【   最終話   】

 ベルローズは再び宮殿の裏手に馬を走らせると、古びた牧草小屋の前でロジィを下ろした。

 自分も颯爽と馬を下り、手綱を近くの樹に結びつけるとロジィの手を取って、小屋へと入る。


 中に、うずたかく積まれている牧草には目もくれず、ベルローズは床の一角を引き上げた。床下収納の戸だろうかと思っていたら、階段が見える。隠し階段を誤魔化す扉だった。


「滑りますから気をつけて」


 ベルローズがまず先に床下の階段に進み、ロジィが落ちないように手を差し伸べてくれる。


「ここは……」

「万一のことがあった場合の隠し通路です。メルヴェイユにはいくつかああるのですが、この階段は国王執務室に直結しています」

「わたくしが知ってもよいのですか」

「隠し通路は王族専用。姫はアルティノワ大公妃におなりです。なんの問題もありません」


 真っ暗で狭い通路を、ベルローズは迷いのない足取りで進んでいく。どのくらい歩いただろう。ベルローズが「着きました」と言った。


「少しお待ちください」


 この頃になると、ロジィも暗がりに目が慣れて、彼が何をしているのかおぼろげに見えるようになっていた。ベルローズは腰の短銃を取り出すと、それで隠し通路の天井を三回、カツカツと叩いた。

