第6話 おばちゃんと洋平

【弁当屋「寿」のおばちゃん】


人生の岐路…

学生、社会人、転勤、結婚など幾度と生活環境が変わることも必然の出来事だろう。その土地に移り住み、習慣や文化を知りネイティブな人々と共生すること、郷に入ればなんとやら、出会う人たちからいただける愛情に感謝しながら返すことの喜びは教えからではなく人の本能のようなもの。


栄一にとって、行く先々で出会う「母」のような存在はこの上なく有難いこと。ここ武蔵野テニスクラブ就任でも「優しき母」は栄一の胃と心を満たしてくれていた。


8月に入り、まるで空から熱射の攻撃を受けているかのように太陽が熱波を浴びせるこの頃、草いきれに風薫る、涼風がしばし体と心に休息を与えてくれることに感謝し、蝉時雨もまた生きとし生けるものが壇上に立ち、精一杯主張を論じていると思えば煩いなどと思えなくなり、これもまた人生らしくていいものだ。うたたかであるが故、力強くあってほしいとさえ思う今日この頃。


テニスクラブのすぐ側に隣接する団地の中にひっそりこじんまりとした惣菜屋さんがある。

煮物や揚げ物をはじめ、汁物、サラダ、炊き立ての白飯や具沢山の炊き込みご飯、和洋折衷、種類も豊富に惣菜を創作販売している「寿」。武蔵野テニスクラブのスタッフはもとより、会員やスクール生、地元住人にも人気があって昼夜客足が絶えない。

主人の女将(おばちゃん)が料理好きで料理上手が季節物やオリジナルのアレンジもあって美味いオカズを作る一番の理由、隠し味は月並みだが「愛情」、されど人生という長い坂道を登ってきたおばちゃんの愛情は濃くて奥深いもの、それが食材に染み込んだ料理が上手くないわけがない。


その日、栄一は秋元に連れられ就任3日目にしてここ「寿」にはじめて足を運んだ。


「プロ、ここは絶対気に入りますから。美味いもんだらけなんです。」

「秋さん、プロはやめましょう。コーチがいいです。」

「すみません、市川コーチ。」

「謝ることはないですって。それより腹減り過ぎて倒れそう。」

栄一も秋元が嬉しそうに話す姿を見て彼の相当の自信を感じ、同時にその食の魅力を勝手に想像していた。


「おばちゃん、こんにちは。今日は新人…、新しく入ったコーチを連れて来た。」

秋元が、店の奥で背を向けて鍋の様子を見ている少し背の丸まりはじめた女性に声をかける。通称おばちゃんが振り向きニッコリ笑う。そして…

(おや、この子は…)


「あら、いらっしゃい。いい男連れて来たね。」

「おばちゃん、いいのは顔だけじゃなくてテニスもだからね。」

秋元が軽い口調でおばちゃんと会話する。

「こんにちは。市川と申します…、いや〜それにしてもこのご馳走はヤバいっすね!ヨダレが出てきそう。」

栄一は右から左から目を留めることがなかなか出来ないほどの種類と量の惣菜に少々興奮していた。

「切り干し大根、高野豆腐、鯖の味噌煮…、それとこれは何のフライ?」

「それはチキンカツだよ。でっかいだろ。たくさんお食べ。」

おばちゃんはニコニコした笑顔で楽しそうに話す。

「市川コーチ、言った通りでしょう!食べたいのを言えば何でも入れてお弁当を作ってくれますよ。」

「これ、食べたいの全部言ったら凄い量になっちゃいそう。どうしよう。。」

栄一の興奮が止まらない。

「メインを決めてごらん。チキンカツがいい?天ぷらも美味しいよ。焼肉なんかほっぺが落ちるくらいだから気をつけないとね〜。」

おばちゃんの言葉がさらに栄一の食欲を煽っている。

「じゃあ今日はチキンカツでお願いします。それと切り干し大根は絶対入れて。」

「おばちゃん、僕はすき焼きで。」

秋元が続いた。

「はいはい。おばちゃんに任せときな。大盛りだね。」

おばちゃんは楽しそうに惣菜を皿に盛り始めた。

出来上がったオカズの容器にはメインのチキンカツがキャベツの千切りに鎮座してはみ出し栄一の希望通りに副菜の切り干し大根を始め、高野豆腐、きんぴら、玉子焼!ポテトサラダ、漬物、別の容器にはこれまた1合はあろうかと山盛りの白飯が蓋が閉まらないほど盛られ、これに味噌汁が付いて…


