第2章 文治
日向文治は62歳であった。昔は、歳の割に若い、などと言われることもしばしばあったが、ある出来事を境に、ここ数年はめっきり老け込んでしまっていた。
文治の旧姓は杉岡といった。内装工事職人として働いていた杉岡文治は、25歳のときに、2歳年上の日向かず子とお見合い結婚をして、婿入りをした。仲介人となったのは、よく内装工事の仕事を一緒にやった日下部達夫という男で、達夫はかず子の親戚だった。
お見合いで対面したかず子は、痩せていて、物静かであった。駅前に新しく出来た洋食屋で食事をした後、3人で公園を散歩している間も、かず子は殆ど喋らず、ただ微笑んでいた。どういった様子だったのかというと、文治が何か言う、達夫が通訳する、かず子がクスクス笑う、という具合で、文治は、これは脈無しか、と思ってしまった程であった。
しかし、文治はこの出会いだけで、かず子に惚れてしまっていた。物静かさであるとか、そういう表面的なことではなく、その奥に隠されている何かを、もしかしたら他の誰も気付かない何かを、文治は素早く見出してしまった、のであった。
だから文治は、お見合いの後、達夫に様子を何度も伺っていた。かず子さんは俺のことをどう思ったのか。脈はあるのか。
もとより、かず子は結婚を断る気はなかった。それは、結婚して10年以上経ってから、かず子本人に聞いた話によれば、こういう話であった。
ある日の仕事帰り、文治は達夫に銭湯に誘われた。そしてその日、銭湯の番台には、かず子が座っていたのだという。かず子は、その銭湯「ひなた湯」の一人娘であったのだ。
その時文治は、見合いの相手が、この銭湯の娘だとは知る由もなく、随分若い娘が番台に座っているものだ、くらいは思ったのかも知れないが、後日、お見合いで会った時も、そしてかず子本人からこの話を聞かされるまで、それがかず子であった事を、全く認識していなかった。
「それじゃお前、達夫にわざとここに来させたのか。何故、そんなことをお願いしたんだ。」
と文治が問い質すと、かず子は、
「お見合いの前に、品定めしたかったのよ。」
と、笑った。
「品定めといって、裸まで見ることはないだろう。まさか、お前、」
と文治が食いつくと、かず子は
「だって結婚して、一生ずっと一緒に暮らすかも知れない相手について、健康そうか、とか、その他いろいろなことを確認するのは、当たり前じゃないのヨ。」
そう言ってケラケラ笑いながら、その場を去ってしまった。
どうやらかず子のお眼鏡にかなったらしい文治は、そうして正式に、かず子と結婚することとなった。
実際、結婚してからのかず子は、お見合いの時とは全く違っていた。いわゆる「猫を被っていた」というやつで、冗談も言うし、皮肉も言うし、映画を観たり本を読んだりすれば、そのあらすじから何からを、ペラペラとよく喋るのであった。そんなかず子を見て、文治は、俺の思った通りの女でよかった、と思うのであった。
文治は、36歳になるまで内装工事職人として働いていたが、やがてかず子の母親が亡くなり、次に父親が亡くなって、かず子と共に実家の銭湯「ひなた湯」を継いだ。
かず子との間に、長男の祐介を儲け、3人家族でひなた湯を切り盛りした。
やがて、長男の祐介も成人し大学を出て、勤めた会社で海外赴任することとなり、ロサンゼルスへ行ってしまった。そこからはまたかず子と2人で暮らす日々となった。時にはお客さんが捌けて、店を閉めたあと、かず子と二人きりで広々とした湯船に浸かり、背中を流し合うなどして、互いをいたわった。ひなた湯が、文治とかず子の、生活の全てであった。
文治にとってそんな、最良の伴侶であったかず子が、肺炎で亡くなったのが、4年前のことであった。
妻のかず子を亡くして文治は、ひなた湯を畳もうか、真剣に悩んだ。
ひなた湯を継いだ時に、建物と土地は相続して自分名義となっているから、光熱費と食費だけどうにか賄えば、何とか暮らしていけるのではないか。息子の会社の業先もよく、未だに心配して幾ばくかの仕送りをしてくれている。有難いことだ。
長年連れ添ったかず子が居なくなってしまった喪失感は、文治の想像を超えて、心に巨大な空洞を開けてしまった。
かず子と、かず子がもたらしてくれた笑いがこの世から消え、文治の心の空模様は、厚い雲に覆われ、星ひとつ輝かず、明けぬ夜と化した。24時間365日、ほとんどの時間をかず子と過ごしたこの場所で、たった独り、これまで通りの日常を続けていくことは、考えただけで辛かった。
そしてもうひとつ、そういった心の問題の他に、大きな懸念があった。もし、ひなた湯の営業を続けるとして、番台に自分が座るのか、という問題である。
ひなた湯の番台には、ずっとかず子が座ってくれていた。かず子は人当たりもよかったから、まだ辛うじて人々が銭湯に来ていた時代も、若い女子学生などに、おばちゃん、おばちゃんと慕われていたものだ。文治はといえば、ボイラーに薪をくべたり、洗い場の掃除をするなど、裏方仕事に徹していた。
それから時代はすっかり変わり、今ではここにも年寄りしか来なくなったとはいえ、俺のようなものが番台に座っているというのは、どういうものか。決して印象がよいとは思えない。床に壁紙を貼るようなものだ、というのは、文治流「場違い」の意、であるが、そのように考えていたのである。
結局、かず子が亡くなって半年の間は、ひなた湯を開けなかった。といって、何もせずにいるのも落ち着かず、ほぼ毎日、洗い場のタイルの目地を、ブラシでゴシゴシとやり続けていた。洗い場の鏡にふと動く影を見たような気がして、「かず子」と思わず呼びかけてしまったことすら、あった。
見かねた長男の祐介が、ロサンゼルスから一時帰国してきた。祐介は文治に言った。
「父さん。父さんの思うようにしたらよいよ。ここの土地なら、今なら高く売れるし、銭湯なんか今どき儲からないしね。ただ、僕が日本に帰ってきたときに、帰る先がここだったら、僕はずっと母さんがここにいる気分になるんだ。ここが無くなってしまったら、母さんも永遠にいなくなってしまいそうで、それがなんだか、僕は寂しいんだよ。勝手かも知れないけど。」
文治は祐介のこの言葉を聞いて決意した。
俺が生きている限りは、ここを続けよう。客は来たって来なくたって構やしない。いや、来てくれないと商売にならんか。まあよい。やろう。やってみようじゃないか。
そのあくる日、ひなた湯は半年ぶりに店を開けた。そしてその日から、文治が番台に座ることとなった。
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