 それから、数拍。天井が四角く剥がれていき、眩しい光が隠し通路に降り注いだ。


「――何をしていらっしゃるのです、そんなところから」

 四角い天井から顔を覗かせているのはロッシュ伯ピエール。国王の侍従だ。

「フィルはいるよね? この時間」

「ええ、おられますが……大公妃様!?」


 ベルローズの背後にいるロジィを見るなり、驚愕の表情。

 疑問を抱かずベルローズについてきてしまったが、ここは国王執務室だと言っていた。機密文書もあるだろう。ロジィがいては問題があるのでは――。


「大公妃様までお連れになるとは、何かありましたか?」

「ちょっとね。人払いは?」

 端的にベルローズが尋ね、ロッシュ伯は「しております」と頷いた。

「入るよ」


 ロッシュ伯に短く断りを入れたベルローズは振り向いて「姫から先に」と言った。ロッシュ伯が心得た様子で上から腕を差し伸べてくれる。

 ベルローズはロジィの腰を抱き上げると、まるで飼い猫を預けるように軽々とした仕草で、ロッシュ伯に手渡す。細身に見えるのに力強い。


「失礼いたします、大公妃様」


 紳士的な所作でロジィを抱えたロッシュ伯は、一切の無駄がない動きで床に下ろしてくれた。

 すぐに続いてベルローズが床下から身を躍らせる。ふわりと舞っているような軽やかな動きだ。

 パッパッと衣服の埃を簡単に払ったベルローズは、クラヴァットを引き抜くと、それでロジィの頬や髪を拭ってくれる。


「汚れます」

「構いませんよ」


 クラヴァットは絹なので肌触りが滑らかだ。多少、強くこすられても痛くないのに、ベルローズの手つきは丁寧すぎるほどに優しい。


 うおっほん。


 ロッシュ伯のわざとらしい咳払いで、ここが国王執務室で、陛下の御前であることをロジィは思い出す。


「も、申し訳ございません。先触れもなく勝手に参りましたこと、どうかお許しを……」

「姫をお連れしたのは私ですから。謝罪される必要はありませんよ」


 膝を折って礼をしようとするロジィの肩を掴み、その動きを止めたベルローズは、執務机へと向き直った。

 机に向かって執務中の国王フィリップは、突然の乱入者にも顔色一つ変えることなく、それどころか、どこか面白がるような笑みを浮かべていた。


「どうした?」


 執務机に積まれている書類に目を通しながら、ベルローズを促す。さらさらと慣れた手つきで署名すると、それをロッシュ伯へと手渡した。


「薔薇の秘密を話してもいい?」

「閣下!!」


 ロッシュ伯の、悲鳴にも似た叫びが響く。……彼も、ベルローズの秘密を知る一人だったらしい。

 ようやくベルローズに顔を向けたフィリップが静かな声で問いかける。


「大公妃にか?」

「俺を見て〈ベルローズ〉と見破った」


「!」


 フィリップとロッシュ伯の視線がロジィに集中した。ロジィは膝を折って礼をしてから、「畏れながら」と口を開いた。


「ベルローズ公爵夫人が宮廷を去られる以前に、麗しの薔薇が殿方でいらっしゃることを存じ上げておりました」

「大公妃は慧眼だな」

「とんでもない誤解をされてるから、ベルローズをやる羽目になった理由を話したいんだけど」

「……とんでもない誤解?」


 怪訝そうに眉をひそめるフィリップに、ベルローズは心底うんざりした表情を浮かべると。


「フィルが俺を熱烈に愛してるって誤解」


 執務室に爆笑が響いた。発生源は国王だった。天を仰いで耳を塞ぎたくなるほどの大声で笑い続けている。気が触れたのかと心配になるくらいの笑い方。


「それは……なんと申しますか……災難でしたね」

 しみじみと。心から同情した様子で言葉を掛けたのはロッシュ伯である。


「災難どころか致命傷だよ。……ちょっと、フィル。俺の命が懸かってるんだから、早く許可を出してよ」

「……ひぃ、ひっひ」

「ああ、いいよ……ってことかな」


 ぼそりとベルローズが呟いた。ロジィには、ただの馬鹿笑いにしか聞こえなかったのだけれど。

 ひくひくとひきつけを起こしながら笑うフィリップが、ロッシュ伯に手振りで何かを伝える。それに首肯したロッシュ伯は「薔薇の君」と呼びかけた。


「何」

「陛下が、こちらで大公妃様へご説明なさるようにと仰せです」

「ここで?」

「面白そ……いえ、ベルローズ誕生には陛下が関わっておられますので」

「今、面白そうって言っただろ」

「わたくしは何も」

「ピエールじゃなくてフィルがだよ。……ったく、しょうがないな」


 くるっと見回したベルローズは、執務机から少し離れた窓辺に寝椅子が置かれているのを見つけると、ロジィの手を引いた。


「長くなります。どうぞ、お掛けに」

「ですが、こちらは陛下の執務室で――」

「ここで話せと命じたのはフィルですよ。椅子を借りるくらいどうってことありません。何しろ、私は〈ベルローズ〉ですから? 国王の前でいかなる我が儘もまかり通ります」

「…………」


 そういえば。ベルローズ公爵夫人は国王の御前で好き放題に振る舞っていらしたような気がする。椅子から立つこともなく国王を迎え、愛の囁きも右から左に聞き流していたような。


 ロジィを座らせるとその隣に腰を下ろし、ベルローズは、黒髪を引っ張った。

 ――ずるっと、外れた。


(外れた!?)


 黒髪は鬘だったようで、その下からは黒いネットで覆われた頭部が出てくる。

 ベルローズは、そのネットも躊躇いなく脱ぎ捨てて――零れ落ちるのは眩いばかりの金髪。


「…………ジュ、スト……様……?」


 神の御前で永遠の愛を誓ったロジィの夫だった。

 ――――え。


 ベルローズは男性で、凄腕の護衛役は〈ベルローズ〉の本来の姿で……鬘を取ったらアルティノワ大公?


「はい。ジュスト・ユジェーヌ・ダルティノワですよ、ローゼリア姫」


 にっこりと天使の微笑を向けられて思考が停止しそうになるが、ロジィは必死に頭を働かせる。

 つまり――……。


「ジュスト様が陛下の最愛の男性ということですね」


 爆笑は二つ聞こえた。国王フィリップとロッシュ伯だった。いつも、きりっと真面目に侍従の務めをこなしているロッシュ伯までもが、床にくずおれて笑い転げていた。


 けたたましいほどの笑い声が聞こえているだろうに、ロジィの目の前にいる大天使は、無情なほどに彼らを無視して言葉を続ける。


「違います。私が姫に申し上げたいのは、姫が憧れておられる〈黒髪の貴公子〉は、この私だということです」


 ベルローズ――いや、ジュストは、そう言って脱いだ鬘をロジィに見せつけるように持ち上げた。ベルローズのときとは違って巻き髪ではなく、さらりと真っ直ぐな黒髪だ。


「ベルローズは仰るとおり男です。ご覧のように黒髪は鬘ですから、いくら姫が待ち望んでおられても〈黒髪の貴公子〉がメルヴェイユに伺候することはありません。……代わりに、メルヴェイユには〈金髪の貴公子〉が伺候するようになったはずですが?」