「市川コーチ、これで値段はいくらだと?」

そういうくらいなのできっと安いのだろうと安易に予想は出来るものの、

「¥1,000出しても文句ないですけどね。」

栄一も思うところ素直な解釈をしてみた。

「はははっ。そんな高かったら団地の皆んなが二度と来なくなっちゃうよ。お兄さんいい男だから¥600だよ。」

相変わらずニコニコした顔がなんとも癒される。

「えっ、ホントに!?安過ぎでしょ!」

隣で秋元がニヤニヤ頷いている。

「市川…さん?」

おばちゃんが確認するような声で栄一を見る。

「はい。」

「じゃあ、いっちゃんだね!いっちゃん、食べてみて美味しかったらまたきておくれ。」

「はい。絶対来ますから。」

店を出る秋元と栄一の背中を眺めながら…

(何事もなければいいんだけど。。)


栄一は何よりも早くこの弁当が食べたくて仕方なかった。秋元と共に支払いを済ませると少し早歩きになってテニスクラブに戻る2人がいた。コーチ室に入りすかさず弁当を広げて食べ始めると、口にする全てが美味しかった。口に運ぶ全てが優しく母の味のように思えた。

「嘘ではなかったでしょ。」

秋元の言葉を聞きながら、テニスクラブに来ることの楽しみが一つ増えたと感じる栄一だった。


その後もテニスクラブでの仕事のほとんどの食事は「寿」の安価で贅沢なお弁当とおばちゃんの笑顔になり、週末はジュニアたちと共に寿に足を運ぶこともよくあった。週に3〜4日はおばちゃんとのコミュニケーション、それは栄一にとって心安らぐ栄養剤にもなった。惣菜も定番のオカズ以外週ごとにアレンジされ、いつ行っても飽きることのない、まるで家庭で母親が作る食事を堪能しているかのように。独身で単身一人暮らしの栄一にはこの上なく有難い環境である。


そんな寿のおばちゃんとのエピソードを話そう…

【洋平】

ある日の昼食時、いつものようにおばちゃんのお弁当目当てに寿に向かう栄一、普段は誰かコーチと一緒なのだがこの日は栄一一人…

「こんちわっす。」

「いらっしゃい。今日はいい天気だね。一人かい?」

「はい。あっ、これお土産。よかったら食べて。」

栄一は先日試合で訪れた神奈川県大磯で蒲鉾をおばちゃんに買ってきていた。

「おや、なんだい、そんなことしなくていいんだよ。」

とても申し訳なさそうな顔と、手振り身振りがいつものおばちゃんにはないリアクションだった。

「いつも美味しいご飯作ってくれるからこのくらいしてもいいんじゃん。」

実は栄一も少し照れくさかった。

「当たり前じゃないか、それがおばちゃんの仕事なんだから。気もお金も使わなくていいんだよ。」

怒っているようで喜んでいる表情がはっきり見えているのが可愛い。

「ありがとね。今晩いただくよ。」

おばちゃんは大事そうに持った蒲鉾の袋を奥の大きな冷蔵庫に閉まった。栄一は頷きながら今日の主菜を決めようと大皿に乗った惣菜を見回していると…

「いっちゃんさ〜、いっちゃんとこの子供で洋平…、立花洋平って子いるだろ。」

子供たちも週末や学校が休みの日のレッスンでは寿を利用することも多い。何よりも安くて美味い、それに大盛りが魅力的であることが間違いない。

「えっ、なんか悪さでもした?」

「いやいやそんなことじゃないんだよ。ただ少し気になる子がいてね…」

少し目線を下げたおばちゃんの面持ちが意味深に思えたので、少し覗き込むようにあらためて眼差しをおばちゃんに向ける…

「その子がここに来るのはいつも日曜日のお昼なんだけど、決まって皆んなとは少し時間を空けて後から一人で来るんだけどね…」

栄一の頭の中に日曜日のジュニアたちの顔が次から次へとパラパラ漫画のように浮かんでくる。おばちゃんは刻んでいたキャベツをザルにあけると水道で軽く手を洗いタオルで手を拭きながら栄一に歩み寄り、その男の子との出会いから話し始めた…


(とある日曜日の昼食時にまとまって6〜7人で弁当を買いに来た子供たち、その人数が一気に来ると騒がしいのなんのって。それで一波過ぎて15分くらいしたらその子が来てお弁当を頼んだんだけどね、初めて見る顔だったから…)

