【 最終章  ③ 】

「いいお天気ね、お姉さま」


 しばらくぶりに会う妹は少し疲れた顔をしていたが、白馬の手綱を引く手つきは慣れたものだ。

 動きやすく仕立てられた乗馬用のローブに身を包み、早く馬を駆けさせたいと瞳を輝かせている。


 先日の茶会で、レティは変わらず妹だと答えたロジィに、ベリエ公はある頼み事をしてきた。

 療養しているセレスティーヌの気晴らしに付き合ってやって欲しい――と。


 いくら薬草から離れるために隔離が必要とはいえ、一室に閉じこもりきりというのは、それはそれで体によくない。

 その点に関してはジュストも同意見のようで、散策に連れ出すなり、話し相手になるなり、何かしらの気分転換をさせる必要はあると言った。


 そこで、ベリエ公を通してレティに尋ねたら「遠乗りに出たい」という返事が来たのだ。


 ルガールでは王族女性の乗馬を禁止している。だが、ベリエ公は現在、ルガールの王位継承権保持者ではなく、グロリアの次期国王候補となった。

 ルガールの宮廷規則から逸脱する行動を取ったとしても問題はないだろう――という判断が出されたのだ。国王フィリップによって。


 曲芸乗りができるレティほどではないが、ロジィも、貴婦人の嗜みとして馬には乗れる。

 秋は気候も穏やかなので、レティの体調を見ながら日程が組まれた。それが今日というわけだ。


 王族女性が乗馬する際にはふたりの従者をつけるという規定もあるが、人目が多くなるとレティを刺激してしまうかもしれないという心配から、従僕は少し離れて付き従うことになっていた。


 乗馬中にレティが体調を崩したら、ロジィの平均並みの乗馬術では介抱できない。そう伝えたら、ベリエ公が早駆けの上手な従者に追跡させると約束してくれたので、少し安心だ。


「さ。行きましょ」


 軽やかな動きで馬に跨がり、レティは颯爽と風を切る。ロジィも慌てて彼女を追った。

 うっすらと額に浮かんだ汗は吹き抜ける風がすぐに乾かしてくれる。一定のリズムを刻んで駆ける馬は頼もしく、このままどこまでも旅立てそうに力強い。


 馬に乗るのはずいぶんと久しぶりだが、宮殿の厩舎で大切に飼育されているというこの馬は気性も穏やかで、ロジィはすっかり乗馬を楽しんでいた。


 広大なメルヴェイユの庭園を半周ほどした頃だろうか。宮殿裏手にある〈春の泉〉名付けられている池に到着した。野生動物の憩いの場となっている池で、春には様々に花を咲かせることから、そう名付けられたという。泉という名称だが、泉ではなく池が正しい。


 汗ばんでいる馬を解放してやれば、池に鼻先を突っ込んで嬉しそうに水を飲み始める。


 カサ、と、背後で音がした。

 振り向けば、ロジィの真後ろにレティが立っていた。

 新緑色の瞳には翳りが浮かび、いつもの快活な表情からはかけ離れた、鬱々とした雰囲気。


「少し、休みましょう」

 声を掛けると、緩慢な動きで視線がこちらを向いた。

「ここで……? どうやって?」


 池の周囲の雑草は刈り取られていないので、ふかふかとしている。だから、ロジィは躊躇わずに腰を下ろした。雑草の上にローブの裾がふわりと広がる。


「……何してるのよ、お姉さま」

「柔らかいわよ」

「行儀が悪いんじゃないの」

「誰も見ていないのですもの。いいでしょう」


 本当は、護衛役の従者が離れたところから自分たちを見ている。けれども、それは監視が目的なのではなく、不慮の事故を防ぐためだ。ローブの裾をまくって水遊びを始めたりしない限り、不謹慎な行動にはならない。貴婦人が野遊びをするのは健全な気晴らしでもある。


「ラルデニアでは、よくこうやって遊んだわね」


 温暖な気候のラルデニアは冬が到来するまでが遅く、子どもたちは春から晩秋まで野外で自由に遊べる。遠駆けのあとは、原っぱに寝転んで休息するのが楽しみだった。夫ある身で寝転ぶのははしたないから、さすがにもうできないけれども。


「ウサギ、小鳥……たくさんいたわね」

 見上げる姿勢で、そっと顔を向けて話しかけると諦めたのか、レティも隣に腰を下ろした。

「ラルデニアに帰りたいなら帰ればいいじゃない」

「そういうわけではないわ。ただ、懐かしいと思うだけよ」


 ロジィがラルデニアの地を再び踏むことは、多分、生涯ないだろう。

 王族の妻になったこともそうだが、将来のルガール王の母となることも定められている。


 かつてのように、宮廷が丸ごと国土を移動していくなら話は別だが、メルヴェイユ宮殿が構えられ、政治の中枢は王都トゥルザと決まった。近隣の王室直轄領に赴くことはあっても、国境の領地にまで足を伸ばすことはないだろう。


 それを寂しいと言いたいのではない。ラルデニアに帰りたいわけでもない。

 メルヴェイユに来て、婚姻をして。自分の〈子ども時代〉は終わりを告げたのだと実感しているだけだ。


「アルティノワ公は、お姉さまに優しいらしいわね」


 公ではなく大公なのだが、レティは旧称を用いた。わざとなのかもしれないが、レティの場合、無頓着に使用している可能性もある。いちいち咎めるような事柄でもないので、ロジィは「お優しいわ」と応じた。


