第34話 レシピ本をつくりたい・1

 その日は、月に四回ある店の定休日だった。

 マリアが娘と孫に会いに行く日であり、琴子にとってはアドリアンと町に出かける約束をした日でもある。

琴子は早起きをして念入りに身支度を整えた。

屋台に行くだけとはいえ、やはりあのアドリアンと並んで歩くのだ。ある程度は、綺麗にしていたい。銀細工の髪飾りを付けていこうかとも思ったが、人の多い場所に行くのだから危険だと思い直す。なくしたら大変だ。

「それじゃあ琴子、先に行くね」

 そう言って慌ただしく店を出ようとしたマリアは、見送りに出た琴子を見て、ふと足を止めた。

「……琴子」

「はい」

「大変かもしれないけどね。琴子が決めたことなら、私は応援するよ」

「えっ?」

 何の話だろうと首を傾げるが、マリアはひとりで納得したように頷いている。

「アドリアン様なら、琴子を泣かせるようなことはけっしてなさらないよ。何も心配いらないからね」

「え? あの、待ってください!」

 忙しそうなマリアを呼び止めるのは申し訳ないが、何やら激しく誤解していそうな気がする。思わず必死に呼び止めた。

「マリアおばさん、いったい何を……」

「何って、もちろんアドリアン様とのことだよ。未婚の女性が男性と出かけるなんて、恋人でもなければあり得ないからね」

「あっ、そういう……」

 どうやらマリアは、アドリアンと琴子が恋人になったと勘違いしていたらしい。

つい日本と同じ感覚で承諾してしまったが、こちらの女性はたとえ友人でも男性と出かけることはないようだ。迂闊だったと、慌てて否定する。

「違うんです。わたしの国では、未婚の男女でも友人なら一緒に食事をしたり出かけたりするんです。だから、それと同じ感覚で承諾してしまって。恋人だなんて、そんなことはないので」

「おや、そうだったのかい」

 勘違いしていたことに気が付いたマリアは、すまないねえと謝ったあとに、ふと真顔になった。

「でも、アドリアン様なら何の問題もないと思うけどねえ」

「もちろんありません。問題があるのはわたしのほうですから」

 まだ何か言いたそうなマリアだったが、娘と孫が待っているらしく、そのまま急いで出かけていった。

琴子はマリアを見送ったあと、思わず溜息をつく。

「どうしよう。断ったほうがいいのかな……」

 約束をした日からずっと楽しみにしていた。

でも、一緒に出かけたら恋人同士だと思われてしまうと聞けば、さすがに躊躇ってしまう。それに、アドリアンがどういうつもりで琴子を誘ったのかも気になる。

「ちゃんと話をして、一緒に行けませんって断るしかないよね……」

 今日はひとりで、いつもの休日のように料理の試作品などを作って過ごそう。そう決めて、服を着替えようと思ったそのとき、予定よりも少し早めにアドリアンが店を訪れた。

「琴子」

「アドリアンさん」

 あいかわらず、拝みたくなるくらいのイケメンだった。明るい笑みを浮かべてそう呼びかけるアドリアンに、どう話したらいいのかわからずに俯く。

「どうした?」

「……あの。わたし、知らなくて」

「どうした?」

 とにかく正直に話して謝るしかない。

「マリアおばさんに、未婚の男女は恋人同士でなければ一緒に出かけたりしないって聞いたんです。でもわたしの国では友人同士でも問題なかったものだから、知らなくて。だから、あまり深く考えずに返事をしてしまったというか」

 必死に言葉を紡いでいると、理由を察したらしいアドリアンが、ああ、と頷いた。

「心配しなくても大丈夫だ。たしかに昔はそういう考えだったらしいが、今は普通に友人同士でも出かける。王妃陛下がその辺りに熱心で、もっと女性が自由に生きられる国にしたいと仰せのようだ」

「……そうだったんですか」

 だからアドリアンも、そう深い意味もなく誘ったようだ。自意識過剰だったと、琴子は恥ずかしくなって俯く。

「ごめんなさい。わたし、勝手に暴走してしまって」

「いや、マリアにそう聞いたのだろう? 昔はかなり厳しかったらしいから、マリアがそういう考えでいてもおかしくはない。ただ、俺は琴子が他の国で生まれ育ったことを知っている。だから、何の説明もしないで何かを強要することはしない。安心してほしい」

 真摯な声に、琴子も安心して頷いた。

 こんなに優しいアドリアンが、琴子を騙すことなど絶対にないだろう。

「はい。ありがとうございます」

「問題が解決したところで、行くか。まずどこに行きたい?」

「屋台って、朝からやっていますか?」

 楽しみにしていた分、行けないかもしれないと思って落胆していた。でもこうなったら、とことん楽しんだほうがいいと開き直る。

「ああ、やっている」

「じゃあそこに行きたいです!」

 そう声を上げると、アドリアンは目を細めて頷く。

「よし、まずは屋台だな。そのあとはどうする?」

「王都の外でも大丈夫ですか?」

「ああ、問題ない」

 最初に出逢ったとき、マリアが行っていたという農場近くにある市場。興味があって、ずっと行きたいと思っていた。でもそれは王都の外で、ひとりで行くとその場所を告げると、アドリアンは少し思案したあと、頷いた。

「ああ、それはカヤックの農場だな。そんなに遠くはない。行ってみるか」

「はい! あ、でも、わたしの行きたい場所ばかり……」

 しかも食べ物に関するところばかり。以前よりも食べられるようになったとはいえ、アドリアンが出かけて楽しい場所とは思えない。

 でも躊躇う琴子に、彼は心配ないと明るく言う。

「いや、俺はいつもと違う日を過ごしたいだけで、別に目的があるわけでもない。それに、琴子の買い物に付き合う休日も楽しそうだ」

 そう言って先に歩き出したアドリアンの後を、慌てて追いかける。

「あ、待ってください!」

 小走りで駆け寄る琴子を、足を止めて待ってくれたアドリアンと並んで、大通りに向かって歩いた。大通りまで出てから、屋台の立ち並ぶ路地に入る。

 そこは朝から大勢の人達で混み合っていた。

どうやら大通りにある宿屋に泊まった人達が、朝食を求めてここまで来ているようだ。旅人はやはりほとんどが男性らしく、小柄な琴子は人混みに流されそうになってしまう。

「琴子、こっちだ」

 行きたい方向とは反対に連れて行かれそうになり、咄嗟にアドリアンが差し出してくれた腕に掴まる。彼はやはり騎士だけあって、この人混みの中でも流されることなく平然としていた。さらに、琴子を庇って歩き出す。

「さすがにこの時間は混み合っているな」

「はい。びっくりしました」

 人混みには慣れているので問題ないと思っていたが、男女が入り混じったものと、屈強な男ばかりのものとはまったく違う。

(圧し潰されるかと思ったぁ……)

 屋台に興味を持つ琴子にマリアは、朝は行かない方がいいと繰り返し言っていた。てっきり治安が悪いのかと思っていたが、どうやらこの混雑が原因らしい。

(たしかにこれじゃあ、屋台で買い物をするどころじゃないかも)

 とはいえ、屋台が空くのを待っていたら、ほとんどのものが売り切れてしまう。アドリアンに連れてきてもらって本当によかったと、安堵した。

 琴子を庇って歩くアドリアンは、休日なので私服姿だ。彼ほど容姿の整った人間はこの世界にもあまりいないようだから、顔を見ればあの騎士団長だと気が付く者もいるかもしれない。でも屋台の通りでは誰もが必死で、人の顔を見る余裕のある者はいない。だから、彼が騎士団長だから道を開けているわけではないのだろう。

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