おばちゃんの話し方から自然と厳かな雰囲気の中、栄一の表情も少しシリアスさを増していた。


「いらっしゃい、何が食べたいか選んでね。」

少年はしばらく惣菜を見回しながら迷っていた。

「好きなオカズを選べばちゃんとバランスよくお弁当作ってあげるから。」

すると、

「じゃあこれとこれがいいです。でも…」

少年は肉団子と卵焼きを指差し、ポケットの中に手を入れた。

「おばちゃんの肉団子は美味いんだぞ!でっかくて栄養満点!卵焼きは甘いけど大丈夫?でも…、なんだい?」

少年はうつむき加減で手に握りしめた¥100玉をおばちゃんに差し出し、

「¥300分だけください。」

おばちゃんのお弁当はジュニア割引も配慮してくれて何を頼んでも、大盛りでも¥500だった。

「おやおや、難しいリクエストだねぇ。じゃ今日は内緒で¥300でいいよ!そのかわり皆んなには言っちゃダメだよ。」

優しいおばちゃんの気遣いで少年はパッと笑顔になり、

「ホントに!?ありがとう。」

「あら、お兄ちゃん、ちゃんとお礼が言えて偉いね〜、ご飯は大盛りにしとくから練習頑張るんだよ!」

「ありがとうございます。」

「おや、今度はもっと丁寧に言えたね、偉いね〜」


その翌週の日曜日にもその少年は寿を訪れた。

先日と同じタイミング、数人のまとまった子供たちがお弁当を買いに来た後、少し間をあけて。

「いらっしゃい。肉団子美味しかった?」

おばちゃんの笑顔は優しい。

「凄く美味しかったです。また食べたくて…」

そうは言うものの、先日同様に曇った顔色からおばちゃんは状況を察し、

「今日も¥300弁当を作ってあげるから心配しなくていいんだよ。」

と、ニコニコ優しく笑って言った。

「そういえば、まだ名前も聞いてなかったね。教えてくれるかい。」

「洋平です。立花洋平です。お母さんは日曜日のお昼ご飯代¥300しかくれなくて、これでお昼食べなさいって。。」

恥ずかしさもあるのだろう、下を向いて顔を赤くして話す洋平が可哀想に思えたおばちゃん、

「そうなんだね。。でもいい名前だよ!テレビに出たら映える名前だよ!」

おばちゃんはカウンターに乗った大皿を一つ取り上げながら洋平の顔を見て少し真面目な顔して話した。

「テレビ?」

全く言葉の意味が分かっていない洋平…

「あれ?洋平は将来、テニスで世界チャンピオンにならないのかい?」

洋平の目が一瞬で大きくまん丸くなった。

「世界チャンピオンって…」

「だって、あそこのテニスクラブにいる子供たちは皆んなプロテニスプレーヤーを目指してるんだろ。だから毎週日曜日まで頑張って練習してるんじゃないのかい?」

笑顔になった洋平ではあるが、苦笑いでもある。

「世界チャンピオンになる前に全国大会出場しないと。全国の前に関東大会だし…」

少しため息混じりの洋平、軒先きの風鈴が涼しく微かな音色を立てる。

「そうなんだね。それで洋平は今どの辺りのレベルなの?」

お弁当のオカズを丁寧に箸で詰めながらおばちゃんは関心事のように聞き入っている。

「僕なんかまだまだレベル低いよ。スクールでもJ2(選手コースの下から2番目)だからさ。」

照れ臭そうに少し肩を落としている。

「洋平はテニスどのくらい強くなりたいんだい?」

鍋の蓋を開け、湯気が立ち上る。オタマでゆっくりかき混ぜ味噌汁をカップに注ぎながら再び目線を洋平に。

「今はとにかくグレード大会で勝ってポイントを稼ぐのと、来年の春の都大会でベスト8に入って関東大会に進出することが目標なんだ。世界チャンピオンを目指すのはそれからかな。」

さきほどまでの洋平よりは少ししっかりした口調で自信さえ感じさせる。いい顔になっている。

「洋平、あんたしっかりしてるね!きっと勝てるよ!きっと関東大会行けるよ!」

出来上がったお弁当と味噌汁の入ったビニール袋を持ってカウンターから出て来たおばちゃんは、

「はい、お弁当。¥300だよ。」

洋平は握りしめていたお金をおばちゃんに渡しながら、

「ありがとうございます。でも…」

またうつむき加減な顔になった洋平に、

「気にすることはないよ。だけど皆んなには絶対に内緒だからね。これは洋平とおばちゃん二人だけの秘密にするんだよ。」

おばちゃんは右手の小指を出し洋平にも促した。

洋平もそれに素直に従い、

「指切りげんまん、洋平が試合に勝って関東大会に行けますよ〜に。でも一生懸命練習しないで嘘ついたら針千本飲〜ます!」

洋平の目が、またまん丸になり、おばちゃんの言葉をただ聞いているだけだったが、頷きながら少し深呼吸をして、

「おばちゃん、僕絶対に関東大会に行くよ!行けるように本気で頑張るよ!」

洋平、今日一番の大きい声だった。

「よしよしそれでよし。おばちゃんはそれまで洋平の応援をするからね。応援って言ってもお弁当をサービスするくらいしか出来ないんだけどね。だからお金のことは気にしないでいいんだよ。」

