第16話


「茜は、今日も来ないのか?」

 昼休みになって、浩太は校舎の裏の中庭に蒼を見つけ、訊いた。


 植えられた樹の下で足を投げ出している蒼は、口元のパンを持つ右手を下ろすと、わずかに視線を上げた。

 目が合うと、〝どうしたものか〟というように頬を強張らせた。

 あの日からずっと、俺たち二人の間には、こんなぎこちない空気が漂っていて、ここへ来てすぐの…──俺が転校してきた直後の──関係性に戻りそうな、そんな感じになっている。


 今朝もだんまりを決め込む蒼にあしらわれていたのだが、ここはがんばって目線を逸らさなかった。


 そんな俺に、蒼は、いよいよ観念するときが来たといったふうに、重い口を開いた。


「茜は、もう来ないよ……。転校、することにしたんだ」

「え……」

 それは俺には〝寝耳に水〟だった。

「──どうして?」


   *  *


「…………」

 はっきりと動揺した浩太に、蒼は応えない…──答えられなかった。


「ひょっとして、あのことが原因か?」

 瞬間的に顔を紅潮させた浩太に、

「違うだろ」

 蒼は怒ったような口調で云う。


 内心でこう云ってやりたいのを飲み込んでいた。


 ──違わない……、そうだよ。


 でもそういうことじゃなくて、原因はお前なんだよ、浩太。

 お前のために茜は、もうお前と会わないようにするんだと──


 姉のその選択が、蒼には正直、理解することができなかった。

 それでも、血を分けた姉にあんな表情をされてしまうと、もう何にも言えなくなる。

 本当のところ、にあんな表情かおさせるやつはぶん殴ってやりたい。


 ──浩太をいっそこの場で殴ってやろうか……。


 一瞬、そう思う蒼がいた。

 ……と、脳裏に、茜のことで逆上して理性の歯止めを失った浩太の、荒々しい表情が過ぎった。


 ──俺の中にも、同じモノが棲んでいる……。


 結局……、


「ともかくそういうことで、茜には会えない。いま家にもいないから、来ても会えない」


 蒼は、それだけ云うと浩太から逃げるように離れた。

 置き去った浩太の表情がやるせない。

 こんな何ともやりきれない感じが、とても嫌だった。



   *  *


 ぽつり、ぽつりと雨の雫が落ちてきた。

 水面に映る木立ちの、その惹き込まれるような緑色のグラデーションが、物憂げなリズムの波の輪に、途切れ途切れ揺蕩たゆたっている。


 結沙は、その水辺の苔した岩の上で膝を抱えるようにしてじっとしていた。


 この水辺は、彼女の『とっておき』の場所だ──。

 ここでは時間だけがそっと通り過ぎていって、心が落ち着く。

 …──そういう時間が、結沙は好きだった。



 通り過ぎていく時間を見送るように、結沙はじっと動かない。

 背後で微かに音がして、膝に半分埋もれていた結沙の頭が、ふ……と、少し持ち上がった。



「──あおちゃんでしょ……?」


 けぶるような目を水面に向けたまま、結沙が、気怠けだるい感じに問い掛ける。

 一拍置いて、背後の小径こみちから現れた蒼が、観念したように結沙の許まで歩み出た。


「雨、降ってきてる……。風邪ひくぞ」

 彼女の側にそっと立つ。


「傘は……?」

 結沙は目だけ仰いでそう訊いて、蒼が横に首を振る気配に薄く笑った。

「──そういう台詞……、持ってきた傘、開きながら云うでしょ、ふつう……」


「悪かったな……」

 蒼がちょっと顔を顰める。

 結沙は口許だけをちょっとほころばせ、蒼に訊いた。

「茜……転校するの?」

「そうしたいらしい」


 結沙は蒼と魂の形が似てると感じてる。

 ……だから言葉の投げ合いが楽だ──。


「自分で決めたんだ、茜……」

「コータは動揺してる……」


 ──あおちゃんも動揺してる……。


「誰か、コウちゃんにはもう会わない方がいいって?」

「──葉山のおやじさんが、そう頼んできた」

「そうなんだ……」


 大人の考えだと、そうなるよね……。

 そう結沙も理解できる。


「結沙はどうすんだよ? これから」


 少し、蒼の口調が変わった。

 それに結沙も気付きはしたが、どう応じたものかわからない……。


「学校?」 何も考えてないように装った。「……う~ん、このまま辞めちゃおっかなー、なんて……」

 蒼の反応を探ることにする。


「は?」

「あははは……」

「おい……ここは怒って欲しいとこか?」

「…………」


 わりと本気に蒼が怒ってるのが伝わってきたので、結沙は自分の肩を抱くように身を固くした。

「──あんなことが起こるとさ……、あたしらが人間ひとになるってことは、やっぱりとても難しいことなんだなー、とか思っちゃうでしょ……」


 気付けば、弱気な自分が顔を出していた。

「あたしは、ここで……、このまま……ずっとね──」


 けれどそれは、途中で重ねられた蒼の声に断ち切られてしまった。


「──甘ったれんなよ……今更……」


 蒼の言葉に怒気はなかった。ただ、弱い自分を指摘されただけ……。


「俺たち、もう人間になるしかないって、結沙は言ってたろ」

「…………」

 結沙は目を臥せると、下唇を小さく噛んだ。「──今日のあおちゃんは、やさしくないね……」

 蒼が鋭く小さい息を吐くのが聴こえた。


「結沙がほんとに優しくして欲しいのは、明弘だけだろ?」

 あえて少し突き放すような、その蒼の声に、結沙は蒼の顔を見上げる。

 見下ろす蒼の目は真っ直ぐで、不思議な色をしてる。

「──諦めちゃうのか?」

「…………」


 結沙はうつむくと、居ずまいを正して立ち上がった。

「──帰る……」


 後も見ずにその場から立ち去る。

 ──蒼が優しいのは知っていて、そんな蒼に自分は甘えるばかりで、……それがいまの結沙には恥ずかしかった。




 後に残された蒼は、苦笑気味に足元の土を蹴ると、まだ雨足の柔らかい灰色の空を見上げて首を振った。


 ──ったく……。俺は一体、何のキューピットなんだよ……。

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