの目。涼しげな目元、その奥に色気とか欲望とか、ギラギラしたものが渦巻いているような、そんな目。目を逸らせなくなった私に、関くんが手を伸ばす。


「……アイツとは、大学が一緒なだけ。何もないですよ」

「そ、そうなんだ」


 長い指は、抵抗できない私の頬をスッと撫でる。そして。


「ご飯粒付いてます」


 ふっと笑った。かあっと顔が熱く、真っ赤になるのが自分で分かる。


「か、からかわないで」

「……七瀬さんはもっと、俺が男だってこと分かってください」


 どういう意味?固まる私に「風呂入ってきます」と言って関くんは行ってしまった。しばらく考えこんでも、その言葉の意味は分からなかったのだった。

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