第16話 知らない世界・12
最後の客を笑顔で送り出し、琴子は後片付けを始めた。
「ああ、琴子。今日はもうひとり、お客様が来るからね」
「え、これからですか?」
もう店を閉める時間だというのに、誰が来るのだろう。首を傾げる琴子に、マリアは頷く。
「特別なお客様だからね。裏口から入って来るだろうから、表はもう閉めてもいいよ」
そう言われて、琴子は閉店準備を続けた。
(閉店後に来る特別な客って、もしかしてマリアおばさんの知り合いなのかな?)
マリアが最初から一人分、スープとパンを取り分けていたことには気付いていた。どうするのかと思っていたが、きっとその客に出すために取って置いたのだろう。
そう思いながらテーブルをすべて終わった頃、その客が店を訪れたようだ。
「いらっしゃいませ。今日も来てくださって、ありがとうございます」
柔らかなマリアの声が、裏口のほうから聞こえてくる。丁寧な口調からして、親しい知り合いというわけでもないらしい。特別な客だとマリアは言っていた。ならば従業員として、挨拶をしなければならない。そう思って琴子も裏口に回った。
「あっ」
マリアのようにいらっしゃいませ、と言うつもりだった琴子は、裏口から入ってきた人を見て、思わず声を上げてしまった。マリアしかいないと思っていたらしく、その人もまた驚いたように顔を上げる。
「……君は?」
やや低い声が、そう問いかけてきた。でも琴子はその問いに、すぐに答えることはできなかった。
その人は、若い男性だった。
黒に近い濃い茶色の短い髪に、鮮やかな緑色の目をした彼は、とても整った綺麗な顔立ちをしていた。だが、琴子が驚いたのはその顔にではない。
問いかけられた言葉が耳に入らないくらい驚いた理由。
それは彼が、ファンタジー漫画やゲームで見たような、騎士の恰好をしていたからだ。
(う、うわぁ。本物の騎士様だ。ここって、本当に異世界だったのね……)
もとの世界とは色々と違うので、ここが別の世界だと理解しているつもりだった。それでも今まで接していた人達は服装の違いくらいで、外国で働いているような感覚でしかなかったのかもしれない。
「見たことのない顔だな。この辺りの者か?」
でも目の前にいる男性は、今までの人達とは違う。
鮮やかな青を基調とした騎士服は、銀糸の刺繍が施されている。白いズボンに、黒い皮のブーツ。幅広のベルトからは細身の剣が下げられていた。その剣の柄にも、美しい装飾が施されている。肩から羽織っている黒のマントは重厚そうで、服装の立派さからしても、騎士の中でも身分が高いように思えた。
「言葉が通じていないのか? 顔立ちもこの国の人間とは違うようだが」
そんな声が聞こえてきて、琴子はようやく我に返る。
「あ、大丈夫です。通じています。わたしは昨日からこのお店の手伝いをさせて頂いている、琴子です」
「琴子。名前も異国風だな。どうしてこの店に?」
静かな口調だが、緑色の瞳には厳しい色がある。尋問されているようだと気が付き、琴子は助けを求めるようにマリアを見つめた。
「アドリアン様。琴子はどうやら異国から連れ去られてきてしまったようなのです」
そんな琴子の視線を受けて、マリアがそう言ってくれる。
「異国から?」
「はい。自分の家で眠っていたはずなのに、気が付いたら町の近くにある森に倒れていて。どうしたらいいかわからずに途方に暮れていたところを、マリアおばさんに助けていただきました」
マリアが大丈夫だと優しく笑ってくれたので、勇気づけられた琴子は、彼からの質問にそう答えた。騎士は、琴子の言葉が正しいかどうか確かめるように、マリアに視線を移す。
「その通りだよ。こんなに若いお嬢さんを、まさか町の外で野宿させることなんてできないだろう」
優しい言葉が胸に沁みる。
だが、マリアは自分をいくつだと思っているのかと、ふと不安になる。あとで、ちゃんと聞いてみたほうがいいかもしれない。
「君が犯罪者ではないのなら、なぜ城に届け出ない?」
拉致されたのかもしれないなら、きちんと届け出をするべきだと彼は言った。