おばちゃんは優しい。

「ありがとうございます。」

洋平はおでこが膝に着くくらいにお辞儀をして店から出て行った。それから、雨の降らない日曜日にはほぼ毎週のように他のジュニア達同様…、と言ってもタイムラグを作りながら寿に「¥300弁当」を買いに洋平は訪れ、その度に「最近サーブが速くなって来た」、「バックハンドのミスが減ってコーチに褒められた」、「スクール内のランキング戦で勝ち越した」などなどの近況報告をする洋平だった。



「おばちゃん、なんかすいません。うちの子供にそんなことしてもらっちゃって…、でももうそれは悪いんで。。」

栄一は洋平のことを考えながら「感謝と謝罪」の雰囲気で少し体が小さくなってしまっているよう。小柄ながらも他の同学年ジュニアたちよりも駿足なのが印象的、人見知りなのかあまりコミュニケーションを積極的に取るタイプではないけど、栄一が話しかけるとしっかり丁寧な敬語で返してくる。以前に他の子供たちの前で「はい。」と返事が出来ることを褒めた時のことも栄一は憶えていた。また、他のジュニアたちよりも家庭の経済環境が少々厳しそうであることも親の言葉を聞いて感じていた。

「いいんだよ、そんなことは。私は子供たちが元気にここに来てくれることが嬉しいんだから。頼まれた訳じゃないし、好きでやってることなんだから。」

いつものニコニコ顔で話すおばちゃんがここにいる。その優しい笑顔と心意気に頭は上がらないが今後の展開をネガティブに想像してしまう栄一がいる。

「子供たちや、いっちゃんたちがさ『おばちゃんのお弁当美味しい』って言ってくれるだけで元気貰ってるって感じがするんだよね!」

一瞬、瀬戸内寂聴先生に見えた。

「実はさ、話はここまでじゃなくて、ここからなんだよ。」

おばちゃんの優しい表情だった顔が少しだけ曇ったように見える。

「その洋平がさ、ここしばらく来てないんだけど何かあったのか気になっちゃってさ。まあ、お弁当に飽きたんだったらそれでいいんだけどね。」

おばちゃんの話す言葉に「心配と寂しさ」の感情が表れていることを栄一は感じ取っていた。

「それとね、少し前にこんなことがあったんだけど…」

おばちゃんが一歩前に出て栄一の目を見ながら、小声になったことで意味深なのだろうと思った。

日曜日のお昼頃に、いつものように子供たちがわんさか来たんだよね。それぞれが食べたいものを注文して、おばちゃんてんやわんやで厨房を駆け回ってた時にね、お弁当待ってた子供たちの会話がさ聞こえて来てさ。。」


(洋平さ、最近お昼時間に居なくなるよね。)

(あいつ、いつも一人で昼飯食べてる。前はここの弁当食べてたけど、最近はパン屋で買ってるみたい。)

(そうそう、真也が言ってたけど洋平は寿の弁当を¥300で買ってたんだって。¥300分の弁当らしい。だから量が少ないみたいなんだけど、真也が見た時は大盛りだったって。)

(えっ、そんな弁当あるの?俺たちは¥500だよね?)

(真也が「ズルくない?」って言ったら洋平黙ってたって。)


「いっちゃん、これってさ洋平に私がしたことが裏目に出ちゃったってことかな。もしそれで洋平が皆んなから変な目で見られてるんだったら本当に申し訳ないことなんだよ。」

この時、おばちゃんに笑顔はない。

栄一は腕を組み替え小さく幾度か頷きながら、

「分かった。俺が聞いてみる。」

火にかけた鍋から蒸気が吹いていることをおばちゃんに知らせ、

「おばちゃんは何も気にしなくていいからね。おばちゃんがしてくれたことは洋平にとってとてもありがたくて、きっと喜んでたと思う。俺からも感謝しかないから。洋平、奥手で人見知りだからあまり皆んなとは上手く付き合えない子なんだよね。悪い子じゃないんだけど。」

