実話怪談

赤鈴

第1話・鳴いた猫

 Kさんは運動不足解消のため、最近スポーツバイクを購入した。休みの日の夕方から夜にかけて、往復で20Kmから25Kmほどの距離を2時間弱かけて走る。

橙色に焼けた夕空を背景に、風を切って走るのは実に気持ちの良いものだった。帰る頃にはいつも夜の帳が下りている。






 宝石のように散りばめられた星々が小さく輝き、下弦の月が煌々と輝く晩のこと――。


その日も帰路に就く頃にはすでに日は落ち、空は夜暗に染まっていた。赤いフレームのスポーツバイクが大通りを颯爽と駆け抜ける。寒風が容赦なく吹き付け、Kさんを真冬の洗礼が襲う。首元の黒のネックウォーマーのおかげで幾分か寒さは抑えられているが、それでもまだ寒い。ハンドル部分に取り付けられたライトが心許ない光で路側帯の少し先を照らし、後ろから来た車が何台も追い越していく。

 ゆるい坂道が続く。走り通しだったこともあって疲労の色が濃い。Kさんは休憩場所を探していた。

ふと、ある場所のことが脳裏に浮かぶ。それは、S山のことだった。


――そういえば、ここから近かったな


そこは山のなかに墓地や寺社がいくつも点在し、教会に納骨堂、麓には火葬場まである山のことだった。亡くなったペットの供養も行っている。その広さは訪れた者を迷わせる。

場所が場所ということもあって怪異な噂も絶えず、地元の者の間では有名な心霊スポットの一つとなっている。地元の人間であれば余程のことがない限り、夜にそこへ近づく者はいない。


時折、肝だめしに訪れる物好きな者たちを除いては――。


 Kさんもその一人になろうとしていた。

Kさんは子供の時分から怪談奇談といったその手の話が好きで、それは、真夜中の街灯もない暗い夜道で一人歩きながら、流行りの音楽の変わりに怪談を聞くほどであった。

心霊スポットへ行くのも今回が初めてではなく、以前にも二度ほど行ったことがあった、という。要するに、根っからの怪異好きなのだ。

だからといって、霊の姿が見えるだとか、目に見えない何者かの声が聞こえるだとか、いわゆる"霊感"と呼ばれるようなものは微塵もない、はずだった。


怪異なことが起こることを心のどこかで期待し、その一端に触れようと手を伸ばす。

それは"興味本位"といってしまえば、それまでのことだった。彼らにとってそれは"肝だめし"という名目で行う、遊びの延長のようなものであり、遊園地のアトラクションのような感覚なのだ。

それが危険な行為であり、ましてや生命に関わるという認識はこの時、彼のなかにもまだなかった。




 数m先にある曲がり角を左に曲がればS山の入り口が見えてくる。黒いグローブをした手でハンドルを強く握り締めた。心臓がどくんどくん、と警報音のように胸のなかで響く。


――行かないほうがいい


本能が囁く。しかし、その警告を無視し、Kさんはペダルを漕ぎ続けた。好奇心の赴くままに。


 曲がり角を曲がると、坂道の先で深い闇が口を大きく開けて待ち構えていた。そのまま止まることなく、坂道を上っていく。進めば進むほど、ペダルを漕げば漕ぐほどに街の加護は薄れ、闇が濃くなっていくのを感じる。その暗さに目が慣れるのに、そんなに時間はかからなかった。




 ある地点を境に、Kさんは空気が明らかに変わったのを自身の肌で感じた、という。その刹那、冷気を感じ、思わずぞわっと鳥肌が立った。それは、冬のそれとはどこか違う冷たさのように感じた。

この感覚は初めてではなかった。以前に、別の心霊スポットへ行った時にも同じような感覚に襲われていた。まるで、そこから先に見えない別の世界が広がっていて、自分がそこへ今まさに足を踏み入れてしまったような、そんな例えようのない感覚。

そして、侵入者というものは得てして歓迎されないものである。


 坂道を上り切ると狭い駐車場があり、心許ない外灯がぽおっと一つ灯って場内を微かに照らしていた。そのさらに奥には火葬場へと続く道が見える。唯一、光に照らされたそこは聖域のような安心感を感じる。

車は当然のように一台も停まってなく、周囲からは人の気配も感じられない。Kさんはそこにスポーツバイクを停め、黒い丈夫そうなU字ロックで後輪とフレームを繋ぐようにして鍵をかける。口から吐き出される息が白煙となって、銀縁眼鏡のプラスチックレンズを一瞬くもらせた。

