新しい部下

「……あの、」


 関くんの顔を見つめたまま動かない私の顔を、関くんが覗き込んでくる。彼は大きな荷物を持っていて、それを何度も抱え直していた。


「あっ、えっ、えっと、あの、どうぞ」


 とりあえず入ってもらうことにした。関くんの反応からして、もしかして他人の空似なのだろうかと思った。だってはじめまして、って言われたし。でも名前も、顔も。この二年間、一度も忘れたことなどなかったから。多分本人。だとしたら、私……忘れられてる?

 彼は一昨日までみやちゃんが住んでいた部屋に荷物を置くとリビングに来た。


「こ、コーヒーでも淹れようか?」

「はい、いただきます」


 そんな会話をしてコーヒーを淹れ、ダイニングのテーブルに向かい合って座ったのだけれど。チラチラと関くんに気付かれないように様子を見ていたけれど、私に気付く素振りは見せない。関くんにとって、あんな風に一夜だけの関係を結ぶことは珍しくないのかも。それに、私地味だし。高校の同級生と同じように関くんも私のことを忘れてしまったのかもしれない。……ああ、嫌だな、なんて。逃げ出したのは自分のくせに。


「もうすぐ引越し業者が来ます」


 シーン、と静まり返っていた部屋。突然の関くんの言葉に私は大袈裟なくらい体をびくりと震わせた。


「あっ、そ、そっか。……で、でも珍しいね。こんな時期に引越しなんて」

「ちょうど研修が終わってこっちで家探してたら友達に紹介してもらえて」

「と、友達ってみやちゃん?」

「……?いえ、大学の友達です」


 ……ああ、みやちゃんのことも覚えていないのか。なら私のことなんて覚えてるわけないか。


「えっとね、悪いんだけど男の人とルームシェアってあんまり考えられなくて」

「……」

「そろそろ一人暮らししようかと思ってたし、私ここ出ようかな……」


 こんな状態で関くんと一緒に暮らすのは、辛すぎる。初めてを捧げた人に覚えられていないなんて。


「あ、じゃあ俺が他のとこ探します」

「えっ」

「後で来たの俺だし。新しいとこ見つかるまではここにお世話になるしかないけど」

「……」

「すみません。見つかるまでよろしくお願いします」


 ……何だか悪いことしちゃったかもしれない。でも、私には「いや、やっぱり一緒に住もう!」なんて言う勇気はなかった。俯く私と、黙ってコーヒーを飲む関くん。気まずい。私が悪いんだけど。

 ……もし。もしあの日私が逃げなかったら、彼とどうにかなっていなかったのだろうかなんて。考えても無駄なことを考えてしまう。カップを持つ長い指が。あの、涼しげなのに私に触れる時だけ熱く色気を纏った目が。……もしかしたら今でも、見られたのかもしれない、なんて。

 しばらく沈黙の中ひたすら耐えていたら、引越し業者が来て助かった。私はその隙に自室に戻った。少しとは言え、男女が一緒に住むのだからルールはちゃんと決めないとな。引っ越しが終わって少ししたら関くんにそう言おう。

 しばらくすると、家の中が静かになった。業者さんが帰ったみたいだ。私はそろりと自分の部屋を出た。そして関くんの部屋をノックする。でも返事はなく、どこかへ出かけたのだろうかと考えて。リビングをふらふらしていたら洗面所の電気が付けっ放しなことに気付いた。もしかして関くんがそこで何か片付けをしているのかもしれないと思って、「関くん」と言いながらドアを開けた。


「……!」

「……あ」


 そして、全裸の関くんと目が合った。


「ごごごごごめんなさい!!!」


 慌てて目を逸らしてドアを閉める。……見ちゃった。完全に見ちゃった。あの日、体を重ねた時はとにかく余裕がなくて頭がいっぱいで彼の体はほぼ見ていない。私に触れた指と、舌と、抱き締めてくれた二の腕だけはよく覚えているのだけれど。……まさかこのタイミングで下半身を見てしまうとは。もちろん、男の人のアレを生で見たのは初めてである(父は別)。かあああっと顔が熱くなってその場に立ち竦んでしまった。


「……あの」


 後ろから声を掛けられて、体をビクッと強張らせる。けれどもう服は着ているだろうと反射的に振り返った。……彼は裸だった。濡れた髪からポタポタと垂れる滴。逞しい二の腕。私を見下ろす、涼しげな瞳。一瞬で思い出す。あの夜のこと。


『七瀬ちゃん』


「七瀬さん」


 あの日、熱に浮かされた耳に届いた、少し掠れた声。今でも鮮明に思い出せるそれに、今目の前にいる彼の声が重なる。一瞬、彼の瞳に熱がチラついた気がした。でも。


「すみません、タオル出すの忘れて。まだ段ボールの中なんで貸してもらえませんか」


 それは私の気のせいで。必死で頷いたのだった。



「ほ、本当にごめんね……」

「いえ、俺の方こそ」


 またダイニングのテーブルに向かい合わせで座って。私はとにかく彼に謝っていた。何も考えずにドアを開けてしまったこと、そしてははははは裸を見てしまったこと。思い出して真っ赤になる私と、彼は無表情のまま。もちろん意識しているのは私だけで、彼はちょっとした事故だと思っているに違いない。


