△6手 春風

 池西将棋道場は、昔と変わらず小さなビルの二階にあった。かつて文房具屋だった一階は、子ども向けの英語教室になっていたけれど、三階と四階は変わらずアパートのようだ。

 冬は凍って閉まりにくくなる引き戸は、カラカラと小気味いい音をさせて開いた。その途端、暗いコンクリートの階段の向こうから、活気のある話し声が聞こえる。


「こんにちはー」


 道場の入り口には『受付』と書かれた机が置かれていて、若い男性が笑顔で迎えてくれた。


「こんにちは」

「参加希望ですか?」

「あ、はい」

「こちらは初めてでしょうか?」


 少し迷ったけれど正直に答える。


「いえ、以前にも、何度か」


 男性はパラパラと名簿のようなものをめくる。


「では、お名前と級位もしくは段位をお願いします」


 道場に通っていたなら、当然級位の認定はされているはずで、かつては香月もアマチュア二級と言われていた。けれど、まったく指していない今、とても二級の力はない。


「えっと……」


 言いよどんでしまうと、名簿から顔を上げた男性が怪訝な顔をする。開き直って二級と言うべきか、それともこのまま引き返して帰ってしまおうか。二択の間をうろうろ往復していると、


「もしかして、香月ちゃん?」


 真っ白な髪の男性が、奥から声をかけてきた。


「池西先生!」


 懐かしさからつい声が大きくなる。


「本当に香月ちゃん? いやいやいやいや、すっかり大人になったねえ」


 以前から髪が白かったせいか、池西は十数年経っても昔のままに思える。


「ご無沙汰してます。先生は全然お変わりありませんね。覚えていてくださってうれしいです」

「香月ちゃんはうちの将棋大会で唯一優勝した女の子だからね」


 受付の男性が感心したように香月を見るので、手を振って否定した。


「あんなのたまたまです!」


 香月の反応など気に止めず、池西は


「この子はいいよ。梨田先生のご指名だから」


 と男性に言って、それでも一応参加申込書だけ渡された。


「香月ちゃんが来たら平手(ハンデなし)で、って言われてるんだよ。最大のライバルだったからね」


 記入しながらげんなりとため息をつく。


「いつの話ですか。もう立場が違います」

「こんな趣味でやってるような道場から、まさかプロ棋士が出るなんてねえ」


 池西がしみじみと見回す道場内には、みっちりと人が集まっている。高校将棋部の生徒やアマチュア強豪の人が指導に来ることはあっても、プロを呼んでイベントをやるような大きな道場ではない。普段二、三人の小学生と、常連さんしかいないので、こんなに賑々しい風景を、香月ははじめて見た。これはすべて梨田の存在ゆえのものなのだ。


「やっぱりすごいですね、プロ」

「あのままここにいてもプロにはなれなかったと思うけどね。それなのに覚えていてくれて、指導にも来てくれた。本当にありがたいことだよ」


 あの頃必死で切磋琢磨していたつもりでも、お互いにたいした棋力はなかった。梨田が力をつけたのは、東京に戻って大きな将棋センターに通うようになってからだ。それでもきっと梨田は義務感ではなく、好きでここに来ている。香月の知っている男爵はそういう子だった。

 けれど梨田の出身は東京だし、今住んでいるのも東京。ほんの一時縁があったとはいえ、ここに来ることはもうないだろう。


『梨田史彦先生、四段昇段おめでとうございます』と書かれたホワイトボードの向かいに、将棋盤が三面並び、それとL字になるようにさらに二面置かれている。指導対局は持ち時間三十分。五人一度に、何回かに分けて行われるらしい。香月は一番最初の回で、二面並んだテーブルの一番端に座った。見学の人や指導対局を待っている人は、将棋を指したり、雑談しながら時間を待っている。香月はホワイトボードの『梨田先生』の文字を、感慨深い気持ちで眺めながら駒を並べた。


「お待たせしました!」


 受付にいた男性に案内されて、梨田が道場に入ってくると、その場にいた全員が立って拍手で迎えた。入り口で深く礼をした梨田は、


「棋士の梨田史彦です。本日はよろしくお願いします」


 と奥まではっきり聞こえる声で言った。それからたくさんの拍手に笑顔で応え、香月と視線が合ってふわっと笑う。その笑顔を受けて、香月も笑顔を返した。

 やく束は守もりました。

 二度と会うことはない思い出の中の幻だと思っていた。それでもふたたび出会ってみると、ただこの一局のためにこれまで生きてきたような、そして明日にはまたすべてが幻になってしまうような、そんな気持ちになっていた。


