第37話 レシピ本をつくりたい・4
「そうだな。ここから少し歩いたところに、大きな湖がある。そこに行こう」
手を差し伸べられ、素直に握る。
農場から町とは反対側の道を歩いた。この道は遊歩道なのか、きちんと整備されているようだ。ふと人の気配を感じて顔を上げると、かなり前方にふたりの人影が見える。寄り添いながら歩いている。どうやら恋人同士のようだ。
(もしかしてここって、デートスポットだったりする?)
でも王都から近く、見晴らしの良い景色の綺麗な場所など、どこを選んでもデートスポットになってしまうに違いない。自分とアドリアンも恋人同士に見えるかもしれない、と思ってしまったところで、慌てて首を振る。
(違う違う。わたし達はただ、休日を満喫しにきたワーカホリックだから)
「琴子?」
「い、いえ。何でもないです」
手を繋いでいるから悪いのだと、離して歩こうとするが、整備された遊歩道のはずなのに小石に躓いて転びそうになってしまった。
「きゃっ」
「危ない」
もちろんアドリアンが危なげなく支えてくれる。
「ごめんなさい」
「危ないから、ひとりで歩かないほうがいい」
そう言って手を差し伸べられる。
たった今転びそうになってしまったので、必要ないと言うこともできずに、素直に彼の手を握った。結局、自然と前方にいる恋人同士と同じように、寄り添いながら湖への道を歩く。
やがて湖が見えてきた。
大きくて広いが、向こう岸が見えないほどではない。この湖を取り囲むようにして、遊歩道が続いている。途中には東小屋も設置されているようだ。
「歩くか?」
「いえ、ちょっと休みたいです」
そう言ったのは、先客の恋人達が遊歩道に向かって歩いて行ったからだ。恋人同士がいちゃついているのに、そのすぐ後ろを歩くのは、ちょっと遠慮したいところだ。
結局、東小屋に入り、そこで休憩をすることにした。
「寒くないか?」
「はい、大丈夫です。紅葉が綺麗ですね」
湖を取り囲むようにして森があり、ちょうど紅葉していてとても綺麗だった。木から落ちた葉が湖に浮かび、緋色の絨毯のように見える。
東小屋には木造りの椅子とテーブルがあり、ふたりはそこに並んで座った。
何を話そうかと思案していると、アドリアンが声をかけてきた。
「琴子には、兄妹はいるのか?」
「はい。兄がいます」
「兄か。琴子に似ているのか?」
「いいえ、わたしと違って大きくて逞しくて、でもとても優しい兄です。もう結婚していて、一緒には暮らしていなかったんですが」
「……そうか」
琴子の答えにアドリアンは頷き、視線を湖の方向に向けた。思わず彼の視線を辿ると、さきほどのカップルがじゃれ合いながら歩いているのが見えた。
「もう顔も忘れてしまったが、弟と妹がいた。俺とは半分しか血の繋がりはないが、弟は父によく似ていた気がするな」
「半分って……。じゃあアドリアンさんのお母様は」
実の母ではないのか。そう尋ねると、アドリアンは首を振る。
「母の子どもは俺ひとり。弟と妹は、父の愛人の子どもだ。愛人だった女性が亡くなり、父に引き取られたらしい」
「え……」
だとすると、アドリアンの母は実子である彼ではなく、愛人の子である弟のために、彼を殺害しようとしたのか。
「どうして、そんなことを」
「母は、父を愛していた。それこそ狂信的なくらいにね。それほどまで愛している父に愛人がいて、さらに子どもがふたりもいたことに、正気を失うくらいショックを受けたようだ」
「そんな……」
アドリアンは湖に浮かぶ落ち葉を見つめながら、淡々と話す。
「そのうち、父によく似た弟を自分の子どもであり、ほとんど母と過ごすことのなかった俺を、愛人の子だと思い込み始めた。どうしてそうなかったのかわからないが、俺はあまり、父と似ていなかったからね」
そうして、愛人の子に家を継がせるわけにはいかないと、子どもだったアドリアンを殺害しようとしたのだと言う。
我が子を殺そうとしたアドリアンの母はもう正気を失っていた。父は、妻をそこまで追い詰めてしまっていたことに、そのとき初めて気が付いたのだ。その償いをすべく、今はアドリアンの母とともに、地方の領地で静かに暮らしている。
もちろん、息子を殺害しようとしたアドリアンの母には罪がある。だが、彼女は夫を愛するあまり、正気を失っていた。
その原因を作ったのは父だが、愛人と子どもの存在を知られたとき、妻は笑顔でそれを承諾し、引き取った子ども達を心から慈しんでくれていたから、まさか心を病むほど思い悩んでいたなんてまったく知らなかった。
アドリアンの異母弟と異母妹も、社交界に出ることもなく、地方で生涯を過ごすつもりなのだと言う。
犯そうとした罪。
気付けなかった罪。
生まれてきてしまった罪。
それぞれの罪を抱えて、彼らは地方で身を寄せ合って生きている。
そして王都には、心に傷を負ったアドリアンだけが残された。
その彼をずっと世話していたのが、マリアの姉であるミリアなのだ。
アドリアンが自分のことをあまり顧みず、淡々と生きていたのも無理はないと思ってしまう。
「すまない。嫌な話を聞かせてしまったな」
「そんなこと」
琴子は首を横に振る。
たしかにつらい話だったが、それもアドリアンが生きてきた軌道だ。嫌な話だなんて思うはずがない。
「俺にとって食事は煩わしいものだったし、愛は人を罪に落とす恐ろしいものだった。だが琴子に出逢って、俺の世界は変わった」
「わたしと?」
「そうだ。琴子は料理をするときも、食事をするときも本当にしあわせそうだった。他の誰かにとってこれほど大切なものを、疎かにはしたくないと思った。それに料理も、なかなか楽しいことに気が付いた」
淡々としていたアドリアンの声が、優しいものに変わっていた。
「料理、楽しかったですか?」
暴走してしまったことは自覚している。
だから彼も、自分のために色々と考えてくれる琴子の提案を断れなくて、付き合ってくれているのだと思っていた。それなのに楽しいと言ってくれたことが本当に嬉しかった。
「ああ。琴子が作っているところを見るのも好きだ。そして琴子は、俺に愛は恐ろしいだけのものではないと、教えてくれた」
ふいに手を伸ばしたアドリアンが、琴子の髪に触れる。
優しく、愛おしむようにそっと撫でた。
「姿を見るだけで、声を聞くだけで、心が浮き立つ。触れると、胸が苦しくなる。琴子が愛しい。誰よりも、何よりも」
「……アドリアンさん」
今まで、誰かにこんなにも愛されたことなどない。両親や兄の愛とは違う。自分のすべてを包み込んでくれるような、深い愛。その愛に、身も心もすべて浸られたら、どれほどのしあわせを感じることができるだろう。
(ああ、わたしはもうとっくにアドリアンさんのことを……)
恋の仕方がわからないと嘆いていた。レシピがあればいいのに、などと思ったこともある。でも本物の恋は、ある日突然、胸に宿るものだった。方法も、攻略法も何もない。そのことに、今になって気が付くなんて。
祈るような瞳で、琴子を見つめているアドリアンを見上げた。
琴子よりもずっと高い背。黒に近い、濃い茶色の髪。透き通った宝石のような、緑色の瞳。外見も、今まで見た誰よりも整っているが、彼の本当の価値はその内面だと思う。
他人のために、生きることができる人だ。
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