やがて、忘れる。

東京ギャンゴ

第1章 より子

 市井より子は38歳、独身、ひとり暮らしである。


 金曜の夜、そろそろ終電の時間、繁華街は酒を飲む人達で賑わっている頃合いだが、彼女はひとり、オフィスで残業をしている。

 友達らしき友達はいない。外に飲みに行くとしたら、ごくたまに行われる会社の同期会に参加するくらいである。それも彼女自身が企画することはなく、唯一、その企画を毎回立ててくれていた、同期の中では一番近しい存在であった中松優子が、3年前に課の同僚であった篠山吾郎と結婚してからは、同期会も殆ど開催されなくなった。

 週末、早く帰ったところで、土日の予定は特にない。強いて言えば、洗濯・炊事・ネットフリックスで映画を1、2本観て、寝る前に自己流のピラティスを15分強行うだけである。そういった日課をこなすことで、心の平静を保っている。

 趣味と言えるものも特にない。二十代の頃は、コンパクトデジタルカメラ片手に、電車で旅をしたりもした。文具店で可愛らしいペンやノートを買い、旅日記をまとめたりしたこともある。だがそれも、三十半ばを過ぎると、自然にやらなくなってしまった。結局そういったものをまとめたところで、見せる相手もおらず、自ら見返すこともなかったからだ。


 土曜の朝。

 週末だけは目覚ましをセットせずに、ベッドに入るより子であったから、この日も、目覚めたのは10時30分であった。結局昨日も、家に着いたのは午前様だったし、無理もない。

 ベッドを出て、チェック柄のストールを肩に引っ掛けながら、うつらうつらと洗濯機に向かい、洗剤を入れ、スイッチをオンにした。が、水の出が悪い。

 ずっと帰りが遅かったので、なんとなく気にはなりつつも無視していたが、洗濯機の後ろの壁の中から、シャーッという水の音がずっとしていたことを改めて認識した。上の階の住人が、水を出しっぱなしなのではないかと思っていたのだが、どうやら、この壁の中の水道管が破裂したに違いなさそうだった。先週末は猛烈な寒波で、しかし、より子は休日出勤であったため「暖房代が浮いたな」くらいのことしか思っていなかったのである。果たして今、延々と漏れているらしい水道の料金は、いったいどうなるのであろうか。考えただけで面倒であった。とはいえ取り急ぎ、修理してもらうことを考えなくてはいけない。

 押し入れの手前の段ボールにしまい込んでいた、アパートの契約書類を取り出し、管理会社の電話番号を調べた。電話をすると、愛想のない営業担当が電話口に出た。

 より子がこのアパートを契約したのは5年前だったが、電話の向こうの声が、当時、物件を見回った時に担当してくれた営業マンの声だな、というのはすぐにわかった。あの人、営業とか接客に向いてない感じだったけど、まだ勤めてるんだ、とより子は思った。しかしより子自身も、決して天職とは言えない会社に勤めて14年になるわけで、この営業担当がまだ不動産屋にいたところで、何の不思議もない。

 修理をしてくれる業者は、あす日曜の夕方に来てくれることになった。そしてそれまでの間はなるべく、水道の元栓を閉めておいて欲しい、と言われた。とりあえず従おう、とより子は思った。

 ちょっとだけ水に浸かってしまった洗濯物を軽く絞り、イケアのビニールバッグに詰め込んで、徒歩で近所のコインランドリーへ向かった。そこのコインランドリーは最近改装されたばかりで、広いスペースの半分にカフェが併設されており、大きなウッドのテーブルを囲むように若者たちが、洗濯をしながら、コーヒーなど飲んで思い思いに過ごす様を、仕事帰りによく見て、気になっていたのだった。


 程なくして着いた、設備も真新しいコインランドリーには、休日の割に人がそこそこいた。より子も、それらの人たちに混じって、洗濯機に洗濯物を、そして硬貨投入口に100円硬貨を5枚入れた。その後ホットのカフェラテを、コインランドリー内に併設されているカフェで注文し、それをカウンターで受け取ると、大きなウッドのテーブルの一角に席を取った。

 カフェラテは紙コップに入っており、この紙コップの小さな飲み口が、より子はやけどしそうで苦手だった。しかし何故だか、より子がこの蓋を外すことはない。いつものように恐る恐る、そうっと一口つけて安心したところで、全面ガラス張りの壁の向こう側に目をやった。そこには古い銭湯が見えた。


 そうだ。お風呂どうしよう。


 別に、お風呂の時だけ元栓を戻しても構わないのだけど、洗濯機もあの調子だったから、シャワーだって、ちゃんと出たものかわからない。

 銭湯なんて、子供の時に1、2回来たくらいだな。せっかくこんな機会だから、たまには銭湯もいいかな。じゃあ、洗濯が終わって、家で早めに夕食を済ませたら、7時くらいに来てみようか。そんなことを考えながら、外の通りを眺めていた。小学生の男の子たちが自転車で連なって走って行き、軽トラックにぶつかりそうになっていた。