「……あ」

 ロジィは、ぱちりと瞬いた。……言われてみれば。


 姿を消したベルローズと入れ替わるように宮廷に現れたのは、アルティノワ公だった。

 彼が宮廷に登場するなりロジィとの婚約が命じられて。支度に気を取られて、ベルローズのことは半分くらい忘れていた。


 アルティノワ公に初めて会ったとき、その美しさに圧倒されて――ああ、そうだわ。


「……瞳の、色……」


 ジュストに顔を近づけて瞳を覗き込むと、彼はほのかに微笑んだ。


「髪は鬘で誤魔化せますが、瞳までは変えられませんから。……ベルローズは、私でしょう?」

「……ええ。本当に」


 同じ、色。同じ輝き。――同じ眼差し。


 黒髪のときは、異国風で、神秘的な雰囲気になる。金髪のときは、宗教画から抜け出た大天使そのものの圧倒的な美貌になるので、同じ人物だとはまったく気がつかなかった。

 ――――こんなにも瞳は同じだったのに。


「この姿の私を〈ベルローズ〉とすぐに見破った姫が、アルティノワ公をベルローズと見破れなかったのは不思議です」

「……ジュスト様は……大天使様ですから」

「は?」


「あまりにお綺麗でいらっしゃるので、近くでお顔を拝見することができないのです」

「……へ?」


「ベルローズ公爵夫人でいらっしゃるときは、なんと申しますか「お姉さま」のように慕わしく思えるのですが。……公爵閣下のお姿でいらっしゃるときは緊張してしまって」

「…………へ、へぇ?」


 目元をうっすら赤く染めたジュストは、黒髪の鬘をくるくると振り回して、ばさりと取り落とした。


 遠くのほうから「ジュストが照れているぞ」「お珍しい」というひそひそ話が聞こえてくるが、ロジィの説明のどこに、ジュストが照れる要素があったのかわからなかった。事実を述べただけだから。


「……同じ、方」

 そうか。――だから。

「お衣装の趣味がよろしかったのですね」


 ベルローズ公爵夫人もアルティノワ公も。色の組み合わせや宝飾品の選び方。そのすべてがロジィには好ましかった。

 それは、二人が同一人物だったから。……だとすると、青いローブ。


「あの青いローブはまさか」

 思わず呟くと、ジュストはすぐに察してくれた。


「ええ。ベルローズのローブです。内装も箪笥の中身もそのままに使っていましたから。……あのときは、まさかベルローズが私だと申し上げるわけにはいかず、少しだけ嘘を申し上げてしまいました」


