王子の望み

 白い鳥の姿を保つ悪魔は中庭で王子を待っている。

 朝食の後に王子が中庭に来る確率は高い。

 初めて顔を合わせた日もそうだった。

 毎回泣くために駆け込んで来るわけではない。

 食休めに立ち寄ったり、本を持参して読書しに来たりと様々だ。

 王子にとって中庭は数少ない居場所の一つだった。

 悪魔は白いベンチの上にしおりが挟まった本を見つけた。

 傍に降り立ち、本の表紙を眺める。

 これは王子が読んでいるものに違いない。

 双子の姫たちには読書の趣味は無い。

 家臣たちがこの庭で読書をすることも無い。

 王や王妃も同様だ。

 手持ち無沙汰だった悪魔は魔力を使って本をベンチの上に立たせた。

 ぱらぱらとページを捲る。

 その本は大分読み古されていた。

 お気に入りの本なのだろうか。

 同時に人の気配を感じて、悪魔は本を戻す。

 そしてベンチの上にじっとしている。

 目当ての人物がやって来て、小さく「あ」と言った。

『御機嫌よう、ベリアル様』

「このあいだのことも、夢じゃあなかったんだね」

『夢だと思われたのですか……?』

 王子は申し訳なさそうに言った。

「だって、まるで本の中の出来事みたいだったから……」

『ふふ、ならば主役は貴方ですよ』

「素敵だね」

 にこりと笑って、王子は悪魔の隣に腰を下ろした。

 本を手に取り、膝の上に置く。

『ベリアル様。昨晩の話の続きを致しましょう』

「……うん、そうだね。私も丁度そのことを考えていた」

 目の前の薔薇は美しい。

 太陽の光を浴びて光り輝いている。

 辺りには噴水が奏でる水の音が流れている。

『望みは殺して貰うこと、でしたね』

「……うん」

 王子は静かに肯定した。

『貴方を殺す者は誰でも良いのですか?』

「ううん。貴方が私を殺して」

 ふむ、と悪魔は考えた。

 少し黙ったあと、疑問を口にする。

『どうしてわざわざ私に頼むのです? 私を頼らずとも簡単なことではありませんか?』

「どうして?」

『そこらを歩く兵にその剣で胸を突いてくれと頼めばすぐに叶うのでは?』

 悪魔の言葉に王子は思わず笑った。

 とてもおかしそうに笑ったので、悪魔は鳥頭を傾げる。

「無理だよ。民は私を嫌っていても、殺すことはできない。王を愛しているからね」

『……? 民が王を愛していると、貴方を殺せないのですか』

「ああ、そうだよ。お父様が私をとても大事にしていることを、皆はよく知っている。お父様は、本当は殺さなくちゃならなかった私を殺さずに、しかも災厄など迷信であるということを証明しようとして私を愛し、守ってくださっているんだ。だから民もそれを信じようとしているし、信じたいと願って、私を愛する努力を続けている。自分が愛する人が大事にしているものを、貴方は壊せると思う?」

『……うーん……』

 悪魔は思わず唸って鳥頭を傾げる。

『では、ご自分でご自分を殺すことはお考えにならないのですか?』

「自害ってこと?」

『はい』

「それはできないよ」

『やはりご自分で死ぬのは怖いのですか』

「そりゃあ……怖いよ。姫たちに毒を飲まされて苦しいときによく考えるもの。死ぬのはこれ以上に苦しいことなんだろうなって」

『苦しまずに死ぬ方法も沢山ありますよ? ――ああ、でも私としては、自害を勧めることはしたくありませんね』

「神の御許へ行けなくなるから?」

 思いがけない王子の言葉に、悪魔は赤い目を丸くした。

『この国に神は存在しないと存じていましたが……貴方はを御存じなのですね』

 自殺者は神の元へ還ることができない。

 神からの試練を自ら放棄するのは、神の意に反する利己的な行為に当たる。

 魂は汚れ、天上へ還ることができないばかりか、悪魔にすら避けられる。

 自殺者の魂ほど不味いものは無い。

「うん、遠い国の本に書いてあった。――でも、そんな大そうな理由じゃないし、死への恐怖が強いからってことでもないんだ。本気で死ぬ気になったら、きっと死ねるものなんだろうし」

『では、何故?』

 王子は視線を薔薇の群れから自分の膝上にある本に移す。

 じっと見詰めながら、悪魔の質問に答えた。

「――ただ、私はさっき言ったように、愛している人が大事にしているものを壊せないんだ。お父様は私を愛してくださっている。だから私が死をもって仇なすわけにはいかないって思うんだ。私はお父様に失望されたくない。たったひとり、この世界で私を愛してくれている人だもの……」

 悪魔は即座に否定したくて堪らなくなった。

 確かに自分は人間が唱える『愛』がよく分からない。

 だが、王が王子にしていることや強いている行為がなんであるかは理解できた。

 それはつまり、王の言動が『愛』とは異なっているということに他ならない。

 だから悪魔には断言できた。

 王はお前を愛してなどいない。

 愛しているのなら、どうしてそんな名を与えた?

 どうしてそんなふうに扱う?

 どうして傷つけるばかりなのだ――……いっそ教えてやりたかった。

 この哀れな王子に、真実を教えてやりたい。

 しかし、聡い王子のこと。

 もしかすれば真実を知ったうえでこんな戯言を口にしているのかもしれず。

 一生懸命、思い込もうとしているのかもしれなかった。

 でなければとっくに自害してもおかしくはない境遇にいる。

 誰だって望んで死にたくはないよなあ。

 悪魔はぼんやりと思った。

 生きるためには人を騙し、ときには自分をも騙す。

 それは人間も悪魔も同じなのだろう。

 父親すら自分を愛していない。

 そう認めてしまえば、これから先どうやって生きていけばいい?

 世界でたった独りだと認めてしまうことになる。

 王子の中は常に孤独と不安と恐怖でいっぱいなのだ。

 彼は決して死にたいわけではない。

 独りが怖いから死ぬことを恐れている。

 独りきりで死ぬのと、死んで独りきりなのは、似ているようで全く違う。

『本当はね――ここだけの話だよ――時々ね、姫たちが分量を間違ってくれたら良いのにって思ったりもするんだ』

 悪魔はそれだ、と言うように王子を見上げた。

「でも、そうすると姫たちが可哀想になってくるんだ。もし私を間違って殺してしまったら、彼女たちは人殺しになってしまう。この国ではね、家族殺しの罪は首をねる決まりになっているんだ。王族だって例外じゃないから、あの子たちがそんな目に遭うかと思うと、凄く心が痛むし、とても怖くなって、やっぱり最後には生きていて良かったって思い直すんだ」

 困ったように笑って、王子は静かに溜め息を吐いた。

 自分で言っていて、悲しくなってしまったのだろう。

 その眼は少し翳っている。

『ベリアル様は優し過ぎるがありますね。もし妹君が貴方を間違って殺してしまったとしても、実の兄に毒を盛るという行為自体がすでに人道的ではない。十分、罪に値する。 私たち悪魔の世界でだって、仮に悪ふざけとして毒を盛ろうにも、かなり相手の悪魔を選ぶ話です』

「へぇ、貴方たち悪魔は毒すら遊び道具になるんだね」

『そうですよ。だから人間が真似事をすると、まるで悪魔のような奴だって言われるでしょう?』

「なるほど……!」

 王子は目から鱗が落ちたとでも言うように感嘆を漏らした。

『なるほど、は、私の台詞です。貴方が殺されたい理由がよく分かった気がしますよ。――そして、どうやったら殺されることができるのかも、ね』

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