カイ kai【海】

うまく、眠れるだろうか。


四人部屋のドア側の片隅のベットに腰かけたまま、由季は動けずにいた。


担当の渡辺ナースが、プラスチックのコップに【小川】とシールをはって持ってきた。

「これで飲み物のんでね。6時になると夕食が届くから、廊下に取りに来てね。」そう言って、ナースステーションに戻って行った。


私の足向かいにいる女性はおかっぱで、かわいらしいパジャマを着ていて、年齢が不詳に見えたが、自分よりは少し上に見えた。こちらへやってきて、

「今日から?よろしくね。私、京子といいます。」とあいさつされた。「私は由季といいます、よろしくお願いします。」


そうしているうちに隣のベットにいた女性が夕飯を取りにきたついでに、

「よろしくね。私、いびきがうるさいの。ごめんね。後藤よ。」と言ってきた。

「よろしくお願いします。小川由季です。」と言った。


もうひとつ、ベットが空いていた。昨日、私のところと同時に空いたらしい。


私は、なんとなく安心して、夜の病院食を食べた。8割方食べれた。食欲はいつもと変わりはなかった。食器を返すとすることはなくなり、またベットに腰をかけた。ここの病棟は携帯の充電は詰所で行うこととなっていた。通話は朝9時から夕方4時までで、病棟外で話すこととなっていた。ちょっとしたメールや調べものは病室でしてよいが、音をたててはならないし、消灯後は携帯を触らないことと決まっていた。


私はベットサイドの引き出しから携帯を出して、見てみると、たくさんのメールが入っていたので驚いた。


祖母、青二くん、岡田くん、美琴さん、そして岸本さん。


それらのメールをベットに横になりながら、ぼんやりと見ていた。今までなら、何も考えずに返信していたのに、返信すらする気になれずにいた。携帯を枕の横に置き、真上の天井を眺めた。白くて、少し波打つ柄が入っていた。ベットサイドの引き出しや服入れ、シーツ、床も全て白かった。なぜか、その空間は、胸の奥深くで呼吸ができるような感覚を覚えた。


テレビや本のある談話室には、なぜかまだ行く気になれなかった。


精神科、だなんて、私はそんなに弱かったのか?一生の間に精神科にかかるとは、夢にも思わずに生きてきた。

だけど、私の言動は入院直前、確かにおかしくなっていた。


8時になり、夜の薬を看護師が持って巡回し始めた。夜勤だろうか。まだ、担当の看護師しか覚えていない。

「はい、お薬ですよ。こんばんは、小川さん。調子はどう?」と夜勤の看護師が聞いてきた。


「あ、こんばんは。今は落ち着いています。」と答えた。


「はい、小川さんは眠剤と安定剤ね。」二粒のお薬を渡され、その場でお水で流した。


巡回は隣の部屋に去っていった。


これで私、今日は夜中に起きて記憶のないまま、何かしたり言ったりしないのかしら。

急に胸苦しくて、息ができなくならないかな。

色々な不安があった。

自分の身体が自分じゃないようだったり、思考に身体の動きが付いていかないことも。


私は落ち着く空間、と思っていたのに、急に気持ちが落ち着かなくなってきた。じっとしていられなくて、廊下をすり足でゆっくり、ゆっくりと歩いていた。落ち着かないわりに、歩く速度が遅く、自分で、なぜ?と疑問に感じた。頭と心と身体がばらばらで、私は恐くなって、思わずその場にしゃがみ込んだ。


「大丈夫ですか?」という声は男性で、振り返ると初めて顔を合わす患者さんだった。

「ええ、大丈夫。少し気が動転してしまって。」と私は答えた。「歩けますか?良かったら一緒に。」と誘われ、私はそっと立ち上がった。両足でちゃんと立ててはいるのに、やはり、不安定に感じて少しよろめいた。とっさに、その男性は私の右腕をつかんで支えた。

私は「すみません。」と言い、そのまままた、すり足で歩いた。男性は慎重に腕を持ったままだった。そうやって、支えられ、ナースステーションまでたどりついた。


看護師が驚いて「小川さん、どうしたの?」と聞いてきたので、「頭と身体がばらばらで、心も..」と言うと、「明日、午後に先生がいらっしゃるので、それまでゆっくりしてね。合田さん、ありがとう。」看護師は私を支えていた患者に声かけをした。「いえ、僕は何も。」そう言って、私をそっと看護師にたくした。私は会釈だけして、病室に看護師と一緒に引き返した。


「小川さん。焦らないでね。よくなるからね。」と看護師に励まされた感じがした。

ベットに座るまで見届け、看護師はナースステーションに戻って行った。


私はカーテンでベットを仕切り、パジャマに着替えた。着替えて、カーテンを半開きくらいにして、ベットに横になった。あと10分で夜の9時。消灯の時間だ。私は布団を口元までしっかりかぶり、また天井を眺めていた。眺めているうちに、明かりが突然消えた。消灯。


でも、足向かいの女性も、隣の女性も、手元にある小さな灯りは付けていたので、暗闇にほのかな光が射していた。


何も考えられなかった。メールも、誰にも返せなかった。短文さえ、浮かばなかった。私はいったいどうしたのだろう。

目を閉じては、また開いて天井を見た。私は、それをくり返していた。

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