「よろしくお願いします」


 梨田が端の人から順に挨拶して、駒落ち(ハンデ)の確認をしてから指していく。その後参加者は自分のタイミングで一手指して梨田を待つ。梨田は一手指しては次の盤へ移動していくのだ。そうしてほどなく梨田は香月の前にやってきた。


「こんにちは」


 かける言葉に迷ったような一応の挨拶を梨田がして、


「あ、はい、こんにちは」


 久しぶりに会ったお隣さんのように、複雑な空気をかもしつつ、深く頭をさげた。駒の位置を指先で整えながら、梨田はいたずらっぽく笑う。


「カズキは平手でいいよね?」


 奨励会にも入っていないアマチュアがどれほどのものなのか、梨田は香月本人よりもよく知っているはずなのに。香月は顔をチラリとうかがい、梨田の方の飛車、角行、さらに香車二枚を盤外に寄せた。


「へ? 四枚落ち?」

「あれから全然やってないの。桂馬も落とそうかな」

「あれから? 全然?」

「あの夜が最後」


 あまりに予想外だったのか、梨田の顔から笑顔が落ちた。急に気温が下がったような気がして、香月はあえて目を合わせ、気にしないでというように微笑む。


「梨田先生、六枚落ちでお願いします」


 再度告げると、梨田はふっと笑って了承の意を示した。

 梨田とこうして盤を挟んで向き合うのは、これで三度目。そして最後。神様のきまぐれでたまゆら重なったふたりの時間は、あと一局分だった。


「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


 唱和した梨田は、けれど「あ!」と言ってその場を離れた。戻ってきたその手には、駒のストラップが握られていて、苦労しながらその濃紺の紐を外している。自分の王将と入れ替えたのは、ストラップ用に小さな穴の空いた“玉将”。


「カズキといつでも対局できるように、持ち歩いてたんだ」


 梨田はその玉将を人差し指と薬指ではさむと、手首をクイッと曲げて高く持ち上げ、同時に親指を添える。そこから中指と人差し指の二本に持ち替えて、すとんと真っ直ぐにおろす。見よう見真似で指していた小学生時代には、ぎこちなくて不格好だったその仕草は、洗練され自然だった。


「もうプロなんだから、王将でいいでしょう?」

「カズキは俺の目標だからね」

「ずっとずっと昔の話だよ」


 ひとつだけ穴の開いた駒に、中指の先を触れさせて、梨田は首を横に振った。


「カズキはいつまでも、届かない人だよ」


 梨田は一手ずつ指しながら、おだやかな声と表情で積極的に参加者に話しかけていた。「よく勉強されてますね」「まだ今は角の打ち込みを警戒する必要はないですよ」などと、丁寧に指導している。ある程度緩めて指しているらしく、たいていは梨田の方が投了を告げていた。そして感想戦に入ると、戻した盤面で「ここに歩を打った方がよかったので、こっちは桂馬で受けて」などと指導し、「だけど守りを捨てて攻撃に転じたタイミングはとてもよかったです」と最後はきちんと褒めて終わらせる。それは大人であってもとても気分のいいもので、みんな笑顔で席を立っていった。

 ところが、香月の盤面だけは総崩れしていた。香月の前に立つと、梨田は空気を変える。指導対局においてプロ棋士が考える時間は、基本的に数秒程度。しかし香月の盤の前で、梨田は数十秒考え込むことさえある。そうして指した手は盤に刺さるほどに重く、そこから風が立つようにも思えた。香月も息が苦しいほどの圧力にあらがって、必死にくらいついていた。向かってきた手は受ける。後ろには引かない。自玉の守りが薄くなろうとも、チャンスがあると見れば勝負に出る。


「相変わらず気強いな」


 六枚も落とすほどの弱いアマチュアに、梨田は真剣に勝とうとしている。それはその場にいた誰もが感じていた。気をつかっているのか、ふたりの周りには誰も近寄らない。

 一見隙がありそうに見えても、絶妙なバランスでかわされる。何気なく指したような手が、香月の攻めの芽を摘んでいる。目をつぶって季節を通り抜けた香月と、歯をくいしばって季節を重ねてきた梨田。その違いが盤上にはっきりと現れていた。

