ノエノエ noenoe【霧】

岸本さんがもう一晩泊まるよ、と言ってくれたが、申し訳なく思い断った。明日から、岸本さんは通常勤務に入っていく。

私は1週間以内に、心療内科へ行き診察を受けて、診断書を書いてもらうように会社に言われている。

私が自分でおかしいかなと思い始めたのは、会社を休み出してからだった。

食べたり、眠ったりはできてはいるようだが、自分では眠っていた記憶しかないのに、夜中に紅茶を入れて飲んだ跡があったり、風呂に入ったり、知らない内にするようになっていた。


そして私は夜中に二、三回必ず、岡田くんに電話やメールをした跡が残っていた。

メールでは、「お母さんが来るから待ってます」とか、母に関係することばかりを報告していた。


岡田くんは、上司でもあるため、心配し、心療内科には僕も付き添うからと言って聞かなかった。夜中の記憶のないやりとりなども説明しなくてはいけないと言っていた。


私は仕事を休み始めて3日後に、電車で一駅先にある心療内科へ岡田くんと行くことになった。


先生はとても背が高く、理知的な顔と声をしていて、信頼できそうに感じた。

初診なので、今までの病歴や家庭環境、印象に残っていることなど、書くところがたくさんあった。


先生は丁寧に問診票に目を通し、「だいぶお疲れでしょう。お父様が急死された上にお母様まで。夜中に動き回るのは気が落ち着かないからでしょう。あまり睡眠はとれていないと思います。お一人暮らしということで、不安で無意識に連絡をとっていらっしゃいますね。お母様を待っている、と現実ではないことを現実と思われたりと、かなり混乱しています。僕は、二、三ヶ月入院治療することをお勧めします。24時間看護の目がゆき届いた場所が、小川さんには早急に必要かと思います。連携している病院に連絡したところ、空き部屋がちょうどできるということで、今日の夕方4時頃から入院可能だそうです。

小川さん。状況がおわかりですか?」先生は丁寧に伝えてきた。


「ええ。入院ですか。私、どこが悪いんでしょうか。」小さな声になったが、そう先生に尋ねた。


「今はいくつか、病名らしきものは浮かびますが、もう少し小川さんの様子を見ないと確定して言えませんが。」と言われた。


「でも、入院は急を要します。ひとりでいることは今は危険です。まだ、今は午前中で夕方まで時間があります。少しお家で休まれて、入院準備をしてこちらの病院へ行かれて下さい。」先生はパンフレットを私に渡した。そして岡田くんに、


「あなたは、今日は彼女に付き添ってあげれますか?入院先に行くまで、様子を見てあげてほしいのですが..」と言った。岡田くんは、「今日は仕事を休みとってあるので、責任もって見ます。」と言った。


それで、診察が終わり、私たちはクリニックを後にした。


「帰りに少しお茶をして休もう。入院にいるものを買って帰ろうよ。」岡田くんは力強くそう言った。


「そうね..」私は、なんだか、自分の身体なのに、自分じゃないような感じがして、変な感じだった。冬の太陽をまぶしく感じた。


祖母に連絡を入れなくてはならない。母が急死したことも。そして入院することになり、父の一周忌に参加することを、先生に止められていることも伝えなくてはならない。


私はなぜか思考に行動が付いていかなかった。


私たちは私の家の最寄り駅に戻り、ファーストフードのお店に入った。二人とも温かいコーヒーを頼んだ。

席につき、コーヒーを一口すする。室内はよく暖房が効いて、暑いくらいだった。

私たちは対面で座らず、横並びの席で並んで外の景色を見ていた。


「俺のほうから、由季のおばあちゃんに連絡入れておくよ。お父さんの一周忌欠席のことも、今は由季が過敏になっているからお見舞いも控えるよう、明日の朝に連絡入れるから、由季は心配しなくていい。」

