▲7手 花冷え

 ゴールデンウィークが終わっても暖房を使う北国にあって、四月下旬、それも日が落ちてしまうと、体感は冬と変わらない。アパートの駐車場に車を停めた香月は、肩に力を入れて両手で身体を包むようにしながら部屋のある二階へと向かった。


「落としましたよ」


 階段の二段目に足をかけたとき、ふいに背中から声をかけられた。そこには、寒そうにポケットに手を入れた梨田が、香月のアプリコットピンクの手袋を片方差し出して立っていた。誕生日に義姉からもらったそれは一応持ち歩いているものの、車の運転中は滑るので使っていない。したがって、コートのポケットに突っ込んだままにしていたものだった。自分の物だとすぐにわかったのに、香月は受け取るどころか声さえも出せずに、ただ目を見開いて梨田を見つめた。もう二度と会うことのない人だと思っていた。


「参加者名簿、見せてもらって暗記した」


 手袋のスウェード生地を親指で撫でながら、梨田は香月の疑問を先読みして答えた。


「ちなみに何かの法とか条例に触れる行為だってことも自覚してる」


「危ないからとりあえず降りて」と言われ、階段を降りて正面から向き合う。


「香月が嫌ならちゃんと忘れる。住所も、電話番号も、香月のことも」


 向かいの家の玄関先では、真っ白な雪柳がゆるやかな風に楽しげに揺れている。しかし、同じそよ風に梨田はぶるりと身を縮こまらせた。かつて真っ赤だったほっぺたは、寒さでいろを失ったように白い。


「……いつからいたの?」

「仕事だろうと思ってたから、そんなに前じゃない。一時間くらいかな」

「とりあえず、上がる?」

「本当なら断るべきなんだろうけど、さすがに寒いからお邪魔しようかな?」


 了承の代わりに、梨田から手袋を受け取った。

 うしろをついてくる足音に香月は緊張してしまい、バッグから鍵を取り出すことさえうまくできなかった。ドアが開いてホッとしたけれど、大事なことに思い至る。


「ごめん! ちょっとだけここで待ってて!」


 正方形の狭い玄関に梨田を残し、扉で仕切られたワンルームに飛び込む。飲みかけで放置していたカップをシンクに運び、適当にかけてあったベッドカバーをきれいに整え、枕元に散乱してあった雑誌はまとめてベッドの下に突っ込んだ。テーブルを拭き、床に転がっていたボックスティッシュをチェストの上に乗せたところで、それ以外はあきらめる。


「……どうぞ」


 寒さなんて感じる間もない時間だった。点火まで少し時間のかかるファンヒーターから、ようやく熱風が出てくるまでのわずかな時間。


「おじゃまします」

「ここに座って。今お茶淹れるね」


 一応上座である窓際を示すと、梨田は何も言わずそこに座った。香月があわてて片づけていたことなどわかっているだろうにそれには触れず、あたりを見回すこともしなかった。

 梨田に背を向けて、香月はやかんを火にかける。コーヒーメーカーで落としたコーヒーよりも、熱々のお茶の方がいいと思ったからだ。急須に玄米茶の茶葉を入れ、しばらく使っていなかった来客用の湯呑みを用意すると、もうすることがない。思い出して袋入りの唐辛子せんべいを器に用意したけれど、あとはチリチリと音がするだけのやかんを見つめるしかなかった。

 背後に、自分の生活空間に、梨田がいる。意識的に呼吸しないと、息さえ止まってしまいそうだった。


「ごめんね。お待たせしました」


 トレイに湯呑みふたつと唐辛子せんべいの器を乗せてふり返った香月は、今度こそ本当に息を止めた。梨田の前には、ベッドの下に放り込んだはずの雑誌が広がっていたからだ。そして梨田は悪びれもせず、付箋のついたページから顔を上げる。


「たくさん聞きたいことはあるんだけど、とりあえずはごめん。勝手に見ちゃった」


 パラパラとページをめくる音がする。何度も読んだ将棋雑誌。小さな記事にさえ貼られた付箋。古いものは、梨田の奨励会の成績に関するものだ。

 動揺を抑え、とりあえず機械的に湯呑みと器を梨田の前に置く。その時、梨田がページの間に挟んであった紙を引っ張り出した。


「あ! それ、ダメ!」


 あわてて手を伸ばすも、梨田はそれをさらっとかわす。


「あっぶない! こぼしたらやけどするよ?」


 湯呑みをテーブルの端に寄せながら香月のことも遠ざけ、梨田は頭上で広げた紙をしっかりと見る。


「へー、これはすごいね。よく見つけたなぁ」


 それは梨田が新聞に寄せたコラムだった。全国紙の夕刊に載ったそれは、地方にいる香月には入手できず、関東に住む友人に頼んで記事を撮った画像を送ってもらった印刷だ。下着を見られた方がまだマシだと思えるほどの羞恥だった。顔は赤くなるどころかむしろ青ざめ、湯呑みを包み込む両手をじっと見つめて、梨田から目を逸らす。もうもうと湯気が上がるそれはさすがに熱くて、少し抱えては手を離す。

