傾城は やはらかにして 歯が立たず(三)

 あたりに一瞬、沈黙が落ちた。

「え……」

 うめくようなすずめの声を、賑ひは丁寧にすくい取った。

「あの人ァ今ごろ、品川あたりでせっせと励んでおりんすわいな」

 ぐらり、と隣の身体が傾ぐ。

 あわててお菜の入った鉢を受け取ったおまつは、へたり込んでしまった細い肩を「大丈夫かい、すずめ」と支えてやった。

 にわかに周囲の人垣が揺れ、数人の男たちが割って入ってきた。

 首代たちだ。誰かが会所まで告げ口に行ったらしい。

 近づこうとする男たちを、賑ひのしなやかな手のひらが止めた。

 足止めされた首代たちは、腹いせとばかりに野次馬たちを散らそうとする。しかし後ずさるだけで、誰も立ち去ろうとはしない。

 その様子を楽しそうに眺めていた賑ひは、

「わっちはもうすぐ吉原ちょうを出る身。もうここへは来ないだろうし、せっかくなので最後まで言わせておくんなんし」

と前置きしてから話しだした。




 女郎相手に枕商売を繰り返してきた弥助にとって、小娘の雛鶴を手玉に取るのは容易かった。

 甘言を弄せばたちまちのぼせ上がり、言い値をふっかければいくらでも商品を買い取る。それはまさしく、ツルならぬカモであった。

 だからほかの女郎とは違い、商売気は極力抑えた。あたかも恋人のふりをし、芯から惚れていると思わせた。

 しかし弥助は引き際を見誤った。雛鶴が駆け落ちまで企むほど思い詰めるとは、予想外だったのだ。

 もちろん、女郎なんぞと心中するなぞ真っ平御免だ。大事になる前にと、弥助は八角屋の楼主と内儀にすべてを白状した。

 揚屋町の裏茶屋で逃げる算段をしたこと。

 雛鶴と示し合わせた『黒亀』宛の文に、計画の日時が記されていること。

 ありとあらゆるすべてを吐き出し、どうか足抜けを止めさせてくれと頼み込んだ。

 事実を知った楼主と内儀は、あわてて策を練った。

 恋に目がくらんだ雛鶴を、通りいっぺんの説教で納得させるのはまず無理だ。身請けまであと数日、のんびり諭している時間もない。

 ならばいっそ、足抜けを実行させてしまってはどうだろう。

 その際に弥助が死んだと思い込ませれば、いかな雛鶴でもあきらめて身請けを承諾するはず。

 そう考えた楼主と内儀は、一計を案じた。

 蓑吉を使って『黒亀』宛の文を持ってこさせ、足抜けの計画を把握する。そして落ち合い場所へ先回りし、雛鶴を捕まえる。

 裏茶屋には話を通し、鶏の血を座敷にまき散らして弥助の荷物をぶちまけておく。こうすれば、雛鶴は弥助が追っ手に殺されたと思うだろう。

 当の弥助は、しばらく品川あたりに籠もっていてもらうことにした。

 雛鶴が身請けさえされればこっちのもの、囲い者という立場ではおいそれと外出もできないから、弥助と顔を合わすこともなくなる。雛鶴が大門を出るまでは吉原には近づかぬよう、言い含めておいた。大事な顧客でもある八角屋からの提案に、弥助は一も二もなく従ったという。




 すべては、楼主の思惑通りに進むはずだった。

 雛鶴が乱心して斬りつけたうえ、血刀下げて往来に飛び出すまでは。

 おかげで人目に付かぬよう片付けるはずの足抜け騒ぎが吉原中に広まり、とうとう桂屋の旦那の耳にまで入ってしまった。

 恥をかかされたと怒り心頭の桂屋に、楼主たちは必死で低頭した。

 落とし前として、八角屋で二枚目だった賑ひに〝雛鶴〟の名跡を継がせ、半額の五百両で下げ渡すことが決まった。

 雛鶴ほどではないにせよ、賑ひとてれっきとした呼出しだ。本来ならば五百両の身請け代では元が取れない。八角屋にすれば、稼ぎ頭の御職は失うわ、二枚目は破格で手放すわで、とんだ大損となった。

 せめてもの足しになればと、楼主は弥助からありったけの商品を巻き上げて、その中でも見栄えの良い櫛を身請け支度にと賑ひに渡した。ちょうど鶴の模様もあることだし、〝雛鶴〟の身を飾るには相応しかろう。

