第26話 充実した異世界での日々・8
そう決めると、心が軽くなった。
自分と向き合う機会をくれたマリアに深く感謝をしながら、琴子はそのまま目を閉じる。せっかくだから今日は早めに休ませてもらって、また明日からしっかりと働こう。マリアには、返しきれないほどのたくさんの恩があるのだから。
心を決めてからは、朝も夜もバリバリと働いた。
この世界の料理も作れるようになってきたし、デザートも種類もかなり増えた。
最近作るようになったのは、ふわふわのパンケーキ。生クリームやフルーツをたくさんトッピングしたので値段は少々高めだが、それでもかなり売れている。意外だったのは、若い女性ではなく男性の注文が多いことだ。この世界の男性は、甘党が多いらしい。
「琴子、パンケーキの注文だけど、三段重ねはできるかって」
「もちろんできます。四段でもいいですよ」
いつもは二段だが、注文があれば三段でも四段でも作る。そう答えると、カウンターの奥から四段で! と叫ぶ声が聞こえた。それは若い男性の声。あれはこの店の常連であり、琴子がこの町に来たばかりのとき、城門で警備をしていたあの男性だ。琴子は生クリームとフルーツをいつもの倍の量を使って、特製のパンケーキを作り上げる。
「お待たせしました」
周囲から歓声が上がり、同じものを注文する者もいた。この日はランチの用意はマリアに任せ、琴子はずっとパンケーキを焼くことになった。
ようやくランチタイムも終わり、琴子はマリアと遅めの昼食をとる。
「お疲れ様でした。マリアおばさん、何を食べます?」
何でも作りますよ。そう声を掛けると、マリアはやや頬を染めながら、パンケーキ、と小さな声で言う。
「何だかみんな、おいしそうに食べていたからね」
琴子は笑顔で承諾し、マリアのためにもうひとつ、パンケーキを作った。生クリームは控えめ、その代わりにフルーツはたっぷりと。
そして琴子の昼食は、マリアの得意料理であるキリャ鳥の揚げ物だ。下味に香辛料をたっぷりと染み込ませた鳥肉は香ばしくて、一度食べたらやみつきになってしまうおいしさだった。レシピも教えてもらったが、調味料の調合が難しく、なかなかマリアと同じ味にはならない。これから何度も作って、覚えていくしかない。
食事を終え、後片付けと夜に向けての仕込みをする。野菜を切りながら、琴子はマリアに相談を持ち掛けた。
「あの、マリアおばさん」
「ん、どうしたんだい?」
「お願いがあるんです。今日、アドリアンさんが来る日ですよね?」
彼に相談があるのでふたりで話がしたい。そう言うと、マリアは快く承諾してくれた。
アドリアンはこの店にとって特別な客だというのに、理由も聞かずに承諾してくれたマリアに感謝する。そして、何があってもこの店に迷惑はかけないことを、ひそかに誓った。
そうしていつもよりも少しだけ忙しかった夜営業が終わり、マリアは後を頼むと言って部屋に戻っていった。琴子はひとり、明日の仕込みをしながらアドリアンの到着を待つ。
今日のパンは、柔らかな白いパン。スープは夜に出した具沢山の野菜スープではなく、シンプルなコーンスープだ。
それにもう一品。断られてしまうかもしれないが、マリアに教わったキシャ鳥の揚げ物を用意してみた。今までの中では一番、マリアのものに近い味になったと思う。
市場で初めて見たキシャ鳥は大きな茶色の鳥で、山に住む鳥らしい。でもその肉は柔らかくて臭みもなく、人気の食材だった。にわとりはこの世界ではたまごだけで、肉はほとんど食べないらしい。でも、味はキリャ鳥のほうがよかったので、わざわざ食べようとは思わなかった。
マリアのレシピのすごいところは、揚げ物なのに冷めていたほうがおいしいこと。それは肉にしっかりと染み込んだ、あの秘伝のスパイスのお陰なのかもしれない。冷めてもおいしいということは、作り置きもできるし、お土産に買っていってくれる人もいるということだ。
(わたしの作ったものなんて、食べてもらえないだろうけど)
