第33話 騎士団長と料理教室・5
最初のきつい言葉も、マリアを守るため。そしてきちんと手続きをすることは、琴子の身を守ることにも繋がった。真面目で優しく、誠実な彼に、今では琴子も好感を抱いている。
「わたしもマリアおばさんも、アドリアンさんのことが好きなんです。だから、お役に立てて嬉しいです」
「……そうか」
何とか感謝の気持ちを伝えようと、必死にそう伝える。
そんな琴子をアドリアンは目を細めて見つめ、ふいにその手を伸ばした。向かい側に座っていた琴子の、頬に掛かっていた黒髪に優しく触れる。
そのしぐさがあまりにも様になっていて、どきりとした。続いて彼は、囁くような声で言う。
「好き、か。それは友愛として? それとも、愛情として?」
「え、ええ?」
突然そんなことを言われ、琴子は思わず声を上げてしまうくらい困惑して、目の前にいるアドリアンを見る。
彼の雰囲気が、一変していた。
今まで真面目で優しく、どこか影のある雰囲気をまとっていたアドリアンは、妖しいほどの色気に満ちていた。
まるで恋する人を見つめているような、愛しさを含んだ瞳で見つめられ、たちまち琴子の頬が紅色に染まる。
(こ、これはいったい……)
アドリアンの言葉に、どう反応したらいいのかわからない。もしかして、からかわれているのだろうか。
それにしてはアドリアンの声は真剣そのものだし、そんなことを言って女性をからかうような人には見えない。
「ええと……」
戸惑うように、視線を泳がせる。
「すまない。困らせるつもりはなかった」
そんな琴子の様子を見ていたアドリアンは、いつものように優しく微笑んで、琴子から離れる。その綺麗な指先が、名残惜しそうに頬から離れる様を、つい目で追ってしまう。
「琴子には」
「え?」
「恋人はいたのか?」
「……いえ、まったく」
アドリアンの質問に戸惑いながらも、聞かれたまま答える。
「そうか」
頷いたアドリアンがどことなく嬉しそうに見えたのは、さすがに自意識過剰なのだろうか。でも先ほどの言葉といい、その通りに受け取るのならば、好意を持ってくれているとしか思えない。
(こんな、どこから見てもイケメンの人が、わたしなんかに? ないない、さすがにそれはないでしょ……)
思いきり首を振り、目の前にいるアドリアンを伺うように見つめる。すると彼は、蕩けそうな優しい笑顔で琴子を見つめていた。
「アドリアンさんこそ、恋人がいるんでしょう? 女の人が放っておくはずがないもの」
その笑顔が眩しくて、思わず視線を反らして早口で尋ねる。それは深い意味はなく、ただ問われた内容を問いかえしただけだ。
「いや、いない。今まで、他人を信用することができなかったからな」
「あ……」
彼の過去を考えてみれば、そう思っていても仕方がない。不躾な質問をしてしまったかもしれないと慌てる琴子に、アドリアンはさらに質問を重ねる。
「それより、琴子はどうして?」
「今まで、料理にしか興味がなかったので。わたしは料理をしていれば、しあわせだったんです」
そう正直に答えると、アドリアンは納得したように頷いた。
「なるほど。それは、今も?」
「……えっと。たぶん」
「そうか。それは残念だ」
アドリアンはそう言って、ようやく視線を琴子から外してくれた。ほっと息をつく。
(残念って……。どういう意味だろう。社交辞令? それとも……)
何だか彼の言葉ひとつひとつに、翻弄されている気がする。からかっているのであれば怒りたくもなるが、彼の表情は真剣で、向けられる笑顔にも好意しか感じない。戸惑う琴子の前で、アドリアンはサラダにフォークを入れる。
(あっ、サラダ。食べてくれた!)
もう一品付け足して、彼の反応を見るはずだったことを思い出す。安堵から思わず笑顔になる琴子に、アドリアンはまた妖しいほどの色気のある声で、そっと囁く。
「気長に、待つことにするよ」
「……」
どう返したらいいのかわからず、言葉に詰まってしまった。
だがその後はとくに怪しい会話もなく、無事に食事を終えることができた。
それでも琴子は、後片付けをする間も隣にいるアドリアンを意識してしまい、頬が紅潮してしまう。アドリアンはもう何も言わなかったが、帰り際に琴子の髪に軽く触れて、おやすみと言って微笑みかけ、店から出ていく。
その後ろ姿が見えなくなったところで、ようやく大きく息を吐いた。
(ああ……。何だか今日は疲れた……)
戸締りをしてからふらふらと店内に戻り、椅子に座って目を閉じる。
思い出すのは、アドリアンの眩しいほどの笑顔。触れた指。そして、囁くような色気のある声。
どうして急にと思ったが、考えてみれば初めて琴子の髪に触れて、おやすみと囁いてくれたあの日から、少しずつ彼の態度が変わってきたように思える。
向けられる笑顔が優しくなり、声に甘さが混じりだした。そんなことがあるはずがないと、琴子はそのことに、ずっと目を背けてきたのだ。
(だってアドリアンさんだよ? あんなに優しくてイケメンで、しかも騎士団長だし。もっと綺麗で身分もある女の人なんて、いくらでもいるのに。わたしがこうして協力しているから、恩義を感じているだけだよ……)
今まで、自分の好きな料理だけをしてきた。とてもしあわせだったし、やり直したいなんて思わない。でも経験がないので、こんなときにどうしたらいいかわからないのだ。
恋の仕方なんて、今まで知らなかった。