 そうしてこの櫛は、賑ひの髪を飾ることとなったのだ──。




「ホンに『傾城に まことがあって 運のつき』てやつサ。ぬしのように要領の悪い女郎に関わったおかげで、弥助さんもとんだ商売上がったりだ」

 そもそも、吉原ここでの真なんざ、ありゃしないのさ。

 そう賑ひは、話を締めた。

 すずめの肩を抱いたまま、おまつはしばし呆然とした。へたり込んだすずめも同様に、いやそれ以上に放心している。

 ──そんな、そんなことが……

 あの日、嗚咽を漏らしたすずめの姿が、目の前にちらついた。

『ごめんなさい、弥助さん。わっちのせいで……』

 雛鶴が、ただひとつ信じていた男の真心。

 危険を顧みず命を投げ出した、たったひとりの愛しい男。

 それが、すべてまやかしだった。

 雛鶴を取り巻くすべての人間が、ありとあらゆる手を使って陥れた。

 そんな、そんな残酷なことがあっていいのか──。

 突然、おまつの肚に炎がともった。あっという間に全身を巡り、激しい憤怒と入り交じる。

 抱いていた肩を離し、おまつは立ち上がった。

 手にした鉢を賑ひ目がけて投げつけると、むき身切り干しが豪奢な仕掛にぶっかかる。汁気のないお菜だから、衣装を濡らすことはなかったが、賑ひは血相を変えて手のひらで汚れを払った。

「なにをしィすか! この仕掛は伊勢屋の若旦那からいただいた……」

「なにしやがるはこっちの台詞だ、こんちきしょう!」

 おまつは負けじと怒鳴り返した。

「このがなにしたってんだ。たったひとつの男の真心じつを信じただけじゃねえか。その真心じつさえも踏みにじって、あげく金にならないと分かったとたん、芥屑ごみくずのように捨てやがって。これが人間のすることか!」

 いつの間にか、おまつの頬は濡れていた。袂でぬぐってもなお、あふれて止まらない。

 部外者である自分には、泣く資格なんてない。

 だけど、勝手にあふれてくるものは止められなかった。

手前てめぇら、人間じゃねえ。餓鬼だ、金と欲にまみれた意地汚ねえ餓鬼どもだ!」

 おまつの叫びを機に、なんとなく空気が変わってきた。

 それまで口喧嘩を面白がっていただけの野次馬が、雛鶴への同情に傾きはじめた。周囲の野次馬が「あの雛鶴が……」「ちょいと気の毒だねえ」などと、しきりに交わしている。

 その雛鶴──すずめは、魂が抜けたように動けないままだった。小さい唇が震え、「そんな……弥助さんが、そんな……」と、繰り返すのみ。

 首代のうち年かさの男が、賑ひに「おいらん、もうしたがいい。あんまり悪い噂が広まると、あんたの立場もなくなるぜ」と耳打ちする。

 そこでようやく、賑ひはしゃべりすぎたと気付いたらしい。むすっと唇を尖らせると、

「わっちはただ、雛鶴さんの憂いを絶って差し上げただけでありんすよ。いつまでも不義理な男を引きずるよりは、すっぱり性根を入れ替えたほうがよほど楽でおざんしょう。渡辺綱わたなべのつなの中にもいい男はおりんすわいな、新しく間夫でも作るが吉さ」

「嘘きゃあがれ、この女狐が! そんな殊勝なこたァ、毛ほども思っちゃいねえくせに!」

 噛みつかんばかりのおまつを一瞥すると、賑ひは手にした櫛をこちらへ放ってきた。美しい櫛が地べたに落ち、螺鈿の鶴が砂にまみれる。

「そら、受け取りなんし。これひとつで十両にはなる、羅生門河岸から抜け出すには十分でおざんしょう」

 蔑みの言葉を頭から浴びたすずめは、しばらく無言で地に落ちた櫛を見つめていたが、やがて震える手を伸ばした。

「すずめ……」

 受け取るな、と言いたかった。

 こんな女に嘲笑され、その上で施しを受けるなんて、惨めな真似をするんじゃない──。

 おまつはそう叫びたかったが、すんでのところで堪えた。

 自分はただの朋輩なのだ。すずめの人生は、すずめ本人のもの。

 賑ひの言うとおり、あの櫛があれば羅生門河岸からは抜け出せるだろう。

 小見世でも河岸よりはだいぶまし、すずめはまだ若いし器量も良いのだから、これからいくらでもやり直せるのだ。

 この地獄から抜け出せるのなら──。

 細く白い指が、櫛を取る。

 汚れを丁寧にぬぐい、すずめは目の前にかざした。

 その瞳は、なにを見ているのだろう。

 かつて愛した男の面影か。

 それとも、吉原一の花魁と謳われた、在りし日の自分の姿か。

「これからは、どうぞ〝雛鶴〟はわっちに預けてくださっし。それじゃあ、どちらさまも御達者で」

 最後まで嫌味な捨て台詞を残すと、賑ひは下駄を返した。べそべそと泣く新造や禿を引き立て、江戸町二丁目のある大門方面へ向かってゆく。

 残されたおまつは、その絢爛な後ろ姿を見送った。

 もう、なにも言い返す気力も沸かなかった。

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