栄一は解決策を考える前に先ずは洋平と会って話を聞いてみようと頭の中でスケジュール表を開いていた。

「洋平に会ったら、またお弁当買いにおいでって伝えておくれよ。おばちゃん待ってるからって。」

栄一は注文した弁当を受け取りながら右手の親指を立てておばちゃんに応えた。おばちゃんに少しだけ笑顔が戻った。そして栄一と同じように右手の親指を立てて返した。


〜数日後の週末〜

「皆んなが本気で俺に勝ちたいと思っていれば、このボールを打ち返すことは必ず出来る。もし、ほんの少しでも弱気になったり勝つことに疑いを持てば返球どころかボールに触れることすら出来ないだろう。」

レッスンの中、栄一はJ3(上級の選手クラス)の中高生たちに向けて発破をかけている。この中にはショットのクオリティーなら栄一と並ぶ高学年のジュニアもちらほら顔を覗かせている。

栄一の言葉には相手の士気を高めさせ「乗せる」表現がいつも含まれるだけにジュニアたちの表情はみるみるテンションが右上がりになるのが手に取るように分かる。そんな空気を無意識に言葉や練習メニューで作り出すことが出来るのは天性の賜物なのだろうか。


(雰囲気が成長を促す部分は多い)


事実、「乗せられた」子供たちの目は真っ青な空に忽然と鎮座する太陽のようにキラキラギラギラと光を放ち、与えられるボールを今か今かと待ちわびているようだ。こんな時こそ思いもよらない力を発揮することを栄一は自身の経験から認識し、子供たちに伝えているのだ。


(乾いたスポンジは、あっという間に水を吸い込んでいく。枯渇は苦痛ではなく準備でもある。)


「俺は本気でお前たちに取らせないつもりで打つから死んでも打ち返して来い!」

栄一の一際大きな声が全てのコートに届くほど響き、大きく振りかぶったラケットからコートに叩き込まれるボールはまるで破裂したかと思われるほどの打球音、そしてそのボールは一人目のジュニアが触ることさえ許さず後方のフェンスに突き刺さった。他のジュニアたちかが少しどよめく。その声の中には…

「取れる訳な…い」

と小さな声を発してしまった生徒もいる。

「手を抜いて取らせてやるのは簡単だが、試合の相手は本気でエースを狙って来る。それを取ろうともせず取れないと思えばそこで試合終了、取れれば切り返せる可能性が生まれる。さあ、お前たちはどちらを選ぶ?」内発的動機付けを企む栄一、この言葉で火の付かない生徒はいない。もしいればこの場所には似合わない。

次のジュニアがスタートポジションに勇ましく歩み寄る。腰を落として構える姿は、まるで獲物を狙って今にも飛びかかろうとする野獣のように見える。瞳の奥に「本気」を感じる。本気を感じるからこそこの空気が本番にかなり近づいていることに練習の価値と意味がある。

ジュニアの目を見ながらトスアップされたボールを再び打ち付ける栄一、予測もあり先ほどのジュニアよりはもう少しで触れるくらい惜しい。

「さあ次!」

栄一の声も再び響き渡る。

さらに空気が張り詰めいい感じだ。

3人目にしてボールにラケットが触れることが出来た。後ろに並ぶジュニアたちが再びどよめく。

「惜しい!」

が、ネガティブな声はもう聞こえない。

たった一本のショットに食らいつく練習であるが、その一本の返球に全員が「期待と挑戦」に没頭している。何故か連帯感さえ漂うのは副産物だろうか。

早く自分の番が来るようにと落ち着かない子供たちの目が素直で美しく、それも栄一は嬉しかった。

「次!」「次!」「次!」…


栄一のレッスンコートを少し離れたコートから羨望の眼差しで栄一のレッスンを見つめる洋平、いつか自分もあのクラスに入れるようにとラケットを持つ手に力が入る。

30分ほど前のこと、栄一は洋平に「最もらしい理由」で洋平に対話の機会を持ちかける。

「レッスン終わったら10分だけミーティングしたいんだけど大丈夫?今度の小学生大会予選の審判についてなんだ。」

「はい、大丈夫です。」

「ありがとう。」

栄一は洋平の耳元でこう囁く、

「美味い大福が2個あるんだけど2人で食べない?」

「本当ですか?」

この言葉まで洋平の表情に笑顔はなかったが、一瞬で目を丸くして歯を綻ばせた。

栄一は軽くウインクしてから、

「レッスン後にラウンジね!」

「はい。」


ここ武蔵野テニスクラブのジュニア選手コースに在籍する生徒のほとんどが栄一に憧れ、いつか自分もプロテニスプレーヤーになり、栄一に勝ちたいと熱望する子供たちだ。とても素直で分かり易いこと、栄一のビジュアルと切れ味鋭いテニスを自分のものにするために一言一句に耳を立て、栄一のパフォーマンスから何を学べるか、いや何を「盗めるか」。高校生にもなれば体格と力量では栄一を上回るジュニアもそう珍しくない。栄一以上のショットスピードを叩き出す子さえいる。自身の実力に自信を持ち、それでもさらなる飛躍を望み栄一頼みの彼らの目はいつも輝いている。たが、厳しいことにその輝きが「見せかけ」では本番にボロが出てしまうことを認識させレッスンでは常に子供たちを追い込んでいる。追い込まれることに慣れ、その状況でも平常心を保てるレベルまでのメンタルタフネスを育成することが狙いだ。


