第25話 充実した異世界での日々・7
最初の頃、マリアはあまりにも高すぎると断ったらしい。だが営業の時間外だからその手当だと言われ、あまり言い続けると彼が来てくれなくなると思って、受け取ることにしたと言っていた。
「ありがとうございました」
裏口まで送って、丁寧に頭を下げる。
「マリアに、身体を大切にするように伝えてくれ。琴子も、あまり無理はしないように」
「はい。アドリアンさんも」
見えなくなるまで彼を見送ったあと、きちんと戸締りをして琴子は店内に戻った。
食器を片付けながら、さっきの会話を思い出す。
(アドリアンさんは、これしか食べられないって言っていた。何か理由があるの?)
食べない、ではなく食べられないと言っていた。
それによくよく考えてみれば、あのマリアなら、もっと色々と食べなくてはだめだと言いそうなものだ。それなのにアドリアンには何も言わず、ただパンとシンプルなスープを出すだけだった。
(食べられない理由って何だろう。アレルギー? それとも宗教上の理由とか?)
色々と理由を考えてみたけれど、どれも正しくないように思える。
きっとマリアは、その理由を知っている。でもそれは聞いてはいけないことのような気がした。
完璧なイケメンだと思っていたアドリアン。
容姿端麗で身分もあり、まるで物語のヒーローのようだ。
でも彼もやはり人間で、その心には複雑な事情を抱えているのかもしれない。
そう思った途端、なぜか苦しいような切ないような気持ちになって、琴子は自分の胸に両手を当てた。
(アドリアンさん……)
彼もまた、マリアと同じように自分を助けてくれた恩人だ。その恩を返したい。手助けをしたいと思う。
でも一瞬だけ見た彼の憂いの表情は、誰もその心に踏み入ることができないと思うくらい、深くて昏いものだった。
考え込んでいた琴子は、ふと焦げたような匂いがすることに気が付いて、慌てて調理室に駆け込む。
「……あ、大変! 焦げちゃう」
試供品の焼きドーナツを慌ててオーブンから取り出し、琴子は深く溜息をついた。
(これから、どうしたらいいのかな)
このまま気付かないふりをして、今まで通りの関係でいるのか。
おせっかいだと思いながらも、深く踏み込んでいくのか。
いくら考えても答えは出ない。琴子はただひたすら手を動かし、焼きドーナツを作り続けた。
結局、試作品のつもりがたくさん作ってしまい、これは明日のデザートに出すことになるだろう。
琴子は真夜中近くになって、ようやく二階の部屋に戻った。衣服を着替え、ベッドに潜り込んで溜息をつく。その夜はなかなか寝付けず、夜明け近くになってようやく眠りについた。
そのせいで翌朝、思い切り寝坊をしてしまい、大慌てで着替えをして、髪を結びながら階段を駆け降りる。
昨日、早めに休んだマリアはもう朝食の支度をしている。どうやら体調も悪くなさそうだ。それにほっとしながら、急いで手伝いをする。
「マリアおばさん、ごめんなさい」
「おはよう、琴子。昨日はどうだった?」
さっそく昨夜のことを聞かれて、笑顔で大丈夫だったと告げる。
「アドリアンさんも、マリアおばさんがいないなら、って最初は帰ろうとしたみたいでした。でもおばさんが気にするからって言ったら、ちゃんと食べてくれましたよ」
にこやかにそう告げると、マリアは安堵したように頷く。
「そうかい。よかったよ。琴子も、昨日は遅くまで料理していたようだね。大丈夫かい?」
「はい、大丈夫です。試作品を作っていたら止まらなくなってしまって。そのせいで寝坊しちゃいました」
大皿に山盛りになっていた焼きドーナツを、マリアは興味深そうに見つめる。
「これは、この間のドーナツかい?」
「あれは揚げたドーナツで、これは焼きドーナツです。こっちのほうがしっかりとした食べ応えで、でも油っぽくないんです」
ひとつ差し出すと、マリアはさっそく試食してみて、うんうんと頷いた。
「うん、おいしいね。思っていたよりもボリュームがあるし、飲み物とセットにしてもよさそうだ」
「今日のはプレーンだけですけど、色々な味にしてみてもいいですね。バナナとか、いちごとか」
「いいね。クッキーみたいにお土産にもよさそうだ。さっそく今日、出してみようかね」
そして今日の朝食は、マリアが用意してくれたパンと野菜スープ。そして琴子が焼いたチーズがたっぷり入ったスクランブルエッグだ。
「おいしそう。いただきます」
さっそく食べようとした琴子は、ふと昨日のアドリアンを思い出す。
パンとシンプルなスープだけの食事。おそらく夜だけではなく、ずっと。ただでさえあんなにも忙しそうな彼が、それだけで本当に大丈夫なのだろうか。
(大丈夫なのかもしれない。嗜好は本当に人それぞれで、好きなものばかり食べる人もいたもの)
それでも気になるのは、彼は食べないではなく食べられないと言ったからだ。
「琴子?」
不思議そうに名前を呼ばれ、笑顔で首を振る。
「何でもないです」
朝食はおいしかった。
それでもいつもより楽しめなかったのは、気にかかることがあるせいか。
さらに買い出しのときも、仕事をしているときもぼんやりとしていまい、マリアに心配されてしまった。
「ほとんど休みも取らないで働いてくれたからね。今日の夜は私ひとりで大丈夫だから、ゆっくりと休んだほうがいいよ」
きっと今までの疲れが出たんだよ。
そう優しく言ってくれたマリアは、琴子がどんなに大丈夫だと言っても聞き入れてくれなかった。
「昨日、早めに休ませてもらったお陰で、元気になれたからね。琴子もゆっくり休んで、明日からまた手伝っておくれ」
ぼんやりとしていた自覚はある。無理に仕事をしても、かえって迷惑を掛けてしまうかもしれない。そう思った琴子は、おとなしく従うことにした。
二階に上がると、ゆったりとした服に着替えた。それから窓のすぐ傍にあるベッドに座って、外の様子を何となく眺めてみる。
(わたしは何を悩んでいるのかな)
これ以上、マリアに迷惑をかけるわけにはいかない。琴子はじっくりと、自分の心と向き合ってみる。
気にかかるのは、アドリアンのこと。
でも今までの琴子なら、すぐに行動したはずだ。
料理に関しては暴走する自覚があるくらいだから、やってしまったあとで後悔しているはず。それなのにどうして、何も言えずに仕事に支障が出てしまうくらい、悩んでいるのか。
この世界に辿り着いてからのことを、ひとつひとつ思い出しながら、琴子は自分が悩んでいる理由を思い立つ。
(わたし、怖いんだ……)
ここは琴子が生まれた世界ではない。方法はわからないけれど、いつか必ずもとの世界に帰りたい。そう願っている。だから、この世界の人間に深く関わってしまうのが、怖いのだ。そう気が付いた。
(でもそんなの今さらだわ。マリアおばさんはもう、わたしの大切な人だもの。アドリアンさんだって、わたしのために保護者になってくれたし、色々と気にかけてくれている)
恩返しがしたいと思っていたはずだ。
余計なお世話かもしれないが、できることがあれば力になりたい。いつか来る別れを恐れて、何も行動しないなんてありえない。
(うん。まず話を聞いてみよう。それでアドリアンさんが本当に迷惑そうだったら、そこで諦める。出逢ったばかりで、しかも身元のはっきりしていないわたしなんか、信用できないかもしれないもの)
だが少しでも話をしてくれたのなら、力になりたい。自分にできることなんてそう多くはないが、恩返しがしたい。
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