第2話・笑い声

 あれは今から3年前。秋も終わりに差し掛かった11月初旬頃の話である――。






 その日、仕事が休みだった私は昼過ぎまで寝ていた。昼食を食べ終える時分には、夕空に濃紺と橙の階調が描かれていた。

残りの貴重な休日をどう過ごすか思案していると、ふと思いついた。


――そうだ、あそこへ行こう


まるで、これから京都にでも行くようだが、そうじゃない。


"あそこ"とは、兼ねてより興味のあった"A神社"のことだった。


そこは人形供養で有名な神社で、境内の宝物殿の地下には数多くのいわくつき人形が保管されていることから心霊スポットとしても知られている。

当然、宝物殿の地下は一般公開されていない。

その手のテレビ番組でも何度か取り上げられ、怪異好きなら一度は行ってみたい寺社の一つである。


 人形とは、その名の通り人の形を模して作られたものである。

現在は一言に人形といっても様々なものがあるが、その本来の目的は悪霊を防ぐためだとも、死者の魂をとどめるためだともいわれている。

また、呪術に用いるために作られるものも世界中で存在する。日本で呪術用の人形として真っ先に思いつくのは、丑の刻参りで用いられる藁人形だろう。

そんな人形にある日、突然魂が宿ったとしても何ら不思議ではない。




 私の自宅からA神社までは車で片道4時間弱かかる。まさに、小旅行だ。

だが、その目的といえば旅行とは到底いえないほど不純なものだった。


簡単に準備を済ませると、蜂が花の蜜に誘われるように、A神社まで愛車を走らせる。

時間が経つにつれ、夜の色が徐々に濃くなっていった――。




 A神社へ着く頃には疾うに夜の帳は下り、空は夜暗に染まって地上に暗闇を落としていた。そのなかで街の灯りが点々と灯っている。

A神社の脇にある参拝者用の駐車場に前から突っ込む形で適当に車を停めた。私の車の他には、ただの一台も停まっていない。

目と鼻の先にある温泉宿から暖かな光が漏れ、それが安心感を与えてくれる。港町ということもあり、釣具店や海鮮料理を提供する店が目立つ。冷たい風が潮の香りを運び、ふっと香る。波の音は波止場の方から聞こえる祭囃子でことごとく掻き消された。近々祭りでもあるのか、どうやらその練習を行っているようだ。僅かに灯りも漏れている。それらのおかげで、神社の周りはやけに明るく感じる。A神社だけが異様な雰囲気を醸し出していた。


 大きな口を開けた朱色の鳥居の前まで進むと、私はスマートフォンで動画撮影の準備をした。だが、不思議なことにライトがどうやっても点く気配がない。念のため、出発前にも点検したが、その時には問題なく点いたのだ。


――こんな急に壊れるもんかな……


怪訝に思いながらもスマートフォンを片手に、そのまま境内へと向かった。時折、左手に持ったスマートフォンの画面に目を落とし、その太い人差し指で忙しなく操作する。やはり、どうやってもライトは点かない。

参道の近くには土産物店が数軒建ち並んでいる。昼間だと観光地らしい賑わいもあるのだろうが、帳も下りきった今となってはシャッターも下りて閑散としている。侵入者を阻むように深い暗闇が境内に立ち込めている。そこに灯りは一切ない。


 境内に一歩踏み込んだ瞬間、単なる肌寒さとはまた違った、冷気ともいうべき冷たいものが全身を駆け巡り、ぞわっと鳥肌が立った。思わずその場で立ち止まって辺りを見渡す。しかし、誰もいない。陽気な祭囃子だけが絶えず聞こえている。

さらに歩を進め、社務所の前あたりまで来た時だった。




さっきまで点かなかったライトが突然、何の前触れもなく点いたのだ。




驚きつつも、これ幸いと動画撮影を開始した。石畳の参道が本殿まで続いており、階段を上りきった先で人の形をしたものが暗闇のなかから姿をのぞかせた。一瞬ぎょっとしたが、それは着物姿の顔出しパネルだった。自分の醜態を思い出し、可笑しくて吹き出しそうになるが、ぐっと堪える。