「では、部屋の内装をお話しするときに、公爵夫人の閨房ブドワールが素敵でしたとお話ししてもよろしかったのですね」

「あの部屋がお好みでしたか?」

 取り落とした鬘を拾い上げながら、ジュストが意外だ、という表情で言う。


「とても落ち着くお部屋でした。……もちろん、珊瑚宮の閨房も心地いいですわ」

「私の趣味が姫のお好みに添うのでしたらよかった」

 互いにふんわりと笑顔を浮かべて見つめ合っていたら。


「理由をご説明なさらなくてよろしいのですか、薔薇の君」


 呼吸が整ったらしいロッシュ伯が、口元に手を添えて、まだ零れる笑いを堪えながら言った。


「ああ、そうだった」

 寝椅子の近くにある小卓に鬘を置いて、ジュストは冷ややかな一瞥を国王フィリップに突き刺してから、疲れ果てた声で口を開いた。


「二年ほど前でしょうか。宮廷で仮装舞踏会が催されました」





 メルヴェイユ宮廷では種々の舞踏会が開催されるが、どれも似たり寄ったりでは飽きられる。


 目先を変えるため、不定期に仮装舞踏会が開かれるのが約束事になっていた。

 仮面舞踏会であれば、仮面を着用するだけで事足りるが、仮装舞踏会となれば扮装しなければならない。


 ジュストは、それが非常に面倒だった。あまりに面倒だったので、常日頃「女性的な美しさ」と評される自身の容姿を利用することを思いついた。


 貴公子が女装すれば立派な仮装である――と。


 陛下が秘密の恋人に贈るローブを作ってくれ、と、言葉巧みに王宮の針子を騙してローブを仕立てさせ、ジュストは仮装舞踏会に参加した。

 誰も〈アルティノワ公〉の扮装した姿だとは見破れなかった。


 そこまではよかったのだが、王妃不在で宮廷公式愛妾すら持たない国王のことを案じていた一部の忠臣が、余計な気を回した。


 ――この美姫を陛下の寝室に送り込もう、と。


臣下が忠誠心から届けてきた〈美女〉を、いくらフィリップでも無下に扱うことはできない。

 宮廷の貴婦人たちの誰よりも美しく「仕上がっていた」こともあり、フィリップはまんざらでもない態度で「謎の美女」を寝室に案内してしまった。





「……あとから聞けば、フィルはその美女に宝石を与えて追い返すつもりだったらしいんです。俺が早とちりしなければバレなかったんですが……」


 寝室に連れ込まれたジュストは大いに焦り、自分から「アルティノワ公である」と白状した。

 慌てふためくジュストの態度はフィリップの爆笑を誘い、完璧な仕上がりに興味を持たれた挙げ句……。


国王寵姫ラ・ファヴォリットが誕生したというわけです」


 貴婦人方のサロンに出入りする腹心を持たなかったフィリップは、麗しい美姫を間諜として手駒にすることで、宮廷の情勢を把握しようとしたのだとジュストは言った。

 ですから、と。ロジィの瞳をしっかりと見つめて続ける。


「愛ではありません。政略です」

「政略……」


「フィルがベルローズを愛しているなどということは、まったく、欠片も、ありません。もちろん〈ベルローズ〉も国王を愛してなどおりませんよ」


 貴公子らしい涼やかな所作で寝椅子から立ち上がると、ジュストは、ロジィのローブの裾を捧げ持った。


「ジュスト様!?」

「私の愛は白薔薇に」


 ローブの裾に口づけられる。ルガールにおける、貴公子が姫に純愛を捧げるときの作法。

 未来永劫、ただ一人を愛することを誓うときにだけ行うため、婚礼の誓約より重要視されることもある。


「偉大なるルガール王の御前でお誓い申し上げたのです。私の心にはローゼリア姫しかおられないのだと、信じていただけますね」

「……わたくし、も……ジュスト様だけをお慕いして……――」


 そこから先は言葉にすることができなかった。

 ロジィを抱き締めたジュストの唇に、続きが吸い込まれてしまったから。



            ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★



