傾城は やはらかにして 歯が立たず(二)

 ぴたり、とすずめの歩が止まり、振り返る。

 いきなり立ち止まったため、後を追いかけようとしたおまつは小柄な身体にぶつかりそうになった。

「その上で、桂屋の旦那さんが身請けしてくださることになりんしたよ。誰かさんが汚した〝雛鶴〟を、もう一度蘇らせようとお考えなのサ。ホンにありがたいことだねえ」

 誇らしげに語る賑ひは、とどめとばかりに、

楼主だんさんは、『おまえは十数年ぶりの雛鶴だ』と、たいそうお喜びでありんすよ」

と、投げつけるように言った。

「賑ひ姐さん、いくらなんでもひどうありんす! そこまで言う必要はないでありんしょう!」

「ナニ、わっちは本当のことを言ったまで。だいたい、今のおまえの姉女郎はわっちでおざんすよ。肩入れする側を間違ってやしないかい?」

 食ってかかる梅香のふっくらした頬を、賑ひは白い手を伸ばして「この了簡りょうけん違いが」と、つねり上げる。傍らの禿ふたりも「姐さん、もうやめてくださっし」と、裾を引っ張り泣き出す始末だ。

 なんだなんだ、朝っぱらから女郎の喧嘩か、と、朝湯帰りの遊客たちが野次馬に集まってきた。

 夜見世ほどの人出はないが、それでもすずめの正体がバレてしまう恐れがある。あの振新には気の毒だが、とっととここから離れなければ。

 すずめの手を取り、足早に立ち去ろうとした、そのとき。

「……ああ、すっかり忘れておりんした。ぬしに渡すものがありんすよ」

と、賑ひが笑みを含んだ声をかけてきた。

 かこ、かこ、と下駄の音が近づいてくる。

 悪夢のような足音に、ふたりは囚われたように動けなくなった。

 すずめとおまつの目の前まで来た賑ひは、おもむろに髪に手をやった。

 見事に結われた横兵庫よこひょうご、そこへ挿していた櫛を一枚引き抜くと、ついと差し出してきた。

「ほんの餞別でおざんす。どうぞ、遠慮なく受け取ってくださっし」

 その櫛の美しさたるや──。

 飴色もつややかなべっ甲に、蒔絵で細かな文様が描かれており、中央には螺鈿らでんで鶴が施されている。場末女郎にはお目にかかる縁すらない、逸品中の逸品だ。

 あまりの見事さにうっかり見惚れてしまったおまつの耳に、

「……これは……」

と、うめくようなすずめの声が飛び込んできた。

「これ、ぬしには見覚えがありんしょう?」

 くすくすと笑いながら櫛を差し出してくる賑ひを、すずめが呆然と見つめている。わなわなと震える唇が、「なぜ、ぬしがこれを……」と、漏らした。

「『もともとは自分の櫛だったのに』と言いたいんでおすな? あいにくだが、今ではわっちのものでね。……というか、最初からぬしのものでもないけどサ」

 差し出した櫛をひるがえし、己の唇に押しつけた賑ひは口角を持ち上げた。

 真珠色に輝く鶴が、紅い唇に食われてしまいそうだ。

「うそ。だってこれは、わっちのために弥助さんが作ってくれていたはずの櫛だもの。ほかの誰でもない、わっちにだけだって……」

「ああそれ、弥助さんの手管てくだでありんすよ。そうやって皆に『おいらんにだけ特別なのを』て吹き込んで回って、あたいを釣り上げていったあげく、一番いっち高値を付けた女に売りつけるのサ」

 さらりと言ってのける賑ひに、すずめだけではなく傍で聞いていたおまつも絶句した。

「皆、って……」

「全盛の花魁衆でおすよ。扇屋の花扇さんも、玉屋の濃紫こむらさきさんも、讃岐屋の雲路くもじさんも、もちろんわっちも、みいんな弥助さんのじゃわいな」

 すずめが語ったところによると、弥助は吉原の妓楼を回る背負い小間物屋だという。ならば他の見世にもお得意様がいてもおかしくはない。

 しかし、賑ひの口ぶりでは、そう単純なものではなさそうだった。

 部外者ではあるが、思わずおまつは問うてしまう。

「……まさか、その弥助って野郎は、他の女郎とも言い交わしてたのか?」

「ハテ、『他の女郎とも』というのが間違いで、そもそも弥助さんには本命なぞおらぬわいな。小間物を売るついでに、自分も売っていただけ。『人間の たけりまである 小間物屋』てやつだが、弥助さんの場合は張形はりかたではなく、というところが振るっておりんすわいなァ」

 こぼれ落ちそうな笑みを浮かべたまま、また一歩、賑ひが踏み出した。

 かこ、と下駄の音が鳴る。

「お相手の花魁衆は、みなそのあたりを承知の上でありんすよ」

 本気ィなったのは、雛鶴さん。ぬしだけでありんす──。

 ひんやりとした賑ひの声が、おまつとすずめの全身を包み込み、やがて細かい霧となって地面に落ちた。

 すずめが、いや雛鶴が、身も心も捧げ抜いた男、弥助。

 その弥助が、ほかの女郎衆をも籠絡していただなんて──。

 そこまで考えたおまつは、はっと我に返った。

「ちょっと待てよ。じゃあなんで、雛鶴との足抜けに応じたのさ。見つかったらただじゃすまない危険な賭けなんだ、並大抵の覚悟じゃできないはずだ。雛鶴に本気だったからこそ、足抜けを手伝ったんじゃないか。実際、それで野郎は殺されちまったんだろう?」

 商品を売るための手管ならば、そこまでするはずがない。

 女郎だって客をつなぎ止めるためにあの手この手を使うが、本気で命を投げ出すような真似はしない。せいぜいが文で恨み言を並べたり、死人の爪を買って自分のものと偽る程度だ。

 だからこそ、命を賭けられるのは、本気の相手だけ。

 お互いが心底惚れて惚れ抜いたからこそ、雛鶴と弥助は駆け落ちを企んだのだ。

 おまつがそう言うと、賑ひはあっけにとられたような顔をした。

 しかしすぐに、声高らかに笑い出した。童女のような邪心のない笑い声が、かえって不気味だ。

「アアおかし。雛鶴さん、まだそんな茶番を信じておりんすか」

 目尻に浮かんだ涙を指ですくいつつ、

「弥助さんは、生きておりんすよ」

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