第4章 日曜日



 日曜の朝。

 より子は、リプトンアールグレイのティーバッグを、紺色のマグカップに入れた。そして冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して、やかんに注ぎ、火にかけた。

 紅茶は、缶入りのリーフティーの方が、缶もステキだし、おしゃれだな、とは思っている。それに合わせて、洒落たティーセットでもあれば、女性っぽいんだろうな、とも思う。だがより子は、ティーバッグのリプトンアールグレイが、リーフティーのそれよりも、香りが華やかに思えて、好きだった。


 安上がりな女だな。

 より子は考え始める。


 同世代の女性たちは、結婚して子供がいる世帯などは特に、学費などでとてもお金がかかるのに、ちゃんと子育てをして偉いと思う。いとこのめい子ちゃんとかも、そうだ。

 昔、アイドルみたいな顔をしてキラキラした服を着ていためい子ちゃんは、今はお母さんになって、とてもシンプルな格好をしているが、相変わらず素敵だ。子供にもセンスのよい服を着させて、進学塾にも通わせて、中古だとは言っていたけれど、車もドイツ車で。

 独身の人たちにしても、例えば自分の世代向けのファッション雑誌や、ネットの記事などで紹介されている、高い服やアクセサリーなどを見ては、本当に皆こんな高い持ち物で身を固めているのかしら、と思っていたら、案外電車の中でそういったものを見かけたりして、皆、すごいな、と思ってしまう。

 私にはそういった拘りとか、目的を持ったお金の使い道、みたいなものがすっかりなくなってしまって、それってどうなんだろう。せめていつも飲む紅茶くらいは、フランスの、とか、イギリスの名門の、とか、そういうのにすべきなんだろうか。ちょっとは気にした方がいいのか。


 やかんの蓋がカタカタと音を立てていることに、遅れて気付いたより子は、考えるのを止め、やかんの火を止め、マグカップにお湯を注いだ。

 マグカップを両手で口元に運び、白い壁を見つめながら、また別のことを考え始めていた。

 昨日のできごとについてである。

 何故、私はああも動揺したのか。その疑問について、時間が経つにつれ、だんだんとはっきりしてきたことがあった。


 私があんな気持ちになったのは、銭湯に入り、料金を払ったときの、番台の男性の一瞥のせいだ。

 あの目をなんといえばよいのだろう。

 決して、女性客が来たといって、色目で見てきたという風ではなかった。

 あれは、恋をした相手を見つめるときの目だ。

 でも、何故なのか。

 私は朝も早いし夜も遅いから、この辺の人たちをよく知らない。普段の買い物だって、銭湯とは反対側のスーパーマーケットに行くから、少なくとも私のほうは、あの男性に見覚えはないのだけれど、向こうは私を知っていたのだろうか。


 そしてより子は、忘れてきたバスタオルのことも考えていた。

 イケアで買った、空色のバスタオル。

 別に高いものでもないし、特にお気に入りだったというわけでもない。取りに行かなければ、処分されるだろう、とより子は考えていた。

 けれども、真の理由はまったくより子にはわからないのだが、男性がより子を見つめていた目、その理由がもしも、より子の仮説通りに「恋」なのであれば、風呂上がりの身体を拭いたバスタオルが、今あの男性の手元にあるという事実が、嫌とか、気味が悪いとかいうことではなく、ただなんとなく恥ずかしい、というのが、より子の気持ちであった。


 夕方には、水道管を直しに、業者さんが来るんだよな。でも午前中は恐らく、銭湯は開いていないだろうし。どうしようかな。

 やっぱりこのまま、放っておこうか。

 そしたら、昨日のできごとも、バスタオルのことも、あの男性の一瞥についても、やがて、忘れてしまうだろう。


 より子は、飲み終えて空になったマグカップを流しに置き、それから振り返って腕組みしながら、窓の外を見た。ムクドリらしき群れが横切り、やがて澄んだ青空の向こうに見えなくなっていった。


 人間って、いろんなことを忘れてしまう。

 出会った人のこと、一緒に食べたもののこと、訪れた場所のこと。私自身、ずいぶんいろんなことを忘れてしまった。とても悲しいことも、辛かったことも。それがあった、ということは時折思い出しても、その時の心の痛みはもう忘れてしまっている。

 人間の頭はバケツと一緒で、たぶん一定の量しか入らない。溢れたものはどんどん流れていってしまう。そしてまた次から次へと、新しいものに満たされていくのだ。


「バスタオル、どうしようかな。」

 より子はまだ、決められずにいた。


               ◇ ◇ ◇


 文治は、空色のバスタオルを手にして、ひとり脱衣所に突っ立っていた。


 昨晩あの後、ひとまず番台脇に置いておいたものを、今朝、開店前の掃除にやって来て見つけ、改めてそれを手に取った。

 ふと鼻先にバスタオルを持っていき、すっと、匂いを嗅いだ。匂いはしなかった。

 女というものはまるで猫だな、と文治は思った。

 子供の頃、文治は猫を飼っていた。文治は猫の匂いを嗅ぐのが好きであった。


 猫というものは、くつろいでいる時などはいつでも、指の間を舐め舐め、くっと体をひねって背中を舐め舐め、と、体の手入れに余念が無い。そのせいかは知らぬが、猫は動物のくせに、獣臭い匂いがせず、何か春の木漏れ日のような、そんな匂いしかしない。

