手品師と人魚

南風野さきは

手品師と人魚

 白茶の方形石で組み上げられた防波堤が海に突き出ていた。海へと伸びる白茶の腕は二本。そのはじまるところに砂浜がある。白よりも灰色に近い砂で、その砂浜はできていた。砂浜の先には街があり、丘があり、丘の頂には教会が建っている。赤みがかったオレンジ色の屋根と、白茶の石壁。街並をかたちづくる建造物の背は低い。街そのものが丘の上に築かれているから、海から眺めた眺望は、どこまでも広がる空と、オレンジ色の半球に白茶の教会が突き出している建造物の群れでてきていた。

 くすんだ青と深い碧の綯い交ぜとなった海が、彼方まで続いている。芽吹きの季節であるためか、初夏への過渡期にあたる快晴の空は陽の白を透かした薄青を呈していて、かろうじて砕け散ることから逃れている硝子板のようだった。

 防波堤の先端に、堤たる地べたに直に座りこんでいるひとがいた。波音に耳を傾け、磯の香と波打ち際の大気に満ちる潮騒のうねりを堪能しながら、星空のような目で、そのひとは空を仰いでいた。白昼にあってすら、ひとがたに夜を凝らせたかのような印象を与えるそのひとは、小柄で若く、潮風に吹き飛ばされそうなまでに細くて薄い。

 気まぐれに跳ね回っている旋律や、音楽の欠片であろう弦の爪弾き。歌声とも歓声ともつかない人の声。潮騒にまぎれ、風に乗って聞こえてくるのは、街に溢れかえっている陽気な騒々しさそのものだった。

「にぎやかね」

 近いところから聞こえてきた声に、そのひとは空から海へと眼をおとした。そのひとの白皙の肌と尾羽のような髪をはじめとする夜の彩りは、明るい陽光に浮くことなく、不思議と馴染んでいる。防波堤を組み上げている石に両腕を載せて、街からの道の終着点であるがゆえに、楽器の鳴りと雑多な歌声を吐き出している砂浜を、少女のような女が見つめていた。

 街にはこの日のために集まった人々が溢れかえっていた。露店が並び、道端であれどこであれ、楽器が掻き鳴らされ、人々が踊っている。鮮烈な色彩の服飾がゆらめき、伸びやかな手足の首で跳ねる装飾は、涼やかな音を立てながら、陽を弾いて輝いている。

 踊りと歌、極彩と喧騒が、街を満たしていた。

「人がいっぱいだわ。この浜辺って、いつもこんなに騒がしかったかしら」

 身体のほとんどを海に浸しているその女は、海水に濡れそぼち、額に首筋に黒髪を貼りついていた。女の豊かな黒髪は、海水に沈む肩より下では海草のように揺らめいている。

「今日は特別ですよ。大騒ぎをする日なんです。各地に散らばっている彼らは、彼らを守護する聖女を讃え、同族と再会するために集まってくる。鐘が鳴れば、教会からあの浜へと、隊列を組んだ人々が聖女の像を連れてくることでしょう。彼らとは歌と踊りそのもの。この饗宴の舵を取るのは、彼らこそが相応しい」

 高くも低くもなく、やわらかくも硬くもない声が、潮騒に掻き消されずに、女の耳に届いた。返事のあったことに驚いたのか、波間に漂っている女は目をしばたたく。

「手品でも披露して小銭を稼いでこいと言われたのですが、他の劇団員も大道芸そっちのけで今日を楽しんでいますし、そもそも、私たちの出る幕なんてないのです。ですから、散歩がてら、終幕の行列をじっくり眺めることができそうなここに陣取ってのんびりしていたところなのですが」

 降り注ぐ陽光の網がたゆたう海へと、星空の目が向けられる。海のなかで鱗を煌かせている、優美な曲線をもって悠然と振られている魚の尾は、黒髪をゆらめかせる女の腰へと続いていた。

「まさか、人魚さんに出会えるとは」

 純粋な歓喜が弾けさせた満面の笑みを、人魚は見上げた。

「あなた、わたしがみえるの?」

「見えますよ。今日はおまつりです。特別な眼鏡をかけていなくとも、私のほかにも、あなたのことが見える誰かがいるかもしれません」

「でも、あなたは、いついかなるときであっても、わたしのようなもののことをみることができているみたいだわ。だって、わたしのことをみても、驚かないのだもの。あなたにとっては、傍らに置かれているものも、そのようなものだとして扱われているものも、さほど違いはないのでしょう?」

「さて、それはどうでしょう」

 口の端を吊り上げて、大仰に、そのひとは首を傾げてみせた。上目遣いに、人魚はそのひとを見つめる。

「あなたは何であるのかしら?」

「旅の劇団で、手品師のようなことをしています」

「生業を訊いたわけではないのだけれど」

 人魚の黒目がちな目が、さぐるように細められた。

「あなたは、わたしのようなものが、こわくはないのね」

「恐いですよ。とても怖いし、おそろしい」

「その割には物怖じしていないみたい」

 細い片腕がゆっくりと持ち上げられ、上方へと伸びた。波間に落ちていく水滴が煌く。人魚の腕には黒髪が絡みついていて、真珠のように白かった。伸ばされてきた指先に応えるように、ひとがたの夜は身を傾ける。ひとがたの夜の顎を、白の指が掬った。

「連れていってしまおうかしら」

 光すら呑みこんでいく黒の目が、好奇心に彩られた星空の目を絡め取る。

「どこにですか?」

 夜の口から、鈴の音のような声が、鳴った。

「海の底」

 人魚のこたえに、夜の唇が愉しげに持ち上がる。ひとがたの夜を掬っていた指先が、海中へと引き戻される。そのひとは残念そうな顔をする。人魚は呆れたようだった。

「やめておくわ。あなた、海とは相性が悪そうだもの。あなたには空の方が似合うわね。たとえ籠に鎖されたとて、格子の隙間から逃げてしまいそう」

 潮騒が大気に満ちる。波の音が渦を成す。街を抜け、浜を通り抜けてきた風が、鐘の音とざわつきを運んでくる。

「喧嘩をしたの」

 拗ねたような声が、人魚の唇から零れた。

「あのひとは水底の家から出ることはできないから、わたしが出てきてしまったわ。今は顔も見たくない。だから、これはちょっとした家出になるのかしら」

星空の目が輝いた。

「それは面白そうですね。一緒に行きますよ。加勢します!」

 無邪気な申し出に、人魚は苦笑する。

「遠慮しておくわ」

 街から砂浜への道に、空隙ができる。やがて、道いっぱいにひしめき合う人々が現れた。輿を運ぶ隊列が、列を崩さずに砂浜へ押し出されてくる。砂浜は瞬く間に極彩で埋め尽くされた。

 海は常にうごめいていて、空は静止に佇んでいる。くすんだ碧は空へと蕩け、薄い青は海へと融けている。

大きな白い鳥の群れが、境の曖昧な空をはばたいていった。

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手品師と人魚 南風野さきは @sakihahaeno

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