 ――薔薇の秘密は漏れた。


 だが、ジュストが〈ベルローズ〉に戻ることがない以上、守らなくていい秘密だ。

 しかも、秘密を知ったのはジュストの妻。聡明で、ジュストを愛しているローゼリア姫が、あの秘密を口にすることはない。


 ふ、と口の端に笑みを浮かべたフィリップは、卓上の燭台を手元に引き寄せながら椅子に座った。


 手にしていた紙の束を卓上に広げ、一枚ずつ、改めて目を通していく。

 この〈秘密〉は薔薇の秘密とは違う。ルガール王が生涯、誰にも明かすことなく守らなければならない〈秘密〉だ。


 紙の束は、何通もの手紙を束ねたもの。宛名はトルージュ伯ルイ・セザール。差出人はマリー。

 この差出人の名は、どこにでもいる「マリー」ではない。ルガール王妃マリー・エレーヌのことである。



 ――我が息子ルイの名は、最愛の貴方から名付けました。



 ルガール王太后マリーが王妃時代に、宮廷貴族と密通していたという揺るぎない証拠の書簡。


 王弟ベリエ公ルイ・フランソワは、クロヴィス二世の実子ではなかった。


 これが、フィリップが守り抜かなければならない秘密だ。

 フィリップがこの書簡を手に入れてしまったのは偶然だったが、燃やさずに保管していたのは故意だった。


 昼間、執務室で。ローゼリア姫のローブの裾に、永遠の愛を誓うジュストの姿を見たとき。

 思い出す〈恋〉があった。


 フィリップはルガールの王太子で、自由な恋愛が望むべくもないことは理解していた。それでも心を奪われた姫はいた。ロッシュ伯の妹だった。


 王妃に据えることは叶わなくても、最愛の貴婦人として遇することはできる。

 彼女もそれを受け入れてくれた。日陰の身として生きることを了承してくれた矢先、彼女は命を奪われた。王太后の魔手で毒殺されたのだ。


 それは、義理の息子であるフィリップに対する警告だった。

 結婚し、子をもうけることは許さない。おまえの「次」は自分が産んだルイなのだ――と。


 そのときは、愛する女性を奪われた哀しみと、怒りしかなかった。

 ベリエ公のことは異母弟として大切に思っていたし、手段はどうあれ、我が子を王位に即けたいという母心は理解できたから。


 王太后への感情が憎しみに変わったのは、この手紙を手に入れた瞬間からだ。

 父王の血を引いていない――ルガール王家の血脈に連なることのない〈ルイ〉をルガール王に据えるため。


 そのために、フィリップの愛する人は呆気なく命を奪われたのだ。

 恋人を殺されたことに対する復讐と、王家の血を引かない人間に王冠を譲ってはならないという義務感。


 その二つの理由から、フィリップは、この手紙を活用することに決めた。

 王位継承権を持たない〈アルティノワ公〉に、ルガールを委ねることを考え始めたのもその頃だ。


 フィリップが婚姻することを王太后が警戒しているなら、それすらも利用した。

 フィリップの愛はあのときに奪われたのだから、生涯、王妃を迎えなくても構わなかった。妻帯しないことで王太后の油断が誘えるなら一石二鳥。


 ラルデニアの姫を王弟妃に画策されたときは焦ったが、ベリエ公の〈英断〉により、筆頭女子相続人は独身を保った。

 あの地域は南方諸侯が幅を利かせているので、時間を掛けて策を練ろうと思っていたら、思いがけず、姫がメルヴェイユに現れた。


 ――そして、ジュストの心を奪った。


 フィリップにしてみれば嬉しい誤算だった。アルティノワ公に王位継承権を与えることが無理だとしても、彼の子孫を王位継承者に指名することが目標だったからだ。


 王位継承権を持たないアルティノワ公であれば、筆頭相続人を妻に迎えても南方諸侯は油断する。他方、ラルデニアを持参金にする姫を妻にするならば、ルガールにおけるアルティノワ公の地位は格段に上昇する。彼らの〈子〉を未来のルガール王に定めても反対されない。


