第5章 達夫

 すっかり考え事に耽ってしまった文治は、時計を見て

「もう昼前か。いけねえ」

と独りごち、ブラシを持つと洗い場へ向かい、ゴシゴシと掃除し始めた。

 しばらくすると、旧知の仲であり、かず子との仲介人でもあった日下部達夫が、いつものように前触れもなく、ふらっと現れた。

「よう、文ちゃん、元気。どう、あっちの方は。」

 この「どう、あっちの方は」というのは達夫の挨拶代わりで、文治が内装工事職人だった頃から、必ずそう聞いてくるのであった。かず子と結婚する前も、結婚してからも、そしてかず子がいなくなった後も、相変わらずだ。達夫の中で「あっちの方」は、女房がいるとかいないとか、また自分や相手が幾つなのか、ということは、全く関係のないことであるらしい。

「達ちゃん、ちょっと聞いてくれないか。」

 かず子との縁を取り持ってくれた達夫であったから、文治は安心して気が緩んだか、もう忘れると決めたはずの昨晩のできごとについて、一部始終を話した。一部始終とは言っても、文治が何を思ったのか、といったことは割愛した上で、かず子に似た女性客が現れて、文治が慌てて狸寝入りをしながらチラチラ見ていたということや、女性客も何故か慌てて逃げるように帰っていったとか、そういった客観的事実関係についてのみ、話した。

 その間、達夫はぶつぶつ言いながら携帯電話をいじるのに忙しそうで、およそ話を真剣に聞いているとは思えなかったが、文治がひとしきり話し終えた後、携帯電話をポケットに突っ込みながら、言った。

「そんだけ?」

「ああ、そんだけだ。」

「ふうん。」

 素っ気ない反応であった。

「で、文ちゃん、そのお嬢さんをどうしたいのよ。」

「どうもこうもねえよ。俺はただかず子に似てて驚いただけだし、向こうは何でかわからんが、慌てふためいてただけだし、まあ、あれは、ちょっと奇妙なできごとではあったけども、いわばほんの一瞬のできごとだったからよ。」

「でも文ちゃん、そのこと忘れられなくって、俺に話したんだろ?」

「かず子にえらい似た人がいてビックリした、ってことを、達ちゃんに伝えたかっただけだよ。」

「だとしてもさ。別に他人の空似なんてのは、珍しい話じゃないだろ。似てるな、つって、一晩寝て起きたら、そんなのもう忘れるだろ。」

「そうか?俺はあんなにかず子に似た人を見たのは初めてだったぞ。」

 達夫は笑いながら答えた。

「わはははは。だって文ちゃんは、ずっとそこの番台に座ってっからよ。ここは女なんかそうそう来ねえんだから、女を見る絶対数が足りないからだろ。」

「そら、そうだけどよ。」

「とにかくさ、文ちゃん、その娘と話してみろって。」

「話してみろも何も、何処の誰だかもわかんねえんだからよ。しかも向こうは俺なんかよりずっと若いお嬢さんだし、相手にされんだろ。」

「いやいや、北口のプリンセス、つうとこのエリンちゃんなんか、あれは20代だと思うけど、いやもう30過ぎてるかなあ、まあそれはいいけどよ、俺みたいなオジン相手でも随分優しくしてくれっぞ?」

「エリンちゃんて。ガイジンかよ。」

「ブルガリアっ娘だな。」

「ホンモノかよ。しかしお前それは、商売女だからだろうが。俺はシロウトの話してんだよ。っていうかむしろ、俺の銭湯に来た客だから、俺が商売してる方ってことだろ。」

「じゃあなおのこと、文ちゃんが、その娘を喜ばしてやらないと。」

「何言ってんだよ。アホかお前。絶対、ダメだろ。いつからひなた湯はそんな店になったんだよ。」

「文ちゃん、いい男なんだからよ。だからかず子に紹介したんだぞ。隠居するにゃあ、まだ早いって。今度北口のプリンセス、一緒に行こ。」

 文治は、ダメだこりゃ、と思った。

 達夫は言った。

「ま、その娘はもう来ないな。なんだっけ、ほら、真夏の夜の夢、ってやつだよ。まあ今、真冬だけどな。想い出っつうのはさ、そうやってキレイな形のまんまさ、心に仕舞っとくのがいいんだよ。そのあと惚れたの腫れたのなんだのってよ、泥にまみれっちまったらさ、思い出したくもなくなっちまうからよ。」

 それもそうだな、と文治も思った。真冬の夜の夢、か。若かりしかず子の幻が、ふらりと現れた夜。湯けむりの中に消えた、一瞬の想い出。

 そうやってまた物思いに耽り始めた文治に、達夫は踵を返して、出口に向かいながら続けた。

「文ちゃんそのバスタオル、俺によこせよ。そういうマニア知ってるからよ、三千円くらいで買い取ってもらってきてやるから。それでさ、モツ焼き食いに行こ。」

「うるせえ。早く帰れよ。」

 文治はなお一層、この話は綺麗さっぱり忘れなくてはいけないと、強く思った。


               ◇ ◇ ◇


 時計は22時を指していた。

 ひなた湯、本日の営業終了時刻まで、あと1時間。いつも通り、今日も客はまばらで、日曜のこの時間となれば、もうすでにひとりもいない。

 さてと、そろそろ片付け始めるか。

 文治は番台に座りながら、両手を頭の上で組んで伸びをして、首を左右にコキッ、コキッとやった。

 その時、女湯の引き戸がガラガラッ、と開いた。

 入ってきたのは、あの女性客、より子だった。

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