 一方で俺などは、バスタオルで体を拭こうものなら、雨の中ずぶ濡れで走ってやってきた野良犬でも拭いたのか、なんて具合になってしまう。文治さんのタオルは、長持ちしないねえ、などと、よくかず子にからかわれたものだ。

 しかも俺には、何でも匂いを確かめる癖があるし、男ってのは、まるで犬だな。そして女は、猫だ。そう文治は思った。

 とにかく、このバスタオルをどうしたものか。悩んで文治は、先ほどからずっと、ここに突っ立っていたのであった。

 ひなた湯では基本的に、忘れ物を一週間は置いておくが、それ以降は捨ててしまうのがルールとなっていた。誰が決めたのかは知らないが、脱衣所のポスター、それは組合が印刷してよこしたものを随分昔に貼って、そのままにしてあるだけだが、そこにもそのように記載されていた。

 今では客が少ないから、忘れ物自体が少ないが、実際昔は、タオルや着替えの忘れ物などしょっちゅうだったのだ。外套のように、ないと困ってしまうものは別として、肌着や猿股、手拭いの類をわざわざ取りに戻る客、というのはそうそういない。

 ましてや昨日の、あの状況であった。


 結局のところ、あの女性客が何を感じていたのか、文治にはわからなかった。だが、文治が一瞬懸念したような、裸を見たといって言いがかりをつけてくるような、そういった輩ではなかったようだ、ということは、わかった。

 だとすればお互い、相当気まずい状況だったと感じているはずだと、文治は思った。少なくとも文治本人はそう感じていたし、従って女性客が、バスタオルを取りに戻ることもないだろう、と感じていた。

 だが、もし、そのようなことがあったならば。あの女性客が再び、文治の前に現れたら。

 文治は自分に問うた。


 俺は、あのお嬢さんに一目惚れしたのか。そうではない。かず子に似た女性だと感じて、かず子のことを思い出し、そのせいで心が躍ったのだ。現に、あのお嬢さんの裸をちらと見たとき、そうかやはり俺は、しっかり裸を見ていたのだな、それはさておき、それを見て俺は興奮したか。しなかったではないか。いやそれは俺が、もう歳だからか。それともあの状況下で、それどころではなかったせいなのか。わからない。

 バスタオルを取りにお嬢さんが現れたら、どんな顔をして応対すればよいのだ。いや、普通にすればよいだけだ。何か言いたいことでもあるのか。わからない。


 かず子が生きていた頃、文治はかず子のことを今ほどまでに意識はしていなかった。何故ならば、かず子は常に、そこにいた、からである。

 かず子が亡くなり、骨壺に入って、その肉体・存在が傍らからなくなったときから、心の中をかず子が占めた。

 銭湯を閉めていた半年間、洗い場の床をこすりながら、考えていたのはずっとかず子のことであった。

 文治は、人というものはこのように、死して永遠となるのか、と、この経験を以てして感じていた。だが、実のところ、どうなのだろう。


 勿論、これほどあのお嬢さんのことを気にしているそもそもの理由は、かず子に似ていたからだ。だが今の自分は、かず子に似ているといえ、まったくの別人であるお嬢さんが、再び自分の目の前に現れたらどうするのか、なんてことを期待している。そしてかず子ではなく、あのお嬢さんの顔を、記憶に留めている。

 つまり自分は、もはやこの世に不在のかず子を、この世に現存する、よく似た女性で埋め合わせたいと考えているのだろうか。そうやって別のものに、かず子の思い出が追い出されて、やがて、忘れてしまうのではないだろうか。それは間違っていやしないか。そんなことを思ってしまったら、バチがあたるのではないか。

 しかしまあ、そんなことは、取り越し苦労であろう。何故なら相手は若いお嬢さんで、俺よりも息子の祐介の方が、年頃が近いに違いない。年老いた自分がどう思ったところで、これが色恋沙汰になるなんてことは、決してあるまい。

 ならば、お嬢さんがバスタオルを取りに来たのであれば、ただ渡せばよいし、来なければ、薪と一緒に燃してしまうだけだ。


 文治はバスタオルを、改めて綺麗に畳み直した。そしてそれを惜しむように、両手で顔に押しつけて、すうーっと深く匂いを吸い込んでから、脱衣所から裏口に渡る廊下にある木製の棚に、それを置いた。


 深く吸い込んでようやく感じたかすかな匂いは、かず子とは違う、まったく別の女の匂いであった。

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