「こ、こんなことがこれからないように、ルールを決めたいと思ってるんだけど」

「はい」


 それから私たちは話し合い、いくつかルールを決めた。

 異性を連れ込まないこと。

 お互いに干渉しすぎないこと。

 お風呂と洗濯の時間をきっちり分けること。

 食糧には名前を書くこと。

 部屋には無断で入らないこと。などなど。これなら同じ家でもあまり会わずに済むかもしれない。みやちゃんと一緒の時は自室以外の掃除と料理は当番制だった。


「関くんは料理できる?」


 何も考えずにそう聞いて、関くんの表情が一瞬強張ったのでこれも干渉に入るだろうかと心配になった。ご飯は別々のほうがいいよね。そう思って「ごめん」と謝ろうとしたら。


「できません。全く」


 妙にハッキリと言うから思わず吹き出してしまった。


「そっか、できないんだ」

「はい。努力はしましたが全く」


 だから何でそんな自信満々なの。可笑しくて声を上げて笑ってしまう。関くんは少し恥ずかしそうに、本当に少しだけ口を尖らせていた。どうしよう、すごく可愛い。


「あのさ、よかったら私作ろうか?その代わりにリビングの掃除担当してもらっていい?」


 関くんは目を丸くする。ああ、またやっちゃったかな。そう思ったけれど。


「お願いします」


 嬉しそうに笑ってくれた。その笑顔にときめいただなんて、もちろん認めたくはないけれど。


 その夜、私は眠れない夜を過ごした。同じ屋根の下に関くんがいると思うとドキドキして眠れなかった。……関くん、更にかっこよくなってたな。二年経ったんだもん。大人っぽくなってて当たり前だよね。私は関くんの目にどう映っただろうか。……って、関くんは私のこと覚えてないんだった。胸がきゅうっと切なくなって息苦しくなる。二年かけて少しずつ消化していった想いが、また一瞬で戻ってきた。そんなことを考えていたら眠れなくて。私は布団に包まって必死で関くんの笑顔を頭から消したのだった。

 次の日、ダイニングで朝ご飯を食べていると関くんが部屋から出てきた。ワイシャツにネクタイ姿の彼はとても素敵で、気を取られて猫舌なのに熱いコーヒーを飲んでしまった。


「っ、熱っ!」

「大丈夫?」

「……っ」


 心配そうに顔を覗き込んでくる関くんの顔が、近い。慌ててコーヒーを置こうとしたら、目の前にいる関くんに手が当たって。バシャッとシャツに掛けてしまった。


「……!ご、ごめんなさい!」


 ああ、私昨日から何してるんだろう。タオルを持ってきて拭くけれど、全く取れる気配がない。


「大丈夫、新しいのに着替えるから」

「ごめんなさい、ごめんなさい。クリーニング代出すね。ていうか新しいの買う」

「七瀬さん」


 彼の胸を拭いていた私の手を、大きな手が包む。……ああ、もう簡単に。私の心臓は激しく動き出す。


「じゃあお詫びに、あのお弁当のおかずの残り貰っていい?」

「えっ」


 関くんの視線の先にはキッチンの、私が作ったお弁当の残り物。いつもみやちゃんの分も作っていたから多く作ってしまったのだ(ちなみにみやちゃんは私より朝に弱い)。


「も、もちろんいいよ!じゃあお弁当に詰めるね!」

「助かる」


 ふっと笑った関くんは至近距離で見ると破壊力抜群だった。

 関くんが着替えている間に、たまたま持っていた無地のブルーのお弁当箱におかずを詰めた。あれ、これ愛妻弁当みたいじゃない?と一人舞い上がっていたら、関くんがリビングに戻ってくる。


「あ、朝ご飯食べる?」

「うん」


 テーブルの上にご飯を用意してあげると、関くんはちゃんと「いただきます」と手を合わせて食べ始めた。お箸の持ち方といい姿勢といい、品の良さを感じる。何から何まで素敵だなぁと思った。


「じゃあ、俺そろそろ行くね」


 しっかり食べ終えたものを流しに運んで、彼は家を出た。……なんか、同棲生活みたいでいいかもしれない……。って、こんなことしてる場合じゃない!私も遅刻する!



「おはようございます」

「おはようございます」


 今日も職場の人と機械的な挨拶を交わすのみ。色々と雑務をこなしていると、亜美ちゃんが髪の毛をセットしながら話しかけてきた。


「辻先輩、今日本社で研修してた今年の新入社員が来るみたいですよー」

「へぇ、そうなんだ」

「本社で研修とか出世候補ってことですよねー。すごいなー」

「うん」

「イケメンだったらどうしよー。私ー、彼氏がいてももっと上の男に目が行っちゃうんですよね。あ、先輩に言っても分かんないか」


 キャハハと笑う亜美ちゃんに適当に愛想笑いを返しながら、仕事を続けた。

 部長が来て、ザワザワと周りがざわめく。さっき亜美ちゃんが言ってた新入社員の人が来たのかな。そう思いPCから目を離し立ち上がる。


「では朝礼を始めます」


 部長は30代後半の威厳ある男性だ。顔はとてもいいけれど、とにかく厳しいのであまり人気はない。亜美ちゃんも初めは狙おーと言っていたけれど諦めたようだ。部長の声に顔を上げて、私は固まった。部長の隣に、見覚えのありすぎる彼が立っていたからだ。彼も私を見て目を丸くする。

 「せんぱーい、イケメンですね!あ、私が先に見つけたんですよぉ!」なんて亜美ちゃんのひそひそ話も耳に入らない。同居人な上に、部下?しかも、彼は私が処女を捧げた人だ。……まずい。色々まずい。卒倒しそうになった。

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