 洗濯機のタイマーが鳴ったので、洗濯物をタンブラーに移し、100円硬貨を3枚入れた。

 オーバーサイズのフリーズを羽織った、リカちゃん人形みたいな女の子二人連れが入店してきて、店内がやおら賑やかになった。早く洗濯終わらないかな、とより子は思った。

 より子の向かいには、眼鏡をかけたこざっぱりとした大学生風の男の子が、大きなヘッドホンを耳にかけて、ノートパソコンの画面をじっと見ていた。恐らく映画かドラマでも観ているのであろう。

 通勤の際にも、スマホで連ドラなど観ている人をよく目にするが、より子はこの行為が理解できなかった。

 より子は、自分のことを少し不器用な人間だと思っている。一度に色々なことを並行してこなすのが苦手だし、仕事が毎日遅いのも、もしかしたらそのせいかもしれない、と感じているくらいだ。だから、映画を途中まで観て、電車を乗り換えて、続きを思い出して、隣には見知らぬ人がいて、という状況を想像するだけで疲れてしまう。なので、映画は部屋でしか観ない。映画は格好の時間つぶしだが、かといって映画館に足を運ぶほど、映画好きというわけでもない。

 隣でさっきのリカちゃん人形たちが、どんな大声でケラケラ笑っても、ノートパソコンの男の子は全く動ずることなく、相変わらず画面に見入っている。その集中力が、少しうらやましく感じた。

 タンブラーの残り時間表示が「2」から「cd(クールダウン)」になり、やがて止まった。より子はその場で洗濯物をたたむこともせず、大急ぎでイケアのビニールバッグにそれらを詰め込んだ。そして、そそくさと、コインランドリーを後にした。


 きゅうりを縦に切ったスティックに、実家の母から送られてきた味噌を添え、冷凍の讃岐うどんを茹でてポーションのつゆをかけたもの、そして漬物とを、小さなテーブルに並べる。

 テレビのニュースを流し見しながら、夕飯とした。明日の天気を確認しようと思って、テレビを点けたが、これはただの癖である。高尾山を登りに行く予定があるわけでなし、明日の天気など、別に晴れていようが大嵐だろうが、より子には何の関係もない。案の定、きゅうりをポリポリしているうち、どういう予報だったのか全く記憶に残らぬまま、天気予報のコーナーは終わってしまった。


 銭湯に行くのには、何を持っていけばよいのだろうか。久しぶりすぎて、よくわからない。とりあえずは、シャンプー、トリートメント、ボディソープ、タオル類、着替えの下着、か。

 考えながら、それらを次々と水色のエコバッグに入れた。グレーのスウェットの上下に、大昔はお出かけ用だったパタゴニアのフリースを羽織って、銭湯に向かった。


               ◇ ◇ ◇


 それから1時間少しの後。


 銭湯から帰ってきたより子は、テレビのスイッチも点けず、ただただ放心していた。

 子供の時以来の銭湯が、気持ちよかったからか。そうではなかった。


 より子が銭湯に入ると、男湯の側からは引き戸をガラガラッとやる音や、お湯をバシャッとやる音が聞こえてきて、少なくとも2人くらいは、客がいそうな雰囲気であった。しかし女湯は、より子お一人様の貸切状態であった。

 そして、番台には、初老の男性が座っていた。

 銭湯に来たのは30年振りくらいだ。だから昨今の銭湯事情など、知りようもない。それにしたって、番台に男性はないだろう、と、より子は思った。番台といえば、おばあちゃんの指定席ではないのか。いくら初老の男性とはいえ、独身の身でたったひとり、この場で裸を晒すのは、恥ずかしいと感じた。なので、中央の大きな鏡寄り、番台から身を隠すような位置で、より子は服を脱ぎ始めた。

 服を脱ぎながらチラチラと、番台の方を見るが、番台の男性は勿論、より子の事を気にする素振りも見せなかった。

 より子は確かに、自分でも重々自覚する程度に「色気」というものを持ち合わせていない。胸もないし、丸いお尻もない。言ってみれば凹凸のないプロポーションで、そういうマニアには受けるのかも知れないが、そういうマニアには素敵な男性がいないことも、よくよく承知していた。去年会社に入社してきた栗田くんが、そういう娘が好みだと、聞きもしないのにペラペラ話していた。そして栗田くんは、より子の恋愛対象としては、全くの範囲外だ。つまるところ容姿で、好みの男性にアピールする可能性については絶望視していた、ということだ。

 勿論、男女関係というものは、見た目のことばかりでなく、色々な繋がり、関係で成り立つものだ。しかし、趣味らしい趣味も持ち合わせておらず、何かについて語れるほど好きなものがあるわけでもない。性格も、他人に対して細かく気配りをする以前に、自分のことで精一杯であるし、仕事以外のあらゆることが「たしなむ程度」で、そして肝心の仕事さえも、ものすごく有能、というわけでもない。

 そういった自己分析をして、落ち込む時期もとうに過ぎ去ってしまった。考えても仕方のないことは、なるべく考えないに超したことはない。そう思って生きてきて、果たして何年くらい経つのだろうか。思い出せない。