 本殿の前まで来ると、私はその異様な雰囲気に息を呑んだ。




数百、数千の人形たちが朱色の本殿を取り囲み、無数の視線をこちらに向けていたのだ。




噂には聞いていたが、想像以上だった。まさに、足の踏み場もない、といった具合に隙間なく、ありとあらゆる人形が置かれている。本殿は人形によって完全に占拠されていた。夜暗がその不気味さをより一段と際立たせている。

その種類は日本人形に陶器人形、と様々だ。それらが暗闇のなかで静かに佇んでいる。どうやら日本人形は日本人形、陶器人形は陶器人形で分けて置かれているようだ。なかでも気になったのが市松人形だった。

乱れた髪の間から小さな目をのぞかせ、その吸い込まれそうな黒い目でじっとこちらを見つめている。一様に表情はない。暗闇で白い顔が浮かんでいるように見え、おどろおどろしい。その小さな口で今にも語りかけてきそうだ。他の人形同様、その数は数えきれない。


 スマートフォンを録画状態のまま一旦、朱色の柱にもたれさせるように地面に置くと、本殿の賽銭箱に革財布から取り出した小銭を一枚入れ、目を瞑って拝んだ。拝んでいる間も人形からの視線が気になって仕方がない。とても願い事などできる雰囲気ではない。「良縁に恵まれますように」という三十代独身男の切実な願いを別の言葉で上書きする。


――お邪魔しております。写真と動画を撮らせていただきます。夜分遅くにお騒がせして申し訳ございません


自分でも誰に対して言っているのか分からなかった。ただ、なんとなく言っておいた方がいい気がしただけだった。「単なる自己満足だ」と言われれば、それまでのことだ。




 その見えない誰かの返事を待たずに、私は動画撮影を再開した。


 一通り動画を録り終えると、今度は同じような場所を写真として収めていく。今のところ人形たちに変化はなく、周囲からも人の気配は感じられない。




――もし、振り向いた先に人形がいたら


――もし、暗闇のなかから声が聞こえたら


――もし、今背後から見えない誰かに肩を叩かれたら




そんなホラー映画のワンシーンのような映像が頭のなかで再生される。よりにもよってこんな時にである。その度に手に変な汗が滲み、背筋に冷たいものが走った。

暗闇のなかに佇む人形、というジャパニーズホラーでは定番ともいうべきシチュエーションが恐怖感を煽り、想像力をかきたてる。この時ばかりは自分の怪異好きを呪った。

祭囃子が微かに聞こえるなか、「カシャ」というカメラのシャッター音が深い暗闇に包まれた境内で数回やけに大きく鳴った。




 写真も撮り終えると、ちょうど拝観時間の終わりが迫っていた。本殿に背を向け、暗闇から光へ向かって歩き出す。背中にまとわりつくような無数の視線を感じたが、なんとなく振り返ってはいけない気がして、そのまま境内を後にした。

鳥居をくぐり抜けると立ち止まり、境内の方へ向かって一礼した。それから、改めて駐車場へと向かい、停めてあった愛車に乗り込んでエンジンをかけると帰路に就いた。

 途中、いかにも焼き鳥が美味しそうなネーミングの居酒屋で夕食を済ませ、家に着く頃には午前1時を大きく回って日付が変わっていた。

帰り道も特に事故もなく、後部座席にいるはずのない何者かがバックミラーに映った、などという、怪談ではありがちな怪異も幸か不幸かなかった。




ただ夜中に神社へ行って参拝しただけで終わる――はずだった。




 それは、A神社へ行った日の深夜から始まっていた――。


その日は長時間の運転で疲れていたこともあり、ベッドで横になるとすぐに眠ることができた。

 ふと目が覚めた私はゆっくりと瞼を開けた。ぼやけた視界が明瞭になるまで時間はかからなかった。


そして、私の目は"それ"をはっきりと捉えた。




お腹の上あたりから跨るような形で、見覚えのない女が仰向けで寝ている私の上に乗っていたのである。




青白いその顔に生気は一切感じられない。だらりと垂れ下がったぼさぼさの黒髪が頬を掠める。女はぽっかりと穴が開いているような黒い目で私の顔を見下ろしていた。視線は交わったその時から瞬間凍結したかのように固まっている。不思議と身体も一切動かすことができず、声も出せない。常夜灯の点った部屋で掛け時計の秒針が規則正しく動く音だけが響く。