 ふーっと静かなため息を、梨田は鼻から漏らした。顔を見なくても、何か考え込んでいる気配が間近で感じられた。


「香月はやっぱり嘘つきなんだな」


 パタンと強い音がして雑誌が閉じられ、テーブルの上に数冊そろえて重ねられた。その音に反応して目線を上げると、梨田は対局のときと同じような強い気配で香月に迫る。


「昔のことはだいたい想像がついてる。結婚のことは……気にはなるけど今はいいや。俺のこと知ってたくせに隠してた理由とか、この前の道場での態度については、想像じゃなくてちゃんと聞きたい」


 胸に去来するさまざまな感情を、香月はうまく言葉にできない。そもそも伝えるべきかどうかわからなかった。その戸惑いをわかったように、梨田はふっと空気をゆるめてお茶を大きくひと口飲む。


「と、言いたいところだけど、どうせ聞いたってペラペラ話すタイプじゃないし、強く出たら頑なになりそうだし。だからいいよ、答えなくて」


 ゆったりした話し方とは裏腹に、梨田の目はまだ熱を持ったものだった。視線を正面から合わせたまま、その手が香月に伸ばされる。そして湯呑みに添えられていた指先を、きゅっと握った。


「その代わり、いやだったら振りほどいて。そうしたら帰るし、忘れるから」


 梨田の手も香月の手もあたためられていたから、熱くも冷たくもない、ちょうど同じ温度でよく馴染んだ。しっかりと握られているのに、かんたんにほどくことができる強さ。


「もし、再会して間もないこととか、結婚がなくなって日が浅いことが気になるなら、香月が納得できるまで待ってもいい」


 香月は黙っていた。視線もそらさず、指もほどかず。もしこの手を離したら、今度こそ本当に二度と会わないだろう。香月のことは思い出の中にしまい、新たな世界で前を見つめるのだろう。梨田は約束を守る人だから。きっとそれが最善手。


「……これが、返事でいい?」


 そう問われて、ようやくゆっくりとまばたきをしてから、首を横にふった。指をうごかすと、梨田の手は難なくほどけた。ほんの少しだが確実に指先が冷える。そのまま手を引くはずが、まだ香月の手を握った形のままそこにある梨田の手を見て、つい強く握り返した。


「返事は、こっち」


 ずっと緊張していたような梨田が、一気に破顔した。爆笑されて、香月は唇を尖らせる。


「なんで笑うの?」

「いや、ごめん。さすが香月だと思って」


 梨田の手がするりとはずれた。同時にこわばっていた空気もゆるみ、ファンヒーターや冷蔵庫の音がもどってくる。


「あー、ほっとしたら腹減った」


 お茶を飲み、唐辛子せんべいの封を開けて大きくかじる。


「うわっ! これ、すげー辛い!」


 あわててお茶をがぶ飲みする梨田に、声を立てて笑う。


「何もないけど、カレーなら作れるよ? 食べる?」

「え? いいの? 食べる!」

「……期待しないで。ルー溶かすだけの普通のやつだから」


 お米をといでも、じゃがいもを洗っても、指先には熱い血がめぐったままだった。「テレビでも見て待ってて」とリモコンを渡したのに、梨田は真剣な顔で将棋雑誌を読み耽っている。その姿は、いつもコンビニの前で詰将棋を解いていた少年の頃とちっとも変わっていない。ずいぶん大きくなったし、すらりと痩せて、メガネをかけて、雑誌の詰将棋なんてスイスイ解けてしまうようになっても。


「香月、これ解ける?」


 少しにやにやしながら、梨田が雑誌のページを指さす。


「……何手詰め?」

「仕方ないなあ。七手詰め」


 梨田の表情から、かんたんに思いつく手ではないと読んで、香月はまず飛車を捨てる手から読み始めた。

 そのせいで焦がしてしまったカレーライスは、それでも香月にとって久しぶりにおいしく感じる食事だった。ときどき焦げが浮いているのに、梨田は「おいしいよ」と言ってたくさん食べてくれる。つられて香月もいつも以上によく食べた。しかし、離れがたくて思わず握り返した手を、香月はすでに後悔し始めていた。わずかに舌に残る焦げのような苦味が、香月の心にも広がっていた。






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