第16話 霧の中の男(コトノハ飴から)

おや、久方ぶりの客人まろうどか。


そう怖がらなくて良い、茶でも出そう、こちらへ。


その様子だと、谷から来たか。


時たまそういう者が来るのでな。時ならぬ霧に巻かれただろう?


そうだろうとも。その霧を、ここに縁の品を持って通ると道が開くようになっているのでな。


ふむ、知らずに持っていたか?その蟹の髪留めよ。


ほう、買うたとや。


ほう、ほう。面白いこともあるものだ。


その蟹はな、元は此処の井戸に棲んでいた蟹の抜け殻よ。綺麗に残ったので拾って置いておいたのを、随分前の客人まろうどが細工物にしたいと言うのでな、譲ったのよ。


ああ、やっと湯が沸いた。茶請けといえばここで育てた桜桃ばかりだが、遠慮無くつまんでおくれ。我らでは食べきれぬのでな。


ははは、怖がっているな。ハデスの柘榴ざくろでも思い出したか?なに、此処は黄泉でもなし、異界でもなし、ただ少しばかり見つけにくい場所というだけのこと。谷の茶屋には行ったか?


そうかそうか。その茶屋の甘味に使う果物を作っているのは我らよ。ここの物を口にしたからと言ってどこかに行けなくなるということはない。


うん?言っていなかったか。細君と共に畑仕事をやっておる。じきに帰ってくるだろうよ。


いま立ちこめている霧が晴れたら元の場所に居るでな、ゆるりと待つが良い。


ふむ、この場所についてか?


うーむ、なんと言ったものか。


まあ、あれだな。店の中身が悪いわけでもないのになぜか入りにくい店だの、しょっちゅう店が変わる場所だのあるだろう。


あんなような、目に付きにくい場所というのがあるものでな。その目に付きにくさの、さらに強くなったものが此処というわけだ。


おお、霧が薄まったな。そろそろだろう。桜桃を土産に包むゆえ、後ほど食べるが良いぞ。


さ、これを持って行け。ただ待っていれば戻る。案ずるな。


また会うときまで、健やかにな。

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