あのマリアでさえ、パンとスープしか出していないのだ。
それでも一度だけ、アドリアンのために料理を作りたかった。だけど少しでも彼が拒絶するような素振りを見せたら、潔く引く。
チャンスは一度だけだ。
(もうすぐかな……)
明日の仕込みをしながら、何度も裏口の気配を探る。
どう話をしたらいいのか、もう何度も頭の中でシミュレーションをしているのに、そわそわとして落ち着かなかった。
刻んでいた玉ねぎが鍋にいっぱいになる頃、ようやく裏口で人の気配がした。琴子は大きく息を吐き、覚悟を決めて裏口に向かう。
「アドリアンさん、いらっしゃいませ」
そう声を掛けると、彼は少し驚いたように琴子を見つめた。
「琴子。ひとりか?」
すらりとした長身。端正な顔立ち。煌びやかな騎士服に、重厚な黒いマント。
あいかわらず、恐ろしいくらいのイケメンだった。
「はい。今日はとても忙しかったので、マリアおばさんには先に休んでもらいました。でも、ちゃんとスープは作ってもらいましたので、どうぞ」
そう言うと、アドリアンは納得したように頷き、穏やかに言った。
「琴子のお陰で、マリアも休めているようだ」
以前は、休む暇もなかなか取れなかったらしい。
恩人の役に立てているのが嬉しくて、琴子も思わず笑顔になる。
「わたし、体力だけは自信があるので。これからも頑張って働きます」
「ああ、マリアを頼む。頼りにしているよ」
琴子にそう言ってくれたアドリアンはいつもの席に座り、琴子はパンとスープを温めなおす。それから用意しておいたキシャ鳥の揚げ物を、そっと差し出した。
「あの、これ。わたしが作ってみたんです。まだマリアおばさんみたいな味は出せなかったけど、今までの中で一番の出来でした。もしよかったら食べてみてください」
そう言って差し出すと、アドリアンの表情が曇った。
(ああ、やっぱりだめだった)
わかっていたことだ。
それでも彼の手助けになれるのではないかと考えて、一度だけ試してみたかったのだ。
だが、それは失敗だった。
少しでも彼が拒絶したら諦める。そう決めていた通り、琴子は差し出そうとしていたキシャ鳥の揚げ物を取り下げる。
「ごめんなさい。やっぱりちょっと、怖気づいちゃいました」
そう謝罪して、彼が気に病まないように微笑む。
「わたしの料理なんて、まだまだ。マリアおばさんの足もとにも及びませんから。もっと修行を積まないと、だめみたいです」
「……琴子」
それなのにアドリアンは、悲痛そうな顔をしたまま、琴子の名前を呼ぶ。
(ああ、そんな顔をさせてしまうなんて)
やっぱり出すぎた真似だった。まだ出逢ったばかりの人間が、軽率に踏み込んではならない問題だったのだ。
「ごめんなさい、わたしが悪いんです。複雑な事情があるかもしれないって思っていたのに、それでもアドリアンさんのために何かしたくて……。ごめんなさい」
じっくりと考えたつもりだった。
でもこれも、暴走でしかなかったのかもしれない。
自分のやってしまったことに深く後悔しながら、何度も謝罪を繰り返す。
「俺のため?」
「はい。この国に迷い込んでしまって、どうしたらいいのかわからなかったわたしを保護してくれたのは、マリアおばさんとアドリアンさんです。とても、感謝しているんです。だから、わたしに何かできることがあればと思ってしまって。でも、またいつもの暴走でした。あなたにそんな顔をさせるつもりはなかったのに」
涙が滲みそうになって、慌てて俯く。迷惑をかけてしまった側の人間に、泣く権利なんてない。
「ありがとう。俺のために、色々と考えてくれたのか」
それなのにアドリアンは、琴子の頬に手を添え、滲み出た涙をそっと拭ってくれる。
「暴走などではない。琴子の優しい心は、ちゃんと俺の胸に届いた。その心に報いることができない自分が、不甲斐ないだけだ」
(ああ、もう。本当にこの人は……)
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