レッスンの終わりに…

「今日はいつも以上にハードワークを多くしました。それでもへこたれないで走り続けた皆んなを見て僕も感心しています。」

先ほどまでコートで怒鳴っていた栄一は見る影もないく笑顔で子供たちを見渡す。

「日々の積み重ねが何よりも大切です。きっと皆んなは強くなります、いつか僕以上に。」

すかさず一人のジュニアが手を上げてこう切り出した。

「それはいつ…ですか?」

他のジュニアたちが少しざわつく。

ニッコリ笑った栄一、

「真司、お前が本気で挑めばまもなくだよ。俺なんかちょろいもんだから。さっき食らったフォアは大したもんだったぜ。」

真司が側にいたジュニアから頭を撫でられ照れ臭そうに、

「マジっすか?」

「マジだよ。お前次第だ。」

何気なくコートの出口に目をやった栄一、洋平がポツンとこちらを見て立っている姿がそこにある。

「連絡事項、最近試合のエントリー漏れが出てるから申し込みは早めにすること。期日を過ぎた試合にはどんなことがあっても出られないんだからミスせず自己管理をすること。以上。」

子供たちの大きな声の返事が小鳥のさえずりを打ち消すほど周りのコートにも響きわたった。

栄一はコート出口に向かって、洋平に手招きでラウンジに先に行くように促した。

洋平も直ぐに理解して振り返り、クラブハウスに続く細道を小走りで向かって行った。木漏れ日に見え隠れする洋平の後ろ姿に白いキャップが少し大きめなのが印象的だ。


広いラウンジには数名のクラブ会員が心地良い疲れを癒すように、ソファーに浅く腰掛け寛いでいる姿がある。ボリュームをかなり抑えて聞こえてくるサラ・ボーンの通った声が涼しげでもある。

洋平は一番奥のテーブルに座っていた。

栄一はフロントに立ち寄り、吉永に洋平とのミーティングを説明し麦茶と「例のモノ」をテーブルに届けてくれるよう頼んでから洋平のテーブルに向かった。

栄一が歩み寄ると席から立ち上がり一礼する洋平に、

「おいおい、洋平そこまでちゃんと礼儀正しいのはすごいな。コーチ、お前の歳の頃にそんなこと出来なかったぜ。今でも怪しいけどね。座って。」

感心している栄一に、

「お母さんが習字の先生をしていて、礼儀とか挨拶とか姿勢とか、色々小さい時からうるさいくらい言われ続けています。」

小さな声だが丁寧な言葉で話す洋平。

「それはお母さん偉いね。簡単そうでなかなか身に付かないのが礼儀作法だから、それは洋平きっとこれから役に立つことなんだよ。お母さんに感謝だね。」

「はい。」

洋平は栄一の目を見ながらあらためて席に腰を下ろした。そのタイミングでフロントの吉永がお盆を持ってきた。

「洋平くん、糸井コーチのお説教?それとも2人だけの内緒話?」

小声で少しだけからかうように話しかける。

「後者ですよ。洋平はこれからどんどん強くなっていって、皆んなを引っ張るリーダー的存在になるんだから、今のうちに教えておかないといけないことがたくさん。なっ、洋平。」

またまたまん丸になった洋平の目を見ながら栄一は右目でウインクを送る。

「洋平くん凄い!応援するから頑張ってね。」

麦茶と例のモノ」をテーブルに置いた吉永は栄一に軽く会釈をして戻っていった。ふんわりと優しい柔軟材の香りが漂う。

「洋平、約束のブツだ。」

周りを気にしながら小声で少し大袈裟に演技をする栄一。テーブルに二個の大福が置かれる。白い餅の周りにゴツゴツとした豆が散りばめてあって美味そうだ。

「さっ、先ずは食うぞ。マジ美味いから。」

麦茶のグラスと大福を洋平の前に置き、栄一も早速大福を一つ手に取った。洋平もそれに続き差し出された大福を手に取り、塗してある白い粉を零しながら大きな口を開けてパクリ。また目を大きくして言葉にならない「美味しい!」を唇を粉で真っ白にしながら栄一に伝える。