 問題は聖王庁だ。ジュストを〈不義の子〉と定めている聖王庁が、ジュストの子孫を〈王〉に認める可能性は限りなく低い。


 ――――手紙を使うときが来た。


 フィリップは、王太后と、何も知らされていなかったベリエ公を同時に呼び出し、告げた。

 秘密を知っている、と。


 そこからは早かった。秘密を守ることと引き替えに、王太后はフィリップの味方に回った。


 彼女は実家ウォルシュタイン家に連絡を取り、聖王庁へ根回しをしてくれた。ジュストを〈次期ルガール王の父〉だと承認させるために。

 フィリップの復讐は果たされた。野望も。


「……あとは、ジュストに子が産まれるのを待つだけだな」


 燭台の灯りに手紙の端を近づけた。火は瞬く間に手紙へと移り、ルガール王妃の不義の証を燃やし尽くす。


 ――これで、秘密は保たれる。



            ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★



 グロリア王ミゲル四世は体が弱く病がちなので、早く隠棲したいと常日頃から零していた。

 政務を処理する廷臣たちも無気力の王に手を焼いており、聖王庁の介入によって定まった〈王太子〉を熱烈に招聘した。

 一刻も早くグロリアに入国し、摂政王太子として政務に携わって欲しい――と。


「ベリエ公……ああ、もう、グロリア王太子殿下とお呼びしたほうがいいんだっけ」


 年が明けてから出国する予定だったのだが、本格的な冬を迎える前にという熱心な説得に、ベリエ公が応じたのだ。


 ノエルを数日後に控えた、少し肌寒い初冬の朝。

 ロジィとジュストは、ルガールを発つベリエ公の見送りのため、メルヴェイユ宮殿に来ていた。


「心にもないことを言わなくていい。ルイと呼べ」

 うんざりとした顔をするベリエ公に、ジュストは悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「未来のグロリア国王陛下を?」

「自分だって未来の国王の父だろうが」


 夫が、人をからかうことが好きなのだと、ロジィは最近になって知った。ジュストに言わせると、フィリップのほうが容赦ないらしいけれど。

 苦虫を噛み潰したような表情のベリエ公に、ロジィはそっと歩を進めて呼びかける。


「……王太子殿下」

「まだ立太子礼をしていない。ルイでいい。私の義姉だろう」


 グロリア王太子になることが定まっても、これまでの爵位を返上したわけでも、剥奪されたわけでもないので、ルガール国内においては〈ベリエ公〉である。


 しかし、国王の第一の弟を意味するベリエ公の称号を、当の本人がことさらに拒否するようになったので、周囲は彼をなんと呼べばいいのか困惑していた。

 名前で呼ぶことを執拗に要求するので、意に添っておくのがいいだろう――と、ロジィが口を開こうとしたら。


「……私以外の男の名をお呼びにならないでください」

 横合いから待ったが掛かった。


「息子の名はどうするんだ。おまえ以外の〈男〉だぞ」

「……どうしようか」

「馬鹿だろう、おまえ」


 ベリエ公が呆れたように微笑んだ。溜め息を落として笑顔を引っ込めてから「それで?」とロジィに視線を向けてくる。促されて、ロジィは膝を折った。


「セレスティーヌを、よろしくお願い申し上げます」


 彼女は当然だが、夫に従ってグロリアへ赴く。そして、二度と、ルガールにもラルデニアにも戻ることはない。

 異国の地で、習慣やしきたりが違う環境に身を置き、頼れるのは夫だけだ。


「妻のことは必ず守る。義姉上も安心してくれていい」

「はい」


 先日の遠乗りでの一件は、薬の影響だったという。レティが長年、ロジィに対して不満や憤りを抱いていたことは事実だろう。

 けれど、直接的な手段を取ろうとまでしたことは、薬によって不安定になっているからだと、ジュストが言った。


 ――私を捨てた母に慈しまれている〈弟妹〉に、私も嫉妬したことはありました。血を分けているからこそ憎らしく思うことはあります。おそらく王弟妃もそうでしょう。賢い姉姫を自慢に思う一方で、妬ましかったのだと思いますよ。