 銭湯という公共の場ではあるが、今ここは、番台の男性とより子の二人しかおらず、そんな状況で、自分が裸になっているのに、気にもされない。勿論、向こうは仕事であそこに座っていることは承知しているが、それにしてもなんだか淋しい気がした。といって、あからさまに気にされても、やはりそれはそれで困ってしまう話ではある。

 うーん。私は一体何を考えているのだ。

 より子は、長いこと封印していたような、正体不明の感情に翻弄されてしまった。いったい今、私はどんな表情をしているのだろう。洗い場の引き戸をくぐり、お湯をかぶり、顔半分まで湯船に沈め、ブクブクと泡を吐いた。


 自宅で入浴するよりも、ずっと熱めの湯に浸かりながら、より子はリラックスするどころか、考えることを止められずにいた。

 公共の場で、しかも番台に座る初老の男性相手に、自分が女としてどう見られているのか、などと馬鹿なことを考えてしまった自分は、気でもふれてしまったのだろうか。何を考えているのか。何を考えてはいけないのか。

 湯船から上がって、髪を洗い、体を流す。昔と全く変わっていないと思われるケロリンの桶にお湯を張りながら、違うことを考えようと、努力してみた。

 アフリカの方では水不足で飢餓が進んでいるらしい。一方で今、ここにいる私ときたら、この蛇口を押し続ける限り、滔々とお湯が流れ出てくる。そして今この状況であれば、お風呂を上がるまでずっと、ただ何の意味もなくお湯を流し続けていたとしても、誰にも咎められないのだ。神様、世の中はなんと不公平なのか。アフリカの人たちがここに来たら、彼らはお風呂に入るのだろうか。それともやはりここは、飲料用が優先か。もし急にお湯なんか飲んでしまったら、ショック死してしまうのではないか。

 考えながら背中にお湯を流しつつ、ふと番台の方を振り返ると、男性は口を大きく開けて居眠りしていた。

 アフリカ問題は一瞬で頭から消え去り、より子はだんだん、腹が立ってきた。

 そもそも番台に座っていたのがおばあちゃんだったら、こんな問題に気を病むこともなかったのに、なぜに男が座っているのか。そして、初老の男性の目線を、銭湯で気にしている自分が情けないったらない。きっと彼氏でもいたら、考えもしないであろうことを、独り身だから、あんな初老の男性の目線すら気になってしまうんだ。ああ、寒波さえ来なければ。水道管さえ破裂しなければ。そして、銭湯に来ようなんて気まぐれを思いつかなければ、こんな思いを抱かずに、いつも通りの波風立たぬ平穏無事な土曜日であったはずなのに。どうしてこうなってしまったのか。そんな風に、ありとあらゆることに腹を立てていたのである。


 入浴を終え、脱衣所に戻ったより子は、髪の毛をタオルドライしながら、息をスッ、スッ、スッとリズミックに吸い、そのあとフゥーッと深く吐き出して、ちょっと落ち着こう、と自分に言い聞かせた。

 そもそも、何故あんな初老の男性の目線を気にするのか。相手は銭湯の番台で、確かに今日この時間は私の貸切状態だが、日頃、女性の裸など見飽きているはずである。私のような女が見向きもされなくても、当たり前ではないか。もしくは、私が仮に魅力的な女性だったとして、相手は初老の男性だ。年齢的に女性を求める気持ちが全くないのであれば、どうしようもないではないか。そう考えると、少し気が楽になった。

 そこでもう一度、服を着る前に、体に巻き付けていたタオルをはだけたところで、全裸で、番台から見える位置に立ってみたところ、カッと顔から火が出るほど恥ずかしくなり、慌てて鏡に駆け寄った。心臓がドキドキしている。男性はこちらを見ただろうか。わからない。全く見る余裕もなかった。

 深呼吸して、下着を身につけ、より子は再び考えた。おかしい。どうもおかしい。私は何ゆえ、あの男性の視線をそこまで気にするのだろう。私は「見て欲しい」と思っているのか。独り身が長くてついにおかしくなり、アブノーマルな欲求が芽生えてしまったのか。それともこれは、もしかして、恋なのか。まさか。バカな。何故。

 すっかり服を着て、恐る恐る番台の方を見る。男性は相変わらず居眠りしているので、そうっと近寄り、じっと顔を見た。決して悪い感じの男性ではない。とはいえ、恋愛対象となり得るか、と問われると、どうだろうか。どう見たって、自分の父親と同世代、下手したらさらに年上の男性である。しかもこの男性の人となりすら、何も知らない。

 考えていると突然、脱衣所の古い柱時計が8時の時報を知らせた。ゴーン、ゴーン。番台の男性が目覚めた。目が合う。

 心臓が口から飛び出してそこいらを跳ね回りそうになり、大慌てでエコバッグを拾い上げ、VANSのスリッポンに踵が入るのも待たずに早足で銭湯を飛び出した。

 駆け出したその時、頭の後ろで「ありがとうございました」と声がしたような、気がした。

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