第13話 知らない世界・9

 きっちりと纏めていた黒髪を解き、腰に巻いていたコルセットを外した。すると大きめのワンピースがふわりと広がり、ゆったりとしたネグリジェのようになる。

(今日はもうこれで寝てしまおう)

 そのままベッドに潜り込んだ。目を閉じると、途端に睡魔に襲われる。

 閉店セールで限界まで働いたあと、この世界に飛ばされて、今度はビュッフェの準備に追われていたのだ。自分で立案したこととはいえ、さすがに疲れ切っていた。

(でも楽しかった。デザートがかなり好評だったから、今度はケーキバイキングとか、いいなぁ……)

 そんなことを思いながら、琴子の意識を薄れていった。

 

 あの日。

琴子は疲れ果てて、玄関先でそのまま寝てしまい、気が付いたらこの世界に来ていた。

 だから、起きたら元の世界に戻っているのではないか。ほんの少しだけ、そう期待していた琴子だったが。

「……だめだったかぁ」

 目が覚めた瞬間、見えたのは見覚えのない天井。

そしてすぐに、大きめのワンピースを着て、そのままベッドに潜り込んで眠ってしまったことを思い出していた。

「ああ、さわやかな朝だな……」

 ベッドから起き上がり、少しだけ窓を開けると、早朝の清々しい空気が部屋の中に入ってきた。

一日目の夜でだめなら、もう何度夜を過ごしても、戻っているかもしれないという期待は捨てたほうがいい。何もしなくても帰ることができるのではないかという考えは早々に捨てて、この世界で生きていく覚悟を決めなければならない。

(危機感が足りないのかもしれないけど……。もともと旅に出るつもりだったから、そんなに焦っていないかも)

 知らない場所で、まだ見たことのない料理を食べてみたい。その願いは、一応叶えられている。両親や兄は心配しているかもしれないが、迷惑をかけてしまう人がいないということも、影響しているのかもしれない。

 あとはマリアに迷惑をかけないように、しっかりと働くだけだ。

 一晩ぐっすりと寝たお陰で、疲れも取れたようだ。琴子はさっそく身支度をしようとした。

「ああ、櫛も何もない。着替えもどうしよう」

 肩を少し過ぎたくらいの長さの髪は、微妙に跳ね上がっている。何とか手櫛で整え、顔を洗わせてもらおうと、階下に降りた。

 冷たい水で顔を洗ったあとで、タオルがないことに気が付いてうろうろとしていると、マリアが着替えとタオルを持ってきてくれた。

「す、すみません。ありがとうございます」

「今日はまず、琴子の身の回りのものを揃えないとね」

 マリアは優しく笑ってそう言ってくれた。そこまでしてもらうのも申し訳ないが、何も持っていないので世話になるしかない状況だ。

でも、しっかりと働いて必ず返そうと誓う。

 着替えを受け取って部屋に戻り、今日も大きめのワンピースを、丈を調整しながら着る。それから階下に降りると、もうマリアが朝食の準備をしていた。

「ああ、すみません。手伝います!」

慌てて駆け寄り、琴子もすぐに手伝った。

 今朝の朝食は、パンと野菜スープ。そして琴子が作ったハムエッグだ。複数のハーブを混ぜた塩を作り、それをかけて食べる。

「うん、おいしいね」

 ハムエッグを、マリアはとても気に入ってくれたようだ。

向こうの世界と同じように、にわとりのたまごは市場や農場で手軽に買うことができる。だが、ここではそのままゆでたまごにして食べることが多いらしい。

(たまご料理は簡単でおいしいし、栄養もあるしね。昨日のだし巻きたまごも好評だったし。できれば広めたいなぁ)

良い具合に半熟になったハムエッグを食べながら、琴子は考える。オムレツやたまごスープなど、作ってみたい料理はたくさんあった。

それにこの世界にしかない食材を使った料理にも、かなり興味がある。昨日、マリアに見せてもらっただけでも、知らない野菜がたくさんあった。

これからの生活には不安もあるが、それだけではない。新しい生活に挑むような、わくわくした気持ちがあった。


朝食後に、ふたりで買い出しに行くことになった。

 いつものマリアの生活は、朝食後に市場に買い物に行き、昼から食堂を開始。夕方頃に必要ならまた市場や農場で買い出しをして、夜に食堂を再開するという流れのようだ。

この国ではお酒はわりと安価なものだが、町の食堂で出すところはほとんどないと聞いた。それでも食堂が多いため、マリアも他店との差別化のために導入を考えていたようだ。

それでも酒が入ると、店の雰囲気が多少なりとも荒れることもある。とくに王都であるこの町には、余所者も多い。だからどうすべきか、マリアも随分迷っていたようだ。

「でもこれからはビュッフェがあるからね。それをやっていきたいと思っているよ」

 そう言われて思わず笑顔になった。役に立てたと思うと、とても嬉しい。

「これからもがんばります」

「ありがとう。でも無理はしなくていいからね」

 そう言って微笑んでくれるマリアは、本当に優しい人だった。

 朝の王都は、とても人通りが多かった。買い物客でにぎわう道を、はぐれないように歩く。

「まずは食材だね。定番の野菜を買っていくよ」

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