第38話 レシピ本をつくりたい・5
弱い人には優しく。だが、不正や卑怯な行為などはけっして許さない。そして過去の傷を乗り越え、前に進む力を持っている。
それだけの人が、料理しか取柄がなく、美人でも賢くもない自分を愛してくれた。
今まで恋をしていなかったのは、彼に会うためだったとさえ思える。
(でも、わたしはこの世界の人間じゃない……)
いつ、この世界から消えてしまうかわからない。
そんな状態で、誰かを愛することなんてできない。今までつらい経験をしたアドリアンには、誰よりもしあわせになってほしい。それなのに、愛する人が突然消えてしまったら、彼は探し続けるだろう。もうこの世界にはいないことなど知らずに、ずっと。
そんな思いをさせてはならない。
たとえ、どんなに琴子もアドリアンのことを愛していたとしても、頷くことなどできないのだ。
「……なさい。ごめん……、なさい」
声が掠れて、うまく話すことができなかった。
それでも琴子の意志は伝わったのだろう。アドリアンは一瞬だけ悲しそうに目を細めたが、すぐに笑顔になって頷いた。
「わかった。……困らせてしまって、すまない」
頬に触れていた手が離れていく。
「あっ……」
離れる温もり。その手に縋って、わたしもあなたを愛していると叫びたくなる。
でも彼のしあわせを願うなら、それはしてはならないことだ。
きっといつか、この世界に生きる美しく優しい女性が、彼を愛するだろう。これだけの人を放って置くはずがない。だから、これでいい。
「風が強くなってきた。そろそろ帰ろうか」
「……はい」
アドリアンは、いつもとまったく変わらず、優しかった。それがまた切なくて、琴子はずっと俯いたまま歩いていた。
「今日は、ありがとうございました」
店まで送ってもらい、そうお礼を言う。
「いや、俺のほうこそ、色々とすまなかった」
アドリアンが謝罪する理由なんて何もないのに、彼はそう言うと立ち去っていく。その後ろ姿をいつまでも見つめてしまう。我ながら未練がましいと思うが、せめて見つめるくらいは許してほしい。
そうしているうちに、店の前に小型の馬車が止まった。何か用かと思って首を傾げると、市場で買った野菜を配達してくれたらしい。
「ああ、ありがとうございます。えっと、代金は……」
「お支払いは前金で頂いていますよ。うちはすべて前払いですから」
「えっ……」
どうやらアドリアンが支払ってくれていたらしい。はっとして彼が去っていた方向を見るが、もうその姿は見えない。
(どうしよう。次に会ったとき、きちんと支払わないと)
仕方なく野菜を店内まで運んでもらうと、琴子は溜息をついた。代金は後払いと言ったのは、琴子に気を遣わせないためだろう。
「わたしには、こんなことをしてもらう資格なんてないのに……」
あんなに優しい人を、傷つけてしまった。それを思い出すと、胸が絞めつけられるように苦しくなる。きっとこの痛みを忘れることはない。
「……しっかりしなきゃ。せめて、マリアおばさんには心配も迷惑もかけないようにしよう」
頭を大きく振って、無理に気持ちを切り替える。
新鮮なうちに料理をしたほうがいい。そう思って、二階に行って着替えをしたあと、運んでもらった野菜を並べる。
「さつまいもはスィートポテトにしよう。あと、この大きいトマトみたいな野菜と、ゴーヤみたいな苦い野菜は、マリアおばさんが帰ってきてから調理法を聞こうかな」
さっそく大きなさつまいもを茹でて、裏ごしをする。かぼちゃも下茹でをして、ペースト状に。明日のデザートは、かぼちゃのチーズケーキにするつもりだ。
「うん、よし。頑張ろう。わたしには料理しかないんだから」
いつもなら、どんなに気持ちが落ち込んでいても、料理をしていれば心が軽くなった。料理をしているときだけは、無心になれる。それなのに今日は、帰り際に見た、アドリアンのどことなく寂しそうな笑顔が、胸に焼きついて離れない。
バターを溶かして、裏ごしをしたさつまいも、牛乳、砂糖を入れて混ぜ合わせながらも、気持ちが落ち着かない。
こんなにつらいなら、早くもとの世界に帰りたい。でも、会えなくなるのもつらい。そもそも、どうやって帰ったらいいのかもわからないのに。
「わたし、どうしたらいいのかな……」
涙が滲みそうになったとき、マリアが帰ってきた。
「あ、マリアおばさん。おかえりなさい」
「ただいま。琴子は早かったね。市場に行ってきたのかい?」
「はい。アドリアンさんに連れて行ってもらいました。でも、後払いって聞いたのに、料金が支払われていて」
そのことを話すと、マリアは少し困ったように笑う。
「相手はアドリアン様だからね。御厚意はありがたく、受け取っておくしかないと思うよ」
彼からしてみたら、微々たる金額だ。琴子も戸惑いながらも、頷くしかなかった。
「でも、色々と買ってきたみたいだねえ」
「はい。知らない野菜もあったので、教えてもらいたくて」
マリアは帰ったばかりだというのに、琴子に付き合って野菜の名前、味、そしてレシピをたくさん教えてくれた。そうしているうちに、ようやく落ち込んでいた気持ちも浮上してくる。
「レシピといえば、屋台でこんなものが売っていたんです」
シフォンケーキとクッキーの名で売られていたお菓子を鞄から取り出し、マリアに見せる。
「これなんですが……」
マリアはそのお菓子を見て、顔を顰める。
「ああ、噂には聞いたことがあるよ。クッキーとシフォンケーキの模倣品だね。味はどうだった?」
「味というか、まったく別物でした」
マリアも試食してみて、頷いた。
「そうだね。固いし、こっちは全然ふわふわしていないし、琴子の作ったものとは大違いだ。これならじきに買う人もいなくなって、売られなくなると思うよ。気になるかもしれないけど、それまで辛抱するしかないね」
「いえ、作られるのは別に構わないんですが、全然違うものがこの名前で売られているのが、ちょっと気になるっていうか。どうせならレシピを公開してもいいかなと思ったんですが」
同じようなものがたくさん作られるようになれば、他とは違うアレンジを加えたり、製法を工夫する者が出てくる。そうなれば、料理の幅はもっと広がるし、選ぶ人も楽しいと思う。そう伝えたが、マリアは難しい顔をして考え込んでいる。
「駄目でしょうか」
「いや、駄目っていうことはないよ。レシピは人の手で成長するものだからね。ただ、無償で教えるのはお勧めできないねぇ。普通は代々、家庭や店に受け継がれるものだ。それ以外で教えてもらおうと思ったら、それなりの対価が必要となるからね」
「そう……ですか」
マリアにはたくさんのレシピを教えてもらった。だから琴子も簡単に考えていたのだ。
「だからね。もし琴子が無償で教えたら、それを誰かに有償で教える人が出てくるかもしれない。そんなことになったら、琴子のレシピは誰かのものになってしまう。それくらいなら、最初から有償で教えたほうがいいよ」
「有償……」
それこそレシピサイトで普通に教え合っていたときと同じような感覚だったので、対価をもらって教えるとなると、戸惑いのほうが先に出る。
「料理教室をしてみるのもいいと思うけど、そういう教室に通うのは、良家のお嬢様とかだね。まあ、アドリアン様に相談してみたらいいよ」
「アドリアンさんに、ですか」
今日のできごとを思い出して、胸が痛む。
「そうだよ。アドリアン様は、琴子の保護者だからね」
「……そうですね」
俯いたまま、琴子はそう答えた。
でも、これから彼とどんな顔をして会えばいいのかわからなかった。
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