第36話 レシピ本をつくりたい・3
「す、すみません。余計なことを……」
「いや、ひとりで外に出る女性を気遣うのは良いことだ」
アドリアンは慌てる青年に穏やかにそう声を掛け、さりげなく琴子の手を取って歩き出す。
「行こう。市場は向こうの方角だ」
「あ、はい。気遣ってくれてありがとう。またお店に来てね」
そう声を掛け、アドリアンと一緒に歩き出す。残された青年は、呆然とその姿を見つめていた。
「彼とは、親しいのか?」
「え、あの人ですか? いつも来てくれる常連さんなんです。パンケーキが好きで。そういえば名前も知らなかったですね」
「……そうか」
アドリアンはどことなく安堵した様子で頷くと、大通りから少し外れた農道のような道を示す。
「ここをまっすぐに行くと、市場だ」
両脇に畑があり、道はその真ん中をまっすぐに通っていた。
舗装されていない土の道。荷車を引いたような跡が、あちこちに残っている。道は畑の間から小高い丘の奥に続いていた。どうやらあの丘を降りたところに、目的の市場がある。
市場といえば早朝からやっているようなイメージだが、ここは昼から開催しているそうだ。
「朝に収穫した野菜をその日の昼に市場で売るらしい。新鮮さが売りで、かなり賑わうらしいな」
「それはすごいですね。どんな野菜があるのかなぁ」
両側の畑には、かぼちゃやさつまいもなど、秋の野菜が植えられているようだ。
(そっか、季節によって野菜もまた違ってくるよね。今は秋のもの。春と夏には、違う野菜が植えられるんだろうなぁ)
とても楽しみで、少し浮かれていたのかもしれない。
「琴子!」
名前を呼ばれ、ふいに強く引き寄せられた。
「きゃっ」
バランスを崩して、アドリアンの胸に飛び込んでしまう。慌てる間もなく、今まで琴子がいた場所を、馬車が高速で通り過ぎて行く。
「危なかった。大丈夫か?」
「……」
力強い腕にしっかりと抱き締められ、思わずぼうっとしてしまう。
(アドリアンさんの腕、温かいな……)
以前、転びそうになった琴子を今のような感じで助けてもらったことがあった。
あれは、出逢ってまだ間もない頃だ。
あのときは、ただイケメンに抱き締められるなんてラッキーだった、としか思えなかったのに。
今は、その腕の中にいることを心地良く感じていた。温かくて、安心できる唯一の場所だなんて思う。
ふたりで過ごした時間が多くなるにつれ、琴子もアドリアンに惹かれていたのかもしれない。
(だめだよ。わたしはこの世界で恋なんてできないのに……)
「琴子?」
思わず首を振ると、アドリアンが心配そうに名前を呼ぶ。
「ごめんなさい。わたし、初めての市場でちょっと浮かれてしまって」
慌ててそう言って、アドリアンの腕の中から抜け出す。
「いや、こんな農道を馬車で走るほうが悪い。……紋章は見えなかったが、あとで確認しておくか」
アドリアンはそう言いながら、馬車が走り去っていった方向を見つめる。
彼の視線は鋭く、もし琴子が少しでも怪我をしていたら許さないとでも言うような雰囲気だった。自分のために、怒ってくれている。そう思うと、恋なんてできないと思ったばかりなのに、胸がどきりとしてしまう。
それから彼は、思わず手放してしまった鞄を拾い、泥を拭ってくれた。
「あっ、そんなこと。アドリアンさんの手が汚れてしまいます」
「気にしなくていい。それよりも、歩けるか?」
「……はい。大丈夫です」
鞄を手渡され、ほんの少し指先が触れただけで、過剰に反応してしまった。
「ごめんなさい、ありがとうございました」
あきらかに不自然な様子の琴子に気付いているだろうに、アドリアンは何も追及せず、ただ一緒に歩いてくれた。
やがて、舗装されていない農道が少しずつ大きくなっていく。丘の向こう側が見えてきた。そこに人がたくさん集まっている気配を感じ、琴子は顔を上げた。
「うわぁ」
目の前の景色に、思わず声を上げる。
カントリー風の大きな小屋があり、その建物の前に大勢の人が集まっていた。みんな野菜を買い求めているようだ。木箱がいくつも積まれ、周囲にはたくさんの野菜が並べられている。琴子は先ほどまで悩んでいたことも忘れて、声を上げる。
「や、安い。たまねぎが二十リラ。ノーシェもあるし、かぼちゃもお買い得価格だ!」
思わず小走りになって、まだ土のついた瑞々しい野菜を眺めた。
「おお、大きなさつまいも! スィートポテトを作るのにいいかもしれない。そうだ、かぼちゃもチーズケーキに入れたい」
「琴子、この木箱に買いたい野菜を入れて、向こうで清算するらしい」
「はい。ありがとうございます」
ミカン箱くらいの大きさの木箱に、さっそくさつまいもとかぼちゃを入れた。
木箱はアドリアンが持ってくれたので、琴子はじっくりと野菜を吟味する。
「これ、見たことないなぁ。何だろう?」
トマトよりも大きめの、赤い野菜。持ってみるとずっしりと重いが、皮は簡単に剥けそうだ。
(買ってみて、帰ったらマリアおばさんに聞いてみよう)
それから、もうすっかり馴染んだこの世界の野菜、ノーシャとピーレも買い込む。
「あと、あの紫色の野菜は何かしら」
「イスカかい? あれはちょっと苦いから、食べるときは薄切りにして塩もみをする。それから水に浸すと、おいしく食べられるよ」
野菜を並べていた女性がそう教えてくれた。
「色は違うけど、ゴーヤみたいな野菜かな。すみません、それもひとつください」
その後も次々に気になった野菜を入れていく。気が付けば、木箱はいっぱいになっていた。
「ごめんなさい。つい夢中になって。重い野菜ばっかり……」
「いや、これくらい何でもない」
我に返って謝罪したが、アドリアンは少しも重そうにしていない。軽々と運ぶその姿に、思わず見惚れてしまう。
(最初に会ったときより、少し逞しくなったような。一緒に作っていた食事のお陰かな。だとしたら、嬉しいな……)
もしこの世界を去るときが来ても、何か残せるものがあるのは嬉しい。ましてそれが、惹かれている人にならなおさらだ。
そんな感傷に浸っていると、アドリアンが木箱を持ったまま話しかけてきた。
「琴子、向こうで宅配の受付をしてくれるそうだ。頼んでくるから、少し待っていてくれ」
「あ、はい。代金は」
「受け取りのときでいいようだな」
「わかりました。お願いします」
アドリアンが受付をしてくれている間、琴子はもっと珍しい野菜がないか、市場をうろうろとして過ごした。
そうして荷物を預け、品物もほとんどなくなった市場をあとにする。
帰り際、アドリアンは止めてある馬車を見つけ、じっと見つめていた。琴子はそんなアドリアンを急かして、市場から出る。怪我もしていないのだし、あの馬車が誰のものでもよかった。
「楽しかったです。ありがとうございました」
「そうか。ここならいつでも連れて来るよ」
「はい。そのときはお願いします」
嬉しそうに頷く琴子を、アドリアンは目を細めて、優しい顔で見つめてくれる。
何だかそんなアドリアンを見ているのが切なくなって、琴子は視線を反らす。
「さて、これからどうする?」
「ええと、景色の良い場所なんかあれば、そこでひと休みしたいかなぁって」
計画していた通りにそう告げると、アドリアンは頷いた。
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