鍵をかけ終えると赤と白のストライプのヘルメットを脱ぎ、それをハンドル部分に適当に留めた。その後でボトルゲージに挿した赤いドリンクボトルを左手で取り出し、乾きかけた喉を潤す。


 ドリンクボトルをボトルゲージに戻して、Kさんは冷静に辺りを見渡した。やはり、誰もいない。駐車場の外灯以外に灯りも確認できない。

夜暗に支配された山は静寂に包まれ、不気味な雰囲気を醸し出していた。時折、常緑樹の青々と茂った葉の葉擦れの音がやけに大きく聞こえ、街路から微かに聞こえる車の走行音をかき消す。

「さてと、どうすっかなぁ~」

Kさんは駐車場を離れ、山の上へと続く急な坂道の前まで歩みを進める。

そこには、深海のように深い闇が静かに、妖しく広がっていた。月の煌々とした光も一切届かない。見る者全てに不安と恐怖を与える、本当の闇が目の前に在る。その向こうに何者かが潜んでいて、今にも足音が聞こえてきそうな、そんな気さえする。


 今から山に登るのは、それこそ自殺行為だった。霊とは別の、もっと現実的な危険が夜の山にはある。猪と遭遇しようものなら、それこそ無事では済まない可能性が高い。猪に襲われて重傷を負った事例や、死亡した事例も現実としてある。そして、猪は夜になると活発になるのだ。無論、危険はそれだけではない。いるかどうかも分からない不確かな霊という存在よりも、Kさんはどちらかといえば現実として確実に在る危険の方を危惧していた。

「ライトとスマホのバッテリーがほとんど残ってない。家までまだ距離あるし、あまり上には登らない方がいいな。戻れなくなったらヤバいし、そんなに時間もないしな。どっかその辺で雰囲気のあるとこがあれば……」

見落としのないよう、再度慎重に辺りを見渡す。




「にゃあ~」




 静寂を切り裂くその鳴き声はKさんのすぐ後ろから聞こえた。突然の鳴き声に驚き、肩を一瞬ビクッとさせてから慌てて振り返った。

やはり人影はなく、代わりに、少しぽっちゃりとした、一匹の可愛らしい茶白猫が目の前にちょこんと坐っていた。赤い首輪をしている。どうやら飼い猫のようだ。榛色の目で何かを訴えかけるかのように、じっと見ている。


「なんだ、猫か。首輪してるな。ってことは、近所の飼い猫か。こんな可愛い子にビビってるようじゃ、俺もまだまだだな。早く帰らないと飼い主さんが心配しちゃうぞ~」


撫でようとその場で屈むと、猫はくるりと背を向け、ゆっくりと歩を進めた。数歩ほど歩くと立ち止まって振り向く。Kさんの方を一瞥して「にゃあ~」と、また大きな声で鳴くと、駐車場の向かい側にある墓地に向かって歩き出した。それは「ついてこい」と言っているように、Kさんには聞こえた、という。

Kさんは、猫のその誘いに乗ることにした。それは単純に面白そうだったから、というのもあるが、Kさんは大の犬猫好きだった。先程、撫で損ねたことが心残りで、隙あらば撫でてやろう、と画策していたのだ。多少引っかかれたり、噛まれたりするのは覚悟の上。それで傷を負っても、彼にとってそれは名誉の負傷である。


 時折、猫は立ち止まって、Kさんがついてきているか確認でもしているかのように振り向いた。そして、その姿を一瞥すると、また歩き出すのだ。Kさんは1mほど離れた後ろから、猫の小さくて愛らしい背中を追っていた。ストーカーのような熱視線を送り続ける。相手が人間だったらと思うと、違った意味で背筋が凍る話である。




 墓地に入ると、大人二人が横に並んで歩ける程の道が闇のなかまで続いていた。その先では道がいくつも分かれている。目の前の道を挟むような形で無数の黒と白の墓石が暗闇のなかで整然と立ち並んでいるのが薄ぼんやりと見える。一瞬、それが人影のように見えて、Kさんはぎょっとした。彼を嗤うように、山の樹木が葉擦れの音を鳴らす。

彼の想像の世界だけにその姿を現す存在が、いつも以上に神経を過敏にさせていた。どこかで聞いた怪談や怪異な噂を思い出し、それらがまた恐怖感を煽った。


奥に行けば行くほど闇は濃くなり、油断すれば前を歩く猫も闇に呑まれ、その姿を見失いかねない。当の猫は変わらず、Kさんの方を気にしながらも歩き続けている。冷たい空気が漂う夜暗のなかでその目が緑色の妖しい光を放つ。