岡田くんは、私の心を見透かすように重みを取ろうとしてくれていた。


「ありがとう..すごく、助かるわ。」私は、声が少しかすれていた。声がいつもより小さくなっているのも感じていた。


私と岡田くんが付き合って別れてから、4年の月日が経っていた。ふと岡田くんの手を見ると、左薬指に指環がはまっていた。 岡田くんは私の視線に気づき、

「1年前に結婚したんだ。子どもができて。もう生まれたよ。」と言った。


「おめでとう。」私は少しにこっとした。


「でも、俺は、お前に助けが必要なら全てを捨てて、由季をとるよ。」岡田くんのその言葉に私は過敏に反応し、

「やめて、そんなこと、言わないで。」小さいのに、大きな声を出そうとしていた。弱々しく何も止めれないような声だった。


私はなんとか話を変えたくて、入院のパンフレットに目を通した。パジャマ、洗面用具、タオル、院内で着れる服、スリッパ、下着など。私は買ってかえる物を書き出した。


お昼はそのままそこで、バーガーを食べることになった。

私はすでに、気が変になりそうな感覚がしていた。なぜ、ここに岡田くんといるのか。入院?なぜ?お母さんはどこにいるの?


私は気がつくと左手で強く肺の辺りを服の上からつかみ、肩で息をしていた。

それに気づいた岡田くんは、荷物を全て持ち、私の肩を抱くように外に出てタクシーに乗った。


運転士さんが振り向き

「大丈夫かい?どこまで?」と私に聞いてきた。

「すぐなんです。アパート リリカ。」と私は答えた。

「あの小学校の近くだね?」と運転士さんが確認し、「そう。」と答えると発車した。

岡田くんは私の右手をずっと握っていた。


アパートに着き、二人は降りた。そして、岡田くんに入ってもらうことにした。

家に帰って、すぐに、さっきの病院でもらった【不安時】という薬をお水で飲んだ。岡田くんのすすめで、少しソファーで横になった。


さっきのファーストフードの店で入院までにいるものを岡田くんが、買いに行くと言ってくれたので、お願いした。岡田くんは、すぐにまた家を出て買い物に行った。


私は自分の手を額に置いた。

本格的に自分という人間が崩れてしまうのではないかと、恐くなったが、さっきの精神薬が効いていて、まだ穏やかな気持ちでいられた。

ゆっくりはしていられなかった。ガス、電気、水道を明日から止める手配をしたり、旅行かばんに家からもっていくものは先に準備をした。


そうしているうちに岡田くんが帰ってきた。

「具合、どう?」直に心に響く声で語りかけてきた。私は

「お薬が効いてるみたい。楽よ。」と答えた。

「よかった。」また心底ほっとした顔を岡田くんがした。


私は昔から岡田くんは変わらないな、と思った。


「そろそろ出ようか。」岡田くんがそう言った。その病院は最寄り駅から電車で45分田舎のほうにあった。電車の駅と病院は近かった。


私たちは田舎行きの電車に乗った。がらがらに空いていた。


電車の中で岡田くんは、少し思いきったように

「由季、今は付き合ってる男、いてるのか?」と聞いてきた。

「うん。」私はあまり話したくはなかった。あまりに繊細な関係に思えた。私と岸本さんが。


「でも、悪いけど、俺も見舞いに行くよ。上司ということにして行くよ。」と言ってきた。私は何も言わず、首を縦にふった。


結婚した奥さんはどんなひと?いつ出会ったの?

そんな質問が頭をかすめたが、かすめて通り抜けていった。


しばらく、私たちは無言だった。私は以前のようにうとうとできない自分に驚いていた。意識はうとうとしたがっているのに、心がじゃまをしている感覚だった。


「眠いのに、眠れなくなっちゃった。」私は、ぼそっとつぶやいた。

「疲れ過ぎてるんだ。しっかり休まないと。」と言って、私の左手に右手を重ねた。


ふたりでいると、あっという間に病院のある駅についた。

二人で受付に行くと、診察室に案内され、主治医となる先生と対面した。紹介状を先生は読み、いくつか私や岡田くんに質問したり、逆に岡田くんが質問したりした。


「ゆっくり治しましょう」主治医はそう言って、看護師に私をあずけた。岡田くんとお別れし、私は5階にある病棟へ看護師さんに連れられて行った。

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