 そう言って、異父兄弟にあたるリーブール侯の子女に対する複雑な心情を吐露してくれた。


 一度も会ったことがないからやり過ごしているけれど、目の前にいたら、憎しみをぶつけていたかもしれない、と。


 だから、ロジィとレティは距離を取ったほうがよい。

 ジュストの助言に従って、ベリエ公はレティを見送りの場に連れてくることはせず、先に馬車へと送り込んだ。メラニエ男爵夫人も一緒だ。


「直接に見送りができませんから、手紙をしたためました」

「渡す」

 ベリエ公が、さっと洗練された所作で手を出してくれる。


「愛していると、あの子に伝えてください」

 手紙を渡しながらロジィは言った。どうしてもレティに伝えたかった。

 ――遠乗りの日から、ずっと。


「いつも一緒にいた、大切な半身です。……もちろん、わたしも、レティを羨ましいと、少し憎いと思うときはありました。……その、婚約が破綻したときは」


 ベリエ公が沈黙し、ジュストが、ロジィの肩を抱き締めてくれる。自分がいると伝えてくれる優しい手に、そっと手を添えてロジィは続けた。


「ですが、考えてみればレティが大胆な行動を取ったから、わたしはジュスト様と婚姻できました。レティのお陰です」

「義姉上はお人好しだな。普通は、憎んで恨んで絞め殺そうとしてもいいところだ」

「愛する相手を憎むことはできません」

「だからお人好しだと言うんだ。これから陰謀渦巻く宮廷でどうやって生き抜く。……心配だな」


「俺がいる」

 ジュストの言葉に、軽く目を瞠ったベリエ公は、そうだったなと苦笑した。

「最強の〈化け物〉が傍にいたか」


「ジュスト様は化け物ではありません。天使様です」

「私を相手に惚気るな」

「自分だって、よく惚気てたくせに」

「何か言ったか、ジュスト!」

「いいえ? 何も?」


 ふふんと口角を吊り上げるジュストに、ベリエ公が顔を引きつらせる。そういうところはフィリップにそっくりだ……と、ぶつぶつ呟いて。


「わたしは幸せです。レティのお陰で。あの子は、わたしを嫌いなのかもしれません。……ですが、わたしは何があっても変わらずに愛していると、そう伝えていただきたいのです」

「わかった。伝える」


 短い言葉で力強く首肯したベリエ公は、少しだけ自嘲するような笑顔で続けた。


「……私の愛よりも、義姉上の愛のほうがきっと深いと、言い添えておく」


 その一言は聞き捨てならなかった。なので、ロジィは瞳に力を込める。

「馬鹿なことを言わないで、ルイ」


「!?」

 ベリエ公と、ジュストと。双方が驚愕しているが、ロジィは無視した。


「わたしを義姉と認めてくださるので、姉として言います。大切なわたしの妹を託せる相手として、あなたを見込んでいるのです。わたしのほうが愛が深いですって? 謙遜なら受け入れますが、本心なら扇子で頬を殴りますよ」


「!」

 扇子で頬を殴る――貴婦人が最大限の怒りを表現する手段だ。


「わたしに負けないくらいの愛情をレティに捧げるという気概を持てないの?」

「……申し訳ありませんでした、義姉上」

「ご理解いただけて何よりですわ、殿下」


 もう怒っていませんと伝えるつもりで微笑んだら、ベリエ公は青ざめた顔でジュストに囁いた。


「こわい」

「怒らせるから」


 さらりと言ってのけて、ジュストは控えていた従僕を呼んだ。恭しく捧げ持っている長方形の箱をベリエ公の従僕へ贈らせる。


「精神を安定させる薬草を入れておいた。体に害はないから」

「感謝する」

「向こうで検分されても問題ない薬草だから心配しなくていいよ。没収されることはないから」

「グロリアでも入手できるだろうか」

「それはもちろん……ああ、薬草の名前をリストアップしておこうか」


 ちょっと待って、と、軽い口調で言い置いて、ジュストは壁際の机に駆け寄った。有能な従僕が紙とペンを用意している。

 手早く書き付けている夫の後ろ姿を見つめていたら、隣に立つベリエ公がぽつりと言った。


「……セレスティーヌが言っていた「姉にされた仕打ち」はすべて、セレスティーヌがあなたにしていたことだったんだな」

「妹の可愛い我が儘です」


 理不尽だと思うこともあったけれど、もう慣れてしまったから。父にも母にも言えない我が儘を自分にぶつけてくることを、微笑ましいとすら思っている。

 レティに憎まれていると知ったときは哀しかったが、愛憎は紙一重だと思えば受け入れられた。


「――はい、これ。横にグロリア語も書いておいたから」

 ポケットに収まってしまう小さな紙片に薬草の名がびっしりと書き連ねてあった。


「妻の容態を定期的に報告したほうがいいだろうか」

「宮廷医師がいるでしょ?」

「今は、おまえの薬草で状態を落ち着かせているが、いつまた薬に触れてしまうか……」

「グロリアでは毒薬の流通が制限されてるから入手は困難だよ」


 毒薬や媚薬はフィオーレで生産されている。そしてグロリアは、それらに関して厳しく監視の目を光らせ、輸入しないようにしていた。交易拠点となっているラルデニアからの荷物を警戒していれば、セレスティーヌが再び媚薬などを手にすることはないという。


