第41話 レシピ本をつくりたい・8
あんなことがあったのに、以前と変わらず接してくれる。その優しい笑顔を見ると、心が満たされるような、しあわせな気持ちになる。
「おはよう、琴子。さっそく買い物に行くか」
「はい。これが必要なものです」
材料の名前と分量が書かれたメモを渡すと、アドリアンは目を通して頷いた。
「わかった。これを買えばいいのか」
「どこから行きますか?」
「たまねぎとひき肉……。ひき肉とはどういうものだ?」
「……ええと、細かく砕いたお肉です。市場で見たほうが早いかもしれませんね」
さすがに料理のレシピ本を買って料理をしようとする人間は、ひき肉くらい知っていると思うが、アドリアンが知らないのも無理はない。ふたりはまず精肉を販売している店に向かう。
「いらっしゃいませ……って、アドリアン様?」
店番をしていたマリアくらいの年齢の女性は、アドリアンを知っていたらしい。驚く彼女に、アドリアンは、ひき肉はどれかと尋ねる。
「色々とありますよ。豚肉とキリャ鳥、あとはロッカムの肉とか」
ロッカムとは、大型の猪のような動物で、その肉は牛肉のような味わいだったと思い出す。そして豚肉よりも高級な食材だった。
「琴子、どれがいいんだ?」
「そうですね……。ロッカムだけだとコストが上がってしまうから、混ぜて使いましょう。ロッカムのひき肉、豚肉のひき肉をそれぞれ百グラム、お願いします」
レシピにもそう記載しなければならない。琴子はメモを取り出して、そう記入する。
「あなたはたしか、マリアさんとこの」
肉屋の奥さんは、琴子のことを知っていたらしい。
「今度、彼女のレシピで本を出すことになった。その材料を買いに来たんだ」
「そうなのかい? それでひき肉を。あなたの料理は町でも評判だよ。だから肉を使ってくれるのは嬉しいねえ。だったら本を出す時期が決まったら教えておくれ。ひき肉を大量に仕入れないと」
たしかにレシピ本が発行されたら、作ってみようと思う人はひき肉を買いに来るだろう。琴子は彼女に提案をする。
「ロッカムと豚肉のひき肉を均等に混ぜた、合いびき肉って作れないでしょうか。そうしたら、買うほうも売るほうも楽になると思うのですが」
「そうだね。うん、そうするよ」
そうすれば、レシピにも合いびき肉を二百グラムと記載すればいい。アドリアンのように知らない人が買いにきてもすぐにわかる。
「次はたまねぎとパンを細かく砕いたもの、か。これは普通のパンでもいいのか?」
「できれば柔らかめのパンがあればいいんですが、繋ぎにちょっと使うだけなので、家で余ったパンなどを使ってもらえば。今日は買っていきますか?」
「ああ、パン屋にも寄ってみよう」
そこでもレシピ本の話が出て、パン屋の主人はパン粉というものに興味をもってくれた。昨日売れ残ったパンなどを細かく砕いて、少量ずつ販売してみるという。パン粉なら他の料理にも使える。今後もパン粉を使った料理を作ってみると約束して、次は野菜市場に向かう。
「たまねぎとミルク。あとはたまごか。これで大丈夫か?」
「はい。でもレタスやトマトを付け合わせにするといいかもしれません」
「レタスとトマトか。わかった」
材料をすべて買い揃え、店に戻る。琴子も一緒に作ってみようと思い、同じ材料を同じ分量、買ってみた。
「材料はすべてあるし、さっそく作ってみましょう」
「まずは手洗い、だったか?」
「はい、そうです。エプロンも忘れずにどうぞ」
料理を教えていたときから、あまり時間は経過していないのに、この空気が懐かしくてたまらない。手をよく洗い、エプロンをつけてから、ふたりで厨房に並ぶ。
「まず、たまねぎをみじん切りにします」
「わかった」
野菜を刻むのはもう慣れたものだ。たまねぎをみじん切りにして炒め、冷ましておく。それから材料をすべて混ぜ合わせ、ハンバーグの形に形成する。
「少し寝かせてから焼きましょう。ここまでどうでした?」