 中程を過ぎた時だった。突然、Kさんは立ち止まると何かにひどく驚いた様子で、慌てて右の方を見た。そこには暗闇のなかに墓石があるだけで他には何もない。それを確認すると、Kさんはほっと胸を撫で下ろした。


この時のことを「なんか線香臭いなって思ったら視界の右端に誰か、人が立っているように見えたんです。まぁ、すぐに気のせいだと分かったんですが」と、Kさんはいう。


 視線を戻すと、さっきまで前を歩いていたはずの猫の姿がどこにもない。耳を澄ましてみても、鳴き声ひとつ聞こえない。

まだそんなに遠くには行ってない確信はあった。Kさんは真っ直ぐ、道なりに進んでみることにした。万が一にも驚かせて、また見失うようなことのないよう周囲に気を配りながら慎重に、ゆっくりと歩を進める。




 しばらく歩いていると、道がT字路のように分かれているのが見えた。道自体は先程までのそれより少しだけ広く、その向こうでは樹木が不気味なほど静かに佇んでいる。その手前まで行くと立ち止まり、左右を確認した。しかし、立ち込める暗闇がそれを阻んで道の先がよく見えない。

どっちに行こうか迷っていると、左の方から「にゃあ~」という大きな鳴き声が聞こえた。あの猫の鳴き声だった。その声を頼りに、Kさんはまた歩き出した。




 二、三分ほど歩くと、一際大きな墓石のようなものが深い暗闇のなかからその姿を現した。それは他の墓石とは明らかに様子が違っていた。道は真っ直ぐ、そこへと続いている。


 大きな墓石の前にも、猫の姿はなかった。墓石の両脇には何本もの卒塔婆が立てかけられ、その前には真新しいお花も供えられている。

暗くて読みにくいが、墓石には何やら文字が刻まれている。さらに近づいて目を凝らし、その文字を読み取った。




そこには"昇魂之碑"と、深く刻まれていた。

その大きな墓石は、合同慰霊碑だった。




それを見た刹那、Kさんのなかを嫌な予感が電撃のように駆け巡った。


――逃げろ、今すぐここから逃げろ!


もう一人の自分が叫んだ。しかし、慰霊碑から視線を外すことができない。


――もし、今振り返って誰かいたら


そう考えると、怖くてすぐに振り返ることなどできなかった。手に汗が滲み、息が白煙となって夜暗に溶ける。永遠のように長い時間だけがゆっくりと過ぎていった――。




 どれくらいの時間が経っただろう。実際には5分ほどだったかもしれないが、Kさんにはそれが30分にも、1時間にも感じられた。


意を決し、一歩、後ずさると、勢いよく振り向いた。そこには誰の姿もなく、ただ深い暗闇があるだけだった。


 その時、また近くで線香の匂いがした。それも、最初感じた時よりも匂いが強い。Kさんはその場で動けなくなり、声も出せなくなった。それは、俗にいう"金縛り"というやつだった。


 すると、不意に何者かの気配を感じた。それも一人、二人ではなく、大勢の気配。それらに暗闇の向こうからじっと見られているような、そんな視線を感じる。その気配はKさんに向かって少しずつ、しかし確実に、真っ直ぐ近づいてくる。人の呻き声や、様々な動物の鳴き声のようなものも微かに聞こえた、という。気配が近づくにつれ、その声も徐々に大きくなっていく。


この時、Kさんは生命の危機を感じていた。目に見えない何者かに殺される、そんな恐怖を現実のものとして感じた、と後に、Kさんは語った。


――もうだめだ……。やられる!


 半ば諦めかけた時、後ろにある慰霊碑の方から「にゃあ~」という猫の鳴き声が聞こえた。それは、聞き覚えのある声だった。


途端に金縛りは解け、Kさんは一度も振り返ることなく、その場から逃げるように走り去った。背後から追ってくる無数の足音は墓地を抜けるまで途絶えることはなかった、という。






「まぁそれだけの話なんですけどね。あんまり怖くなくて、すみません」

そう申し訳なさそうに言ってから、Kさんは怪訝そうな表情を浮かべた。


「そういえば、一つだけ気になることがあるんです。うちで犬を一匹飼ってるんですけど、そいつが最近おかしいんですよ。たまに、何もないところに向かって吼えることがあるんです。それがまるで、何かに怯えているようで。それが気になるんですよね」


と、Kさんはいう。

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