第8話 知らない世界・4
いつも来てくれていた常連さん。
店主が淹れる、紅茶の良い香り。
接客担当のりぃちゃんの明るい笑顔。
そして使い慣れていた調理器具。
でも店はもう閉店してしまった。
もう二度と、あの場所に帰ることはできないのだ。
(ああ、わたし。あのお店が好きだったんだなぁ……)
最後の仕事を終え、そのまま疲れ果てて眠ってしまったから、今まで感じることができなかった喪失感が胸を満たす。
「お待たせしてごめんなさいね。あら?」
着替えを持ってきてくれたマリアは、近寄ってきて琴子を覗き込む。
「どうしたの?」
「あ、ごめんなさい」
慌てて涙を拭って微笑む。こんなことで泣くような人間ではなかったはずだが、マリアがあまりにも優しいので、気が緩んでいるようだ。
「大丈夫かい?」
「もちろん、大丈夫です。ただ懐かしくなって」
「懐かしい?」
「はい。わたし、昨日までこういうお店で働いていたんです。忙しくて大変だったけど、今思えばとても好きな職場だったなぁと思い出して」
「そう。それで、そのお店は」
「閉店してしまいました。店主の奥さんの具合があまり良くなくて」
「それは残念だったね。とりあえず着替えをしておいで。娘の若い頃の服で悪いけれどね」
「いえ、ありがとうございます」
手渡された衣服を、休憩室らしき小さな部屋で着替える。
シンプルなクリーム色のワンピース。上からすっぽりと被り、腰を皮のコルセットのようなもので締めるスタイルのようだ。そして白いショールを羽織る。
(少し大きいかな。やっぱりここの人達って外国人みたいだもんなぁ)
日本人の中では平均的な身長だった琴子も、ここでは小柄のようで、マリアよりも背が低い。彼女の娘はさらに背が高かったのだろう。引き摺ってしまう裾を上げて、コルセットで調整する。肩の辺りもかなり露出してしまうが、そこはショールで隠すしかない。
「着替え、ありがとうございました」
「あら、やっぱり大きかったようだね。ごめんなさいね」
「い、いえ。貸していただけるだけで、とてもありがたいですから」
琴子が着替えている間にスープを温めてくれたらしく、良い匂いが店中に広がっていた。
(ああ、いい匂い。このスープはトマトかな?)
昨日の残りだというパンも、オーブンで軽く焼いてくれたようだ。きつね色に焼けたパンに、食欲が増した。
「さあ、お腹がすいただろう? 残り物で悪いけれど食べておくれ」
「いえ、ありがとうございます。とてもおいしそうです」
テーブルに座り、大き目の木のスプーンでスープを掬う。熱々のスープが、雨に濡れて冷えた身体を温めてくれる。
(おいしい。トマトと玉ねぎのシンプルなスープなのに、香辛料が効いているわ)
赤のスープにほんの少し散らしてあるのは、パセリ。味だけではなく、色合いもとても綺麗だ。パンは全粒粉のパンで、ちょっと固め。スープに浸して食べると、味が染みおいしい。
マリアは聞き上手で、琴子のいた店がどんな雰囲気だったのか、琴子はどんな料理を作っていたのか、ゆっくりと聞きだしてくれた。
「本当にとても忙しくて。でもメニューを考えるのも楽しかったし、ケーキを作るのも好きだったから」
色々と料理の話などをしているうちに、気が付いた。
向こうで当たり前に作っていた料理がいくつか、ここには存在していなかった。特にカレーやオムライスなど、ご飯やたまごを使う料理がないようだ。食材も、トマトや玉ねぎなどメジャーな野菜は一緒だが、聞いたことのない名前もたくさんあった。
(外国の人ばかりだから、ご飯を使う料理を知らないのかしら)
そう考えることもできたが、それにしても聞いたことのない食材が多すぎる。
「あの、マリアおばさん。ここは何という町ですか?」
思えば最初にそれを聞くべきだった。料理に気を取られて忘れていたことを、ようやく琴子は尋ねた。
「ここかい? ここはティーマ王国の首都、アシナだよ」
「ティーマ王国……。アシナ」
聞いた言葉を繰り替えてみるが、まったく聞き覚えのない国だった。琴子だって、世界のすべての国を覚えているわけではない。でも、ここが日本ではないことだけは確かのようだ。
「琴子? 大丈夫かい?」
「……はい。あの、変なことばかり聞いてごめんなさい。周辺の国も教えてほしいのですが」
マリアは不審な顔をすることもなく、質問に答えてくれた。
ここは楕円形のような形をした大陸のほぼ中央に位置する、ティーマ王国。
その位置のせいで隣接している国は多く、北方にはリンク王国、南にはマジリア王国。さらに東側はクスタニア王国、西側にはピットキニア王国と隣接しているという。他には遊牧民が暮らす国と、商業が盛んな共和国があるようだ。
(どの国も聞いたことがない。ここは、わたしが住んでいた世界ではないの?)
わざわざマリアが持ってきて見せてくれた地図。
その国をひとつひとつ指でたどりながら、琴子は辿り着いた答えに動揺して、両手を固く握り締めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます