2. 須磨浦を泳ぐ

 ぼくは、海を目指めざして進んだ。

 須磨海岸すまかいがんの砂浜は、七十歩ほどで渡り切れる。


 九月の海には、人の気配がない。

 岸から突き出した小突堤しょうとっていの上に、数人の釣り人が見える。海上には、ウィンドサーフィンの小さなが、幾張いくはりかそよいでいる。砂浜をのんびりと散歩する人が、ぽつりぽつりとおとずれては去っていく。

 ぼくは、九月の海が好きだ。八月の海にあるものが、何もないからだ。


 ぼくは、砂浜のいつもの場所に着いた。

 バスタオルの入ったバッグを置き、服を脱いだ。水泳着は、服の下に着ている。軽く体をほぐしてから、海の中にみ込んでいく。

 海水は、いまだ温かさを残している。泳ごうとする者を温かくむかえてくれる。九月からがほんとうの海だ。


 須磨海岸は、年々、打ち寄せる波に浸食しんしょくされている。神戸市こうべしは砂の補充ほじゅうを続けているが、追いつかない。足裏あしうらに、小砂利こじゃりの荒い感触かんしょくがある。

 二十歩も踏み込めば、大人でも足が立たなくなってしまう。

 ぼくは海水に体をあずけた。海水はぼくの体をささえ、浮かび上がらせてくれた。ぼくは平泳ひらおよぎで、おきへと泳ぎ始めた。


 海水は青緑色あおみどりいろにごっていた。ぼくの、水をいている指先より向こうは見えない。

 ぜいたくは言えない。ここは南の島の珊瑚礁さんごしょうじゃない。関西第二位の商業港しょうぎょうこうである、神戸港こうべこうの、すぐとなりだから。

 ぼくは息をぎ、水を掻き、また息を継ぎ、水を掻き、ひたすら泳いだ。

 泳ぎを止め、振り返った。岸は遠い。ここでおぼれても、誰も助けに来ない。でも平気だ。太陽と青空と、白い雲が見守ってくれているからだ。


 ぼくが辿たどり着こうとしているのは、沖に長く横たわる、コンクリート製の防波堤ぼうはていだ。

 そこにい上がって一休みし、岸へ戻り、バッグの中のにぎめしを食らいながらひなたぼっこするのが、ぼくのささやかな楽しみだった。

 平泳ぎにきたので、背泳せおよぎに切り替えた。青空を見上げながら泳いでいると、小さな自分だが、この広い世界と一体になれたような気がするのだ。


 そのとき、奇妙きみょうなことが起こった。

 水面にり下ろした右腕みぎうでに、されるような痛みを覚えた。

 ぴちぴちした、はじけるような痛みだった。クラゲに刺されたか? と思ったが、そのようなものはいなかった。ぼくは痛みを忘れ、ふたたび腕を振り上げた。

 そのとき、小さななみが、息をおうとしたぼくの顔にかぶさったのだ。


 塩水しおみずのどおくに流れ込んだ。ぼくははげしくせき込んだ。それははいの中にある大事な空気を追い出した。ぶくろを手放したのだ、自分から。

 ぼくの体は、今までのかろやかさがうそのように、海面下かいめんかに沈んでいった。海は、ぼくを支えることを止めた。海は気まぐれだ。別のことに興味きょうみを移し、ぼくを支えることは、もう忘れたのだ。

 ぼくは、激しい恐怖きょうふに捕らわれた。

 ぼくの手足は勝手かってにじたばた動き、ちゃぷちゃぷと水しぶきを上げた。ぼくののどからは悲鳴ひめいが……悲鳴ではなく飲み込んだ海水が……吹きこぼれた。何が平気なものか、おそろしさでいっぱいだ!

 ぼくの頭上ずじょうにはきらきらかがやく海面があり、その上にはせいの世界が広がっていた。ぼくの鼻も、口も、死のふちの中にあった。


 ひとりで泳ぎ出たのだから、いつかこうなると分かっていたのだ。

 ぼくの手足はもがくことを止め、ぼくの体はゆっくりと、海の底へ沈んでいった。

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