第39話 レシピ本をつくりたい・6
(アドリアンさんは優しいから。もしわたしが落ち込んでいたら、気にしてしまうかもしれない。だったら普通に、いつも通りにしていないと)
難しいかもしれないけれど、明るく笑っていよう。
そう決心した琴子だったが、アドリアンはそれからしばらく、店を訪れなかった。どうやら任務で王都を離れているらしい。マリアにそう伝えられ、ほっとするよりも先に、不安になってしまう。
もうアドリアンは店に来てくれないのではないか。あの優しい笑顔を見せてくれないのではないか。そう悶々としながら、日々を過ごすこととなる。
秋は過ぎ、季節はもう冬になった。
雪こそ降らないが、早朝は震えるほど寒く、琴子は腰が痛むというマリアの代わりに水汲みや、薪を運んだりして忙しく働いていた。
アドリアンが店を訪れなくなったから、十日ほど経過している。
王都の外に出ていくほどの任務だから、そう簡単に終わるとは思えない。でも、もう二度とこの店を訪れてはくれないのではないか。そんな不安が何度も胸をよぎる。
まだ十日しか経っていないのに、もう会いたくてたまらなくなっている。あの優しい声で名前を呼んでほしい。そう思っている自分に気が付いて、自嘲気味に笑う。
(わたしにもう、そんな資格なんてないのに。それに、もし向こうの世界に戻ったら、本当に二度と会えなくなるんだから、しっかりしないと)
拳を握り締め、よしっと声を上げて外に出る。暖房のためにも薪はたくさん必要となる。両手いっぱいに薪を抱え、歩き出そうとしたとき、何かに躓いて転びそうになった。
「きゃっ」
両手が塞がっていたので、咄嗟に手を出すことができなかった。
衝撃を覚悟して、固く目を閉じる。でも、覚悟していた衝撃はなかなか訪れなかった。
(あれ、痛くない?)
誰かの腕が、琴子をしっかりと支えてくれていた。その腕が誰なのか、顔を見るまでもない。何度もこの腕に助けられ、支えられてきたのだ。
「アドリアンさん!」
「琴子、怪我はないか?」
もう二度と見られないと思っていた、優しい笑顔。それを見た途端、涙が溢れる。
「琴子?」
「……ごめんなさい。わたし、もう会えないかと思って」
会えただけで、泣いてしまうなんて思わなかった。恋というものは、随分情緒不安定になるらしい。
慌てて涙を拭い、無理に笑顔を作る。
「任務が少し長引いてね。不安にさせてしまったようだ。すまない」
いつもと同じ笑顔。優しい声。支えてくれる力強い腕に、不安だった心が宥められていく。
アドリアンは散らばった薪を拾い集め、運んでくれた。
「任務って、何だったんですか?」
危険なものだったのかと心配して思わず尋ねる。
「山に棲む獣が少し多くなって危険だから、騎士団で討伐してきただけだ。近隣の村が襲われると危険だからね」
「え、それじゃあ……」
「今年の冬は、キリャ鳥が普通に手に入るだろうな」
「嬉しい! ありがとうございます」
もちろん、討伐は近隣の村の安全のためだ。でも来年の春まで食べられないと思っていただけに嬉しくて、思わずそう言っていた。
「ようやく笑ってくれたな」
「……アドリアンさん」
「琴子はいつも通り、笑っていてくれ。俺はそれだけでいい」
その言葉が胸に痛い。本当は他の誰でもなく、自分がアドリアンをしあわせにしたい。でもそれができなくて、つらくなるのだ。
アドリアンが運んでくれた薪でかまどに火を入れる。鍋に水をたっぷりと入れて移動させようとしたら、それも運んでくれた。
「ありがとうございます」
「いや、これくらい。それより、レシピの話はどうなった?」
「それが……。一応、マリアおばさんにお話はしたのですが」
無償で教えるのはよくないと言われたこと、有償にするにしても、料理教室などは大袈裟な気がすることを話した。
「教室、か。琴子の国では、どういうふうにしていた?」
「聞かれたら普通に答えていましたし、みんなで会合のようなもので共有していました」
レシピサイトのことを思い出して、懐かしくなる。あれからもう二か月以上経過している。友人はサイトを運営してくれているだろうか。
「無償のものばかりだったのか?」
「いえ、料理教室みたいなものも普通にありましたし、あとはレシピ本ですね」
「本?」
「はい。料理の材料や手順などが、写真……じゃなくてイラスト付きで紹介されている本のことです。わたしも結構買っていました」
写真と言いかけた琴子は、この世界では見たことはなかったと思い、イラストと言い直す。
「そういえば、本は見たことがないです。この国にはどんな本がありますか?」
「基本的には、勉強のためのものだ。歴史や語学、民俗学などの本は多数出ている。あとは、娯楽のための物語などか少量。料理の本というのは、見たことはないな」
「本……」
レシピ本なら、どうだろう。琴子はふいにそう思い立つ。
購入すれば誰でもレシピを知ることができるし、誰かがそれを披露したとしても、調べたら本から得た知識だということは簡単にわかる。
「本を、個人で出すことはできますか?」
「そうだな。色々と手続きはあるが、不可能ではない。レシピを本にするつもりなのか?」
「ええ。わたしの国では多くの本が出版されていて、レシピ本もたくさんあったわ。それに本という形にすれば、わたしがいなくなったあともレシピは残るもの。アドリアンさん、本を作るにはどうしたらいいか、教えてもらえますか?」
もしこの世界から去る日が来ても、本は残る。ここにいた証が残せる。懇願するようにアドリアンを見上げると、彼は思案したあと、頷いた。
「まず企画書だな。本の内容と作る目的、そして具体的なレシピを書いた企画書を用意してほしい。俺がそれをもとに、掛け合ってみる」
「はい、わかりました。すみません、迷惑をかけてしまって」
「琴子は俺のために色々と手を尽くしてくれた。だから今度は俺が、琴子の願いを叶える番だ」
アドリアンは優しい声でそう言ってくれた。でも、その瞳に熱が宿ることは、もう二度とないのだろう。仕方がないとわかっているはずなのに、未練がましい心を自分自身で諫めて、琴子は笑顔でお礼を伝える。
「ありがとうございます。頑張って企画書を作ります」
「十日ほどしたら、また来る」
「はい。それまで用意しておきます」
そう答えた琴子にアドリアンは頷く。
「琴子もこれから本を作るために忙しくなるだろう。これからは料理を習うのではなく、本のための企画会議になるな」
料理教室はこれで終わり。そう言われて、本を作ることができる嬉しさに、浮かれていた心がすうっと冷えていく。
「え、でも……」
「俺ならもう大丈夫だ。琴子が教えてくれたことを、無駄にはしない。だから心配はいらない」
そう言われてしまえば、もう頷くしかない。それに、ずっと彼に料理を教え続けることはできないのだ。
「わかりました。これからよろしくお願いします」
「ああ。それじゃ、十日後に」
去っていくアドリアンの姿をあえて見ないようにして、琴子は朝食の用意をする。
「おはよう、琴子。今朝は寒いね」
ハムエッグが焼けた頃、ちょうどよくマリアが起きてきた。
「おはようございます。今、パンを温めますね」
昨日のパンを温め、ハムエッグとコーンスープで朝食をとる。
琴子はアドリアンが訪ねてきたこと、そしてレシピ本を作ろうと思っていることをマリアに告げた。
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