 あと一手、あの歩を成られたら投了しよう。

 もう手を考えることはせず、しずかに盤を見つめる香月の前で、梨田の手があやまたずに歩を裏返した。その先端を盤にコツンと触れさせる。


「ひとつ、確認したいことがあるんだ」


 香月は梨田の手にあると金から、視線を梨田本人に移す。


「今日、指輪は?」


 一瞬ためらったのちに首を横に振った。それを確認して、梨田は香月のネームプレートを駒を持つ方とは反対の手で指さす。


「名前、まだ“杉江”さんなの?」


 自嘲的な思いが口元を綻ばせた。


「その話はキャンセルになりました」


 梨田の指から盤上にと金が滑り落ちる。それを確認して、香月は満面の笑みをその上に落とした。


「はあー、負けました!」


 次いで勢いよく頭を下げ、ふたたび見上げた梨田は、まだぼーっとしたままだった。


「香月」


 名前がそっと呼び変えられたことには、当然気づかない。


「結構がんばったんだけどな。負けちゃった」

「ブランクあるからだよ」

「当たり前だけど、強いね、梨田先生」

「その呼び方いやだ」

「六枚落ちでも完敗。もう気軽に話しかけたりできないね」

「俺はそんな立派な人間じゃない」

「だめ」


 少し赤い目に力を入れて、香月はしっかりと梨田を見上げた。


「私なんて届かないくらいの、立派な棋士になって。梨田先生」



 池西将棋道場のアルミ製のドアがカチャリと閉まった。同時にコンクリートの床にはとうめいな滴がひとつ落ちる。バッグからハンカチを取り出す間に、滴がまた床を濡らした。手を動かすより早くポタリ、ポタリと落ちつづけるからキリがない。ようやく取り出したハンカチで目元をせき止めて、香月は急いで階段を降りる。

 軽快な引き戸を開けて外に出ると、埃っぽい強い風が髪を吹き上げ、一瞬視界が閉ざされた。まだ高い太陽は弱った目にしみるので、アスファルトの消えかけた白線を見つめるようにして、こみ上げる涙を飲み込みながら通りを歩く。

 将棋の道をあきらめてからずっと、心の奥に重苦しいものを抱えて生きてきた。父がいなかったから。お金がなかったから。将棋会館が遠かったから。たくさんの言い訳をして、才能がないことを認めて来なかった。

 もし自分が男だったら、もっと将棋が強くなれたんじゃないか。そうしたらお金のことも母のことも省みず、奨励会入りを選んだかもしれない。女だったから夢をあきらめざるを得なかった。

 梨田の将棋は、そんな負け犬の遠吠えを一掃するほどの力があった。


『相変わらず気強いな』


 そうつぶやいて指した手は、息が止まるほど鋭かった。

 あの夜から十数年。叶うかどうかわからない地獄同然の夢を一心に目指して、とうとう掴み取った人間の重みだった。たとえ香月が男に生まれていたとしても、梨田より才能があったとしても、あれだけの努力と覚悟を持てる気がしない。

 気持ちが落ち着くまで歩いてみたら、いつの間にか国道に出ていた。祖母が亡くなってからはめっきり通ることがなくなった通りを、物珍しい気持ちで進んだ。あのころ梨田が待っていたコンビニはなくなっていて、今はまた別のコンビニになっていた。当然、詰将棋を解きながら友達を待っている少年などおらず、数台の車があるだけ。街並みも少しずつ変化しているはずなのに記憶はあいまいで、実のところよく覚えていない。この通りを歩くときはいつも梨田と話しながら、頭の中に盤を広げていたからだ。

 橋が見えてきたころには、脚にだるさを感じるようになっていた。川からの微風が汗ばんだ肌に心地よい。車移動が当たり前になってしまった香月にとって、この距離は思った以上に長く感じた。幼い足であればなおさら遠かったはずの道のりは、これほど永遠には感じなかったのに。

 今朝のニュースによると、県内でも早いところは桜が三分咲きだという。しかし、川沿いの桜並木はまだ蕾をほころばせた程度で、ほんのり紅みを帯びた枝だけが連なっている。その枝の下を、ゆるくカーブを描いた細い道が伸びていた。

 梨田が住んでいたアパートは香月の家の方向ではなく、実はこの道の先にあったらしい。それを知ったのは、彼が転校した翌年のことだった。







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