「恋にもレシピがあればいいのに……」
思わずそう呟いて、自分自身に呆れて笑う。こんなときにもレシピだなんて、本当に自分は、正真正銘の料理好きだ。
「考えても仕方ない! こんなときは料理をするしかないよね」
声を出してそう言うと、勢いよく立ち上がる。
このままでは眠れそうにない。明日の料理の仕込みをしようと厨房に向かった琴子は、ふとテーブルに置いていた布の包みを見つけて立ち止まる。
美しい銀の細工の髪飾り。
アドリアンが、琴子のために選んでくれたものだ。
「……アドリアンさん」
思わず彼の名を呼んで、その髪飾りを胸に抱き締める。
琴子がまったくアドリアンを意識していないと言えば、嘘になる。
最初の出逢いはともかく、暴漢に襲われたときに颯爽と駆けつけ、守ってくれた背中は、今でも目に焼きついているくらいだ。役所でもずっと傍にいてくれた。そんな彼が心に傷を負っていると知ったときは、何としても役に立ちたい。支えたいと思ってしまった。
(でも、わたしはこの世界の人間じゃないわ)
どうやってこの世界に来たのかわからない以上、琴子の意志に関係なく、いずれもとの世界に戻ってしまうかもしれない。そんな自分が、この世界の人を愛せるはずがない。だからマリアとアドリアン、ふたりへの恩返しのために、その日まで一生懸命に働くしかない。
銀細工の髪飾りを抱き締めながら、琴子はそう決意した。
それから次に会う日まで、どんな顔をしたらいいのかわからずに緊張していた。でもいつも通りにやってきたアドリアンは、もうあの話題には触れず、ただ真剣な顔をして料理している。
(何だか、ちょっと拍子抜け……)
ほっとした。
それでも少し残念な気持ちになってしまうのは、どうしてだろう。
「琴子は、休みの日は何をしているんだ?」
すっかり慣れた手つきで、じゃがいもの皮を剥いていたアドリアンが、ふいにそう声を掛けてきた。
「休み、ですか?」
この店で働くようになった最初の頃は、休みなく働いていた。
でも少し体調を崩してお休みをもらったときから、定休日の他に十日に一日は必ず休むように言われてしまったのだ。
「うーん、そうですね。あまり町には出ないですね。料理をしたり、マリアさんの手伝いをしたり……」
そう答えると、彼は笑みを浮かべる。
「それは、いつもと変わらないのではないか?」
「う……。たしかにそうかもしれないですけど、わたしの中では休みなんです。そういうアドリアンさんは、何をしているんですか?」
「俺か? 町の見回りや、剣の稽古くらいか」
真面目な顔をしてそう答える彼の姿に、思わず口もとが緩む。
「そう言うアドリアンさんだって、いつもと同じじゃないですか」
琴子が笑うと、彼もまた表情を和らげる。
「言われてみればその通りだな。お互い、たまには休みらしいことをしてみるか」
「え?」
次の休みはいつかと問われ、琴子はカレンダーをみる。
「あ、明後日が定休日ですね」
「それならその日に、町に出てみないか? 屋台とか、この国の食べ物に興味があるんだろう?」
屋台の食べ物につられて迷ってしまった日のことを、彼はしっかりと覚えていたらしい。
(うう、恥ずかしい。忘れてほしいのに。でも、屋台かぁ……)
屋台やこの世界の食べ物には、とても興味がある。でも治安が心配で、あまりひとりで町に出ないようにしていた。マリアやアドリアンに迷惑をかけてしまったら大変だ。でも彼が一緒なら安全だろう。
「はい、行きたいです。でも、アドリアンさんはいいんですか? せっかくのお休みなのに」
「もちろんだ。たまには休みを満喫してみよう」
「楽しみにしていますね」
にこにこと笑いながら、そう返事をする。
屋台には、どんな食べ物があるのだろう。この世界特有の料理もあるかもしれない。そう思うと、わくわくしてきた。
(おいしそうだなって、いつも眺めていただけの料理をようやく食べられるのね。ああ、楽しみだわ。その日は気合を入れて食べまくろう!)
料理を作りながら、何を食べようかと思案する琴子を、アドリアンは穏やかな顔をして見守っていた。
そうしていつものようにふたりで料理を作り、今日は切っただけの果物を添えて、一緒に食事をする。
もう一品足しても、アドリアンは問題なく食べられるようになってきた。これならスープやパンをベースにしなくても大丈夫かもしれない。
アドリアンも料理に慣れてきたことだし、次からは、スープではない料理を最初から作ってみようかと思案する。
もちろん、彼のペースに合わせて少しずつ。
後片付けを済ませたアドリアンは、明後日の朝に迎えに来ると言って帰って行った。彼を見送り、店内に戻った琴子は、ふと思う。
「でもアドリアンさんにとって、町にお出かけって見回りの延長では? 休みを満喫できるのかなぁ」
町を回ったあと、見晴らしの良い場所にでも連れて行ってもらおうか。そうすれば、彼も休息がとれるかもしれない。
「うん、そうしよう。休息は大事だもの」
琴子にとって、休日の食べ歩きはいつものことだった。
向こうの世界にいた頃は、休みの度においしい店を探し出して、ひとり、もしくは友人達と食べに行っていた。
だからアドリアンと出かけることに関しても、それほど深く考えていなかった。
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