「洋平、真っ白だって。」

栄一が唇を指差しながら笑うと、

「コーチだって!」

洋平も同じように笑った。

2人で側にあるガラスに写った顔を見てゲラゲラするとクラブハウスにいる生徒やら会員やらが一斉に振り向く。

側から見れば、師弟と言うよりも「仲の良い友達」くらいに見えるのだろう。だがそれがいい。栄一のジュニアたちとの付き合い方の一つでもあるから。


「洋平、SCUの経験はあったっけ?もう憶えた?」

※SCU…ソロ・チェアー・アンパイアの略、セルフジャッジ(自分のコート内のボールをジャッジ)に付帯して審判台に座り選手のミスジャッジを見守る審判。選手の判定を変更(間違っていた場合)するオーバールールの権利を持つ。


栄一は残りの大福を一気に口の中に放り込んで本題(仮)を話し始めた。

「経験はまだですけど多分もう憶えたので大丈夫です。」

自信に満ちた…とは言い難いが、1ヶ月ほど前に栄一が渡した資料から既に学習は済んでいるようだ。

「じゃあテストね!」

「えっ?」

「SCUは何を判断および決定しますか?」

「ラインジャッジ以外。」

声に覇気があるので自信があるようだ。

「正解」

「オーバールールについて説明して。」

「選手のミスジャッジを訂正出来ます。」

「正解」

「じゃ、明らかにグッドのボールをアウトとコールした選手に訂正するときのコールは?」

「コレクション ボール ワズ グッド」

「洋平、凄いな。合格だ。」

栄一は感心するほど喜びそして洋平を褒めた。

武蔵野テニスクラブが該当する地区の小学生大会予選では参加選手の小学生にSCUを経験させて、選手として公平にジャッジをする立場から審判を経験・学習することを栄一はテニス協会に提案していた。

そのさきがけとして、あえて栄一は洋平に依頼し、学習したことを他のジュニアたちに講習させようと考えている。

「よく勉強したね。偉いぞ!」

洋平は照れながら麦茶のグラスに手を伸ばした。

「洋平、でもここまででまだ半分くらい。洋平の仕事はここからが本番なんだよ。」

グラスを唇から外して少し戸惑う洋平。

「洋平が憶えてくれたSCUのハウツーを他のジュニアたちに教えてあげて欲しいんだ。もちろん俺が側にいて協力するから。」

洋平の目がまたまん丸になっている。漫画に出てくるキャラクターのようで可愛い。

「僕が…ですか?」

「そうだよ。出来るよね!?別に難しくないことでしょ。」

戸惑う洋平、恥ずかしさからか下を向いてしまう。

「俺は洋平、ちゃんと出来ると思うよ。それにテニス上達にも大きく成果が得られることに繋がるんだよね。人に物事を正確に伝えることってリーダーに必要の要素だから、そう思って洋平に頑張ってもらいたいんだ。どう?」

「出来る…かなぁ。。」

「あっ、分かった!上手く出来るかどうかって考えてるんだろ?上手く出来なくて、いや上手く出来ることをコーチは期待していないんだぜ。経験だよ。」

洋平の顔はまだ下を向いたり上を向いたり。レッスンが終わってクラブハウスに戻ってきた女の子がこちらをちらちら見ている。

「洋平、テニスが上手くなるためにたくさんボール打つだろ。たくさんゲームするだろ。やってもいないことを本番で上手くこなすなんて絶対出来ないだろ。でも上手くなりたいから失敗しても何度でもチャレンジするだろ。それと同じことなのね、だから今回も練習でいいんだよ。俺も側にいるしね。」

この言葉が説得となり納得出来たようで、ようやく洋平の顔が上から下には下がらなくなった。

「分かりました。やってみます。上手く出来ないと思いますけどやってみます。」

「そう、それでいいんだよ。テニスの練習だと思って。」

「はい。」

栄一も説得出来たことにホッとしている。洋平は近いうちに小学生たちのリーダーにすることを考えていた。実力が1番と言う訳ではなく、他のジュニアとのコミュニケーションが上手く取れない子でもあるが、真面目で人のことを思う優しいところを栄一は見つけていた。とかくテニスと言う競技は「シングルスプレー」であるが故、周りのことよりも自身を優先に考えてしまうところも否めない。成長期である子供たちにとって、テニスを選択したことで将来に繋げられる人間形成も踏まえた教育は大切な課題であろう。それ故に洋平にとって、先頭に立ち仲間たちを引っ張ることを学ぶことでさらに選手としても、人としても成長してほしいと栄一は考えている。