「だが、毒薬の類に関して、おまえの右に出る人間はいないだろう。もう少しルガールに留まって容態を見て欲しかったんだが」

「平気だよ。毒薬に手を出さない限り、宮廷医師の診察で事足りる」


 ジュストは、ちらりとロジィに視線を向けてから、言いにくそうに口を開いた。


「お妃が薬に手を出したのは姉姫への劣等感からだ。重圧から遠ざかれば少しずつ快方に向かうよ」


 頷いたベリエ公は、ジュストとロジィに敬礼して部屋を出た。

 国王フィリップに出国の挨拶をして馬車に乗り込み、グロリアへの旅路につくのだ。


「……手紙を、ベリエ公にお預けしないほうがよかったでしょうか」


 ロジィがレティにとっての重圧だったのなら、せっかく落ち着いてきているのに手紙を送っては逆効果だったかもしれない。


「離れていても姉妹だと、そうお書きになったのでしょう?」

「ええ」


 おそらくは馬車の中で読むはずだ。その場にはメラニエ男爵夫人とベリエ公が同乗している。

 レティが不安定になってもそれほど大事にはならないだろうと、ジュストは言った。


「もし、今、その言葉を素直に受け入れることができなくても。グロリアで寂しくなったときに読み返せば安心するはずです。問題はありませんよ」


 ジュストに手を引かれ、メルヴェイユ宮殿の中を歩いて行く。

 かつての〈ベルローズ〉の閨房に寄る約束をしているのだ。色々と忙しくて手つかずなので、そのままで残っているのだという。


 言葉どおり、内装も調度もそのままで、衣装箪笥にはとりどりのローブがびっしりと収納されていた。


「……ご覧になったのは、このあたりの青いローブだと思います」


 目の覚めるような青いローブがあった。間違いない。このローブの色。

 こわごわとローブを持ち上げるロジィの横で、ジュストは次々に他のローブを引っ張り出している。


「これとか、……ああ、こちらも似合いそうですね」


 ベルローズのローブが箪笥で眠ったままなのは勿体ないので、ロジィに合わせて仕立て直すのだという。意匠を考えるのはもちろんジュストだ。

 あれこれと意匠を思い浮かべ、うきうきとしている夫には、申し訳ないのだけれど。


「……仕立てていただくローブを着るのは、少し先になるかもしれません」

「なぜです?」


 夫の手からローブを取り上げ、その手を、ロジィは自身の腹部に当てた。


「! まさか」


 遠駆けの翌日。怪我をしていないか過剰に心配したジュストが、珊瑚宮にトルヴァン医師を招いた。

 その時に、無茶をするのは控えるように忠告されたのだ。そして、昨日。


「トルヴァン先生が、可能性がある、と」

「いつ頃……?」

「来年の夏頃だそうです」


 壊れ物をかかえるように、そぉっと抱き締められる。


「私の子」

「はい」

「では、ゆったりとしたローブを仕立てましょう。ああ、産着も用意しないと」

「気が早いです」


 ふふっと笑うと、綻んだ唇に口づけされる。


「こちらでさっさと準備しないと、フィルが手を回しそうなので」

「喜んでいただけるのは嬉しいことです」

「私の子ですから」


 国王への対抗心を露わに言い切ると、ジュストは、まだ平らなロジィの腹部を優しく撫でた。


「無事に産まれておいで」





 アルティノワ大公を父に持つフィリップ二世は、ルガール史上、屈指の名君として名高い。

 長年、敵対関係にあったグロリアと和平条約を締結。

 両国は末永く大陸の平和に尽力したという――。


【了】

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薔薇のメヌエット 嘉村有夏 @Yoshimula_meguru

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