「そんなに難しくはなかったな。レシピ通りにきっちりと計って作れば、ここまでは失敗もしないだろう」
そう言っていたアドリアンだったが、焼くときに少し失敗をしてしまった。火加減が強すぎて、裏面が真っ黒に焦げてしまったのだ。ソースを作って試食してみたが、苦みが強くてあまりおいしくはなさそうだ。
「……琴子のはおいしそうだな」
一緒に作っていた琴子のハンバークはふっくらと焼き上がっている。
「食べますか?」
思わずそう尋ねると、アドリアンは少し思案したあと、頷いた。
料理教室をしていたときも、彼はマリアの作ったものしか食べなかったから、琴子の手料理を食べてもらうのは初めてだ。緊張しながら差し出すと、アドリアンは躊躇わずに口にしてくれた。
「そうか、本来はこんな味なのか。たしかにおいしいな」
そう言うアドリアンの姿を見ていると、涙が溢れてくる。
「琴子、どうした?」
「だってアドリアンさんが……。わたしの作った料理を食べてくれた……」
思わずそう言うと、強く抱き締められる。
「俺が琴子を信用していないわけがないだろう。今まで機会がなかっただけだ」
「だったらこれからも、わたしの作った料理を食べてくれますか? おいしいものをたくさん作りますから……」
「ああ、もちろんだ」
思わず彼の背に腕を回して、こちらからもしっかりと抱き締める。
きっとアドリアンはもう大丈夫だ。これからも食べられるものが増えていくに違いない。そう思うと嬉しくて、なかなか涙が止まらない。アドリアンは琴子が落ち着くまで、優しく抱き締めてくれた。
あれからアドリアンは何度も琴子と練習を繰り返し、ハンバークと野菜の煮物、クッキーまでマスターしてしまった。もう彼ではレシピの参考にならないかもしれないとマリアは苦笑したくらいだ。
そして二度目の企画提出に、琴子も同行してほしいとアドリアンは言う。
「え、わたしがですか? でも、王様に会うんですよね。わたしなんかが行ってもいいんですか?」
「もちろんだ。琴子はこの本の企画者で、俺は代理人にすぎない。それに王妃陛下が、琴子にとても会いたがっている」
「王妃様が……」
彼女のお陰でこうして平穏に暮らせている。会うことはないだろうと思っていたが、お礼を言うチャンスなのかもしれない。
「わかりました。ちょっと緊張しますが……」
「俺が一緒にいるから大丈夫だ」
戸惑いながらも承諾した琴子に、アドリアンは力強くそう言ってくれる。
「服装はこれでも大丈夫ですか?」
「ああ。国王陛下も王妃陛下も、その辺りはとても寛大なお方だ。町の者ともよく面談をしている。心配はいらない」
町の人達ともよく会話をしている王なら、礼儀がなっていないと激高することもないだろう。幾分気持ちが楽になって、琴子は頷く。
「はい。レシピ本の発行のため、頑張りますね」
翌日、琴子はさっそくアドリアンと一緒に王城に向かう。
(ああ、あそこで迷子になって、アドリアンさんに助けてもらったわ)
屋台に気を取られて迷い込み、暴漢に襲われそうになったことを思い出す。あの路地だったと覗き込んでみると、怪しげな者はおらず、代わりにきっちりと制服を着た騎士が見回りをしていた。これからもう、琴子のように恐ろしい目に合う人はいないに違いない。
そして役所の前を通り過ぎる。アドリアンに連れられて、ここで滞在の許可をもらった。余所見をしてぶつかってしまい、彼に抱き締められたことを思い出して、頬が染まる。あれから自分の気持ちも、アドリアンの存在も大きく変わった。以前ならまず彼の際立った容貌に目を奪われていたのに、今ではその優しい笑顔を見るたびに、心が切なくなる。
琴子は少し先を歩くアドリアンの後ろ姿を見つめた。
(わたしが初めて好きになった人が、アドリアンさんでよかった)
たとえ結ばれなくても、彼を忘れることはない。
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