クラブハウスからコートに出る扉が開いてお客さんが行き来する度に聞こえてくるボールを打つ音がこの場所にはなによりも適したBGMに聞こえ心地よい。

「洋平、話は変わるけど最近おばちゃんのとこは行ってる?」

いよいよ今日の本題(本)を切り出した。洋平の顔がハッとした表情に急変したのは火を見るよりも明らかなほど。

「あれ?どうした?コーチ変なこと言った?」

「全然そんなことないです。変なこと言ってないです。」

責めることは何もないのでなんとか洋平を楽にさせてあげたいと栄一も少々焦りを感じる。

「おばちゃん、洋平の顔をここしばらく見てないから、もうおばちゃんのお弁当飽きちゃって食べたくなくなっちゃったのかな〜って寂しそうに言ってたぞ。俺が思うに、あれはきっと洋平のことが好きなんだな。どう、年上の女ってのは?」

おどけた口調で笑いに持っていきたいと、

「おばちゃんの弁当、全然飽きてないです。本当は毎日でも食べたいくらいなんですけど…」

「じゃ一石二鳥じゃん。日曜日の昼飯はおばちゃんに顔を見せに行って、洋平も好きなおかずの弁当作ってもらえよ。おばちゃん洋平好きだから、きっと大盛りサービス間違い無しだろ。」

たぶんこの言葉は洋平にも引っかかるだろうと栄一は読んでいる。出来れば他のジュニアから指摘された「¥300弁当」の下りを洋平から聞いて話を進めたいと。

「実は…」

小さな小さな声でそう呟いたもののそこから声が出ない洋平。

「ん?どした?」

「実は、僕の家は共働きでお昼ご飯代は¥300しかもらえないんです。」

上手く話始めてくれた。

「そうか。それで?」

「最初におばちゃんのところに行った時に¥300分だけお弁当くださいって言ったら、おばちゃん普通のお弁当作ってくれて。皆んなには内緒って。」

うつむいて今にも泣きそうなか細い声から早く明るい洋平に戻してあげたく、

「そうだったんだ。やっぱりおばちゃん優しいな!優しいからおばちゃんの弁当美味いんだな!」

「それから毎週¥300弁当なんだけど普通に大盛りにしてくれてて、それを真也に見られてバレて…」

鼻をすする音から泣いたことも容易に分かったものの、

「泣くなよ。お前が悪いんじゃないんだからさ。だからと言って真也が悪いわけでもない。」

また語気を冗談ぽくしてみた。まだ洋平は笑わないが…

「おばちゃんに迷惑かけたら悪いと思って寿行けなくてなって…」

なるほど。事の成り行きが全て見えたところで、

「よし。洋平、心配するな。コーチが解決出来ると思う。だからまたおばちゃんのところに行って顔を見せてあげて。それと弁当食いたいだろ?」

顔を上げた洋平の目には、どうやったらこんなに涙が溜まるんだろうって思うくらいに溢れんばかりの涙。

「ちょ、ちょ待てよ。」

キムタク風に言ってみた。洋平直ぐに笑った(笑ってくれた)。と同時に大粒の涙で大洪水の顔となる。

「おばちゃんの肉団子食べたいです。」

「あれ最高に美味いよな!俺もあれなら100個は食べられる。コーチは肉じゃがも外せない。」

「チキンカツも最高です。」

「切り干し大根の煮物!」

「オムレツです!」

「キンピラゴボウ!」

「ポテトサラダ!」

「味噌汁な具は豆腐とワカメ!」

「豚汁の方が美味いでしょ!」

栄一ふと天井を見上げて、

「腹減った〜。そうだ!今から行くか、寿!」

「はい!行きたいです!」

涙顔で笑う洋平の笑顔がキラキラ輝いている。

腕時計を見た栄一が慌てて椅子から立ち上がり、

「洋平、急ぐぞ。あと10分で寿閉まっちゃう。」

「はい!」

2人して駆け出し、クラブハウスから飛び出した。

ラウンジにいたメンバーやスクール生たちがびっくりするほどの速さで2人は駆け抜けて行った。

フロントの吉永が、

「市川コーチ…」

振り返った栄一は、

「あっ、これからミーティングの二次会…いや腹減って洋平と飯食ってきます。」

吉永は少し笑いを堪えながら二度頷き、2つの背中が見えなくなるまで見つめている。その姿は、やはり師弟と言うよりも「兄弟」と言ったほうがしっくりくるように見えた。

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