 一瞬、その黒い目が僅かに弧を描き、女がにたりと笑ったように見えた。

次の刹那、女は両手で私の首を掴むと、そのか細い腕からは想像もできないほどの強い力で絞めてきた。黒い目で私の苦しむ顔を見ながら、狂ったようにけたけたと笑っている。

どうすることもできず、私の意識はそのまま深い眠りにつくように遠ざかっていった――。




 けたたましい音に叩き起こされ、飛び起きた。慌てて音の発生源を特定すると、素早くそれを消した。それは、寝る前にセットしていたスマートフォンのアラームだった。

濃紺色のカーテンから朝日が漏れ、その向こうからは小鳥たちの爽やかな話し声が聞こえてくる。

ベッドの上には誰もいない。また、いた形跡も見当たらない。首に手形がついている、ということもなかった。

いつもと何ら変わらない朝がそこには在った。


――なんだ、ただの夢か


そう思った途端、また自分の醜態を思い出し、吹き出しそうになった。

私は安堵していた。それは、先程の女も悪い夢の登場人物の一人に過ぎず、結局はただの幻覚。私がA神社で感じた恐怖と不安が夢という形になって現れただけ。もうあの女が出てくることもないだろう、と確信していたからだ。


だが、それは大きな間違いであったことを、後日思い知らされることになる。




 A神社へ行った夜から数日が経った、ある日の深夜――。


当時、私は週に1回、動画投稿サイト用にラジオ収録を行っていた。それは私と相方であるS氏の二人で約30分間フリートークをするだけの番組だった。実際は番組という程、立派なものではない。

その名の通り、フリートークなので台本も用意していなければ、打ち合わせなどという仰々しいものも一切ない。リハーサルなしの一発本番である。収録方法は毎回パソコンの無料通話アプリを使用していた。

S氏は俗にいう"イケメンボイス"というやつで、その声質と毒舌が売りだ。いわば、私は食玩の、おまけのような存在である。


その日の収録終わりのこと。滞りなく終わったかに思えた。

「お疲れ」

「お疲れ様でした」

「あのさ、赤鈴さん。ちょっと訊いていい?」

「はい、なんですか?」






「今、近くに妹さんか、彼女さんか、誰か……女の人、おる?」






それは、妙な質問だった。だが、純粋に疑問を尋ねているように聞こえた。

「いませんよ。第一、私に彼女がいないことは、Sさんも御存じでしょう」

笑いを含みながらそう言うと、S氏は真剣な声音でこう答えた。






「じゃあさ、さっきから聞こえてる、この女の人の笑い声って、なに?」






その言葉を聞いた瞬間、全身からさーっと血の気が引くのを確かに感じた。


S氏は"感じやすい人"というやつで、そういうのを聞いたり、感じたりすることができる人だった。心霊スポットへ行くと気分が悪くなることも度々ある、という。

霊感などまったくない、鈍感な私にはそのような声は一切聞こえなかった。後で収録したものを確認してみたが、私たちの声以外は何も聞こえなかった。現に、この時収録されたラジオは今も一般公開されているが、視聴者から『女性の変な笑い声が聞こえる』などといった報告も現在に至るまでない。


だが、「かなり大きい声で、はっきりと聞こえる。ちょっとうるさいくらい」と、S氏は語る。

最初は『私の妹か彼女が近くで笑っている声だろう』と思っていたが、途中から妙に感じた為、収録が終わったら訊いてみようと思ったのだ、という。


「いつから聞こえてました?」

と、私が尋ねると、S氏はこう即答した。




「いや、最初からずっとだよ。今も聞こえてる」




私の使用しているマイクは"ヘッドセット"という、ヘッドフォンに小型のマイクが付いたタイプのもので、近くでそんな大声で笑っている者がいれば、いくら鈍感な私でも気づくというものだ。故に、"笑い声がした"というのは、あり得ないのだ。