もし琴子がこの世界の住人なら、そうしたに違いない。実際、ここが異世界だと知る前は、警察に行こうと思っていたくらいだ。
でも、今となっては事情が少し異なる。
「それはこの大陸が、わたしの知っている場所とあまりにもかけ離れていたからです。眠っている間に移動していたので、どんな経路を通ってどのくらい移動してしまったのか、わたしにはわかりません。だから聞かれても明確に答えられず、不審に思われてしまう恐れがありました」
そもそも琴子の住んでいた世界は、ここの世界と同じではない。自分が経験したことでなければ、琴子だった信じられないくらいだ。
「それにマリアおばさんから、大陸の外の国とはほとんど交流がなく、帰ることができないかもしれないと聞きました。そうなったらまず帰る手段ではなく、明日のご飯のこととか、住む場所、着る服のことのほうが、わたしには重要でした」
まっすぐに前を見てそう言った琴子に、騎士の鋭い視線が少し和らぐ。
「……そうか。事情はわかった。だが、一応届け出はしたほうがいい。そうすれば変に疑われることもなくなる」
「届け出、ですか」
「この国では、他国からの移住が制限されている。届け出なしにこの国で働くと、この店にも迷惑が掛かる可能性もある」
「!」
届け出に行けば、きっと色々と詰問されるに違いない。そう思って気が進まなかったが、マリアに迷惑が掛かるとなっては、話は別だ。それだけは絶対にやってはならないことだ。
「今すぐに、届け出に行ってきます!」
そう行って飛び出そうとした琴子を、マリアが慌てて止める。
「琴子、もうこんな時間だからお役所に行っても入れてもらえないよ」
裏口から飛び出す寸前に、押し留められてしまう。
「でも……。マリアおばさんに迷惑が……。迷惑を掛けるくらいなら、町の外で野宿します。それくらい平気ですから」
「だから、大丈夫だから落ち着いて」
この世界に迷い込んで、どうしたらいいかわからず途方に暮れていたとき、助けてくれたのはマリアだ。
料理が好きという共通の趣味もあり、琴子の料理もおいしいと褒めてくれた。まだ出逢ってから二日しか経過していないが、マリアは琴子の恩人であり、大切な存在だ。彼女に迷惑を掛けるくらいなら、森の中でひっそりと暮らしたほうがましだ。
「アドリアン様、あまり琴子をいじめないでください。この通り、純真で良い子なのです」
琴子を守るように抱き締めたマリアにそう懇願され、その騎士、アドリアンは困惑したようにふたりを見つめる。
「すまない。少し脅かしすぎたようだ」
やがて彼は穏やかな声で、琴子に謝罪した。
「以前、マリアが犯罪に巻き込まれそうになったことがあってね。彼女はとても人が良いから、また騙されたりしていないかと、つい心配になった」
アドリアンの言葉に、マリアはそのことを思い出したのか、少し気まずそうに俯く。
「あのときは、ご迷惑をお掛けしました」
「マリアが謝る必要はない。責められるべきは、善良な人間を騙して利益を得ようとした、卑劣な者達だ」
そう言う彼の姿は毅然としていて、さきほどの言葉は本当にマリアを心配して言ったのだということがよくわかった。
「忠告していただいて、ありがとうございます。何も知らずに、恩人のマリアおばさんに迷惑を掛けてしまうところでした。明日の朝、さっそく届け出をしようと思います」
ぺこりと頭を下げてそう言うと、アドリアンは柔らかな笑みを浮かべる。
「俺のほうこそ、君がマリアを利用しているのではないかと疑って、すまなかった。城に届け出をしたら、アドリアンと面会済みだと告げるといい。それで面倒な手続きは回避できるはずだ」
事務的で冷酷な人のように思えたが、ただマリアを心配していただけのようだ。先ほどの発言からすると、過去に誰かがマリアを騙して利用しようとしたらしい。
(そんなことがあったのに、マリアおばさんは見ず知らずのわたしに、あんなに親切にしてくれたのね……)
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