確かめるように何度S氏に尋ねても「間違いない」という。


実はこの時、S氏にA神社へ行ったことはまだ言っていなかったのだ。


私はS氏にA神社へ行ったことをこの時、初めて話した。

「憑いてきたんじゃない」

今度は冗談っぽく、S氏は言った。だが、その時の私には冗談には聞こえなかった。

霊がいることを証明できないが、同時にそれは"いない"ことも証明できない。

その後、S氏から「嘘だよ。びっくりした?笑い声なんて聞こえるわけないじゃん」と、悪戯っぽく笑いながら言われることを期待していたが、結局そういったドッキリ大成功!的なネタばらしもないまま数時間ほど通話した後、恐怖と不安を抱えた状態でその日は床についた。




 またあの女に首を絞められることもないまま、何事もなく次の朝を迎えた。しかし、S氏が聞いた、という女の笑い声が気になってしまい、熟睡することはできなかった。

一階へ下り、リビングに入ると妹が朝食を食べていた。私はお世辞にも上手いとはいえない語りで、昨夜の出来事を話して聞かせた。


すると、妹から意外な言葉が返ってきた。




「あぁ、それなら私も聞いたよ」




それはまるで、犬猫の鳴き声でも聞いたかのような、軽い言い方だった。眠気は一気に吹き飛び、私は思わず「えっ!?」という驚きの声を上げた。

妹の部屋と私の部屋の間には階段があり、それを挟むような形で両側に壁がある。つまり、妹の部屋は私の部屋のちょうど隣に位置しており、夜中に通話していれば声が聞こえるほど、その距離は近い。ましてや、大声で笑おうものなら丸聞こえである。


妹が言うには、その声の印象は若い感じではなく、中年のおばさんのような声だった、という。

後日、S氏にもそのことを伝えると「あぁ……たしかに、言われてみればそんな感じだったかも」という確認が取れた。


証言者である妹はというと、私の怪談話を聞いても顔色一つ変えなかった。

というのも、妹はS氏同様にそういったものを感じやすい体質らしい。実際にそれらしき姿を見たこともある、という。だが、それはまた別の話だ。


だからといって、女の子らしく怖がることはしない。それどころか、話のネタがひとつできた、ぐらいに思っている。

私とは正反対なその性格は、一言でいうと豪放磊落。

女にしておくにはもったいないくらいの男勝りで、幽霊にも動じないほど気が強い。見た目も兄妹とは思われない程、私と妹は似てない。だが、意外にも喧嘩は一度もしたことがない。


 S氏が女の笑い声を聞いた、その同時刻――。


妹も金縛りに遭っていた、という。


しかし、次の日、朝早くから仕事だった妹は金縛りに遭った恐怖より、貴重な睡眠を邪魔された怒りに満ち満ちていた。

その怒りの力は凄まじく、力づくで金縛りを解き、そのまま何事もなかったかのように寝た、という。

それをまるで面白いことでもあったかのように、私に話して聞かせてくれたのだ。




妹にかかれば幽霊も形無しである。




 幽霊が妹に恐れをなしたのか、はたまた単なる気のせいだったのか。

その後、笑い声が聞こえることも、夢にあの女が現れることもなかった。


だが、見えないだけで、あの女はまだすぐ近くにいるかもしれない。

今も私の隣で大きな口を開けて狂ったようにけたけたと笑い、今夜にでもまた首を絞めにくるかもしれない。


その可能性は絶対にないと、私は言い切ることができないのだ。






そもそも、あれは本当に夢だったのか。それとも――。






真相は今だ分かっていない。




今でもA神社には全国各地から様々な人形たちが集まっている、という。

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実話怪談 赤鈴 @akasuzu777

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