「それなのに、わたしの立場まで奪いたいの?」

「……なんの話?」


 薬の影響で話の内容が支離滅裂になっている――と、ベリエ公から聞いていた。

 だからおそらく、話がころころと変わるこの状況がそうなのだろうと思うけれど、それにしても理解できない。


「お姉さまは王弟妃になりたいんでしょう」


 そんなことを思ったことはないし、言葉にした覚えもない。

 だが、レティにはレティなりの「理由」があって、疑っているのだろうということはわかる。


 王弟妃になる。……それはつまり、ベリエ公の妻になる、ということ。

 昔から、自分のものを奪われることを極端に嫌がる子だった。おそらく、単純に王弟妃の地位を狙っていると疑っているのではなく、レティが手にしている〈もの〉を奪われるのではと怯えている。


「ベリエ公にはいかなる感情も抱いていないわ」

「ルイ様のことじゃないわよ。肖像画よ!」

 手に触れた雑草をむしり取って池に投げつけながらレティは言った。

「わたしの格好して肖像画に収まって。お姉さまは、わたしになりたいの?」


 ……ああ、そのこと。

 ベリエ公に横恋慕しているという誤解ではないことに安堵したが、複雑な事情を勘違いしていることに頭痛を覚える。


「違うわ。あれはベリエ公の依頼で……」

「ルイ様を盗るつもり!?」


 やはり、レティの思考はそこに行き着いてしまうらしい。


「盗らないわよ。あなたの大切なご夫君でしょう」

 ゆっくりと、静かな声で話しかけると、レティの興奮は少しだけ治まった。


 ロジィは医者ではないから、どのように接するのが正解なのかはわからない。ただ、ジュストから、なるべく優しく接することを心がけるだけでいい、と教えられていたから。


 警戒と疑念を浮かべている新緑の瞳を真っ直ぐに見つめ、ロジィは一言ひと言を丁寧に紡いだ。少しでもレティの心が安らぐように。

「ベリエ公は、あなたを大切にお思いだわ。宮廷画家に、あなたの美しい姿を見せたくないから、代わりにモデルをして欲しいと頼まれたのよ」

 それだけよ、と。もう一度、強く言葉を続けると、レティは雑草をむしる手を止めた。

「お姉さまはいいわね」

「……え?」

「お姉さまの子どもがルガール王になるんでしょう」

「そうね」

「なんで、お姉さまばっかりそうなの?」


 向けられた瞳は、先ほどよりも昏い。どろりと歪んだ眼差しはうつろで、健全とは言いがたい顔をしている。

 ……わたしばかり「そう」って、どういう意味?


「ラルデニアを継げるのはお姉さま。ルガールの王弟と結婚したのはわたしなのに、次の王様はお姉さまの子ども。笑っちゃうわ。おいしいところは全部、お姉さまが持っていくのよね」

「……わたしは、何も……、――っ」


 言い終えるより早く、レティに肩をドンと突き飛ばされて体勢を崩し、地面に手を着く。

「してないのに恵まれてるから腹が立つのよ!」


 同じ家庭教師に学んでいるのに、ロジィのほうが飲み込みが早かった。

 詩作も巧みで褒められるのはいつもロジィ。遠駆けが苦手なくせに馬が懐くのはロジィのほう。


 挙げ句、ルガールから縁談を申し込まれたのは「ラルデニアの天使」と名高い自分ではなく、ロジィだった――。

 怒濤のごとくレティが語るのは、幼少期から積み重ねられたロジィへの不満だった。


「嫌いなことって普通はやらないわ。嫌だったら馬に近づかないでしょう? それなのに、いい子ちゃんのお姉さまは、自分の馬だけじゃなくて馬小屋の馬全部に話しかけたりして。そういうことするから、わたしより馬に好かれるのよ」


「……乗馬が得意ではないだけで馬は嫌いではないわよ?」

「同じ双子なのにどうしてお姉さまがラルデニアを継ぐのよ」


 また、話が変わった。馬の話から相続権に話題が転じている。

 もしかすると、これがレティの心を不安定にしている原因なのかもしれない。ロジィは慎重に問いかけた。


「……ラルデニアの相続権が欲しいの?」


 ロジィが筆頭女子相続人と定まったのは、産まれてすぐの話ではない。父が周辺に根回しをして、南方諸侯の同意を取り付けてから正式に決まった。あれは確か、十三の頃だったはず。


 その頃には、ロジィも自身が置かれている状況を理解していたから、レティも同じだろう。

 将来、どちらがラルデニアの領主となるか、はっきり見えていた。


 だから、ラルデニアを相続したいという意思を持っていたなら、そのときに、父に言えばよかったのだ。


 貴族の家督は長男が相続するのが大陸の慣習。それに倣って〈長女〉として届け出をしたロジィが選ばれただけのこと。双子なのだから、どちらが相続人になっても同じだった。


 ロジィが、自分から進んで相続権を欲したわけではない。もし、そこを誤解しているなら説明しなければと思ったら、違うと切り返される。


「領主になるなんて面倒だもの。別になりたいわけじゃないわ。相続権も欲しくない」


 では、いったい何が気に入らないのか。

 困惑するロジィに、レティは言った。まるで正論を語っているというような自信に満ち溢れた声で。


「お姉さまが持ってることが苛々するの」

「…………」

「お姉さまのものはわたしのものよ。双子なんだから。お母さまも言ってたじゃない。一緒に使いなさい、一緒にやりなさいって。なのに、どうして「お姉さまだけ」のものがあるの?」


 そんなことを言われても。

 同じ日、同じ時刻に生まれ落ちたというだけで、双子とはいえ別個の人格だ。


 レティが満腹になってもロジィの空腹が満たされることがないように、すべてが同じで一緒ということにはならない。


「結婚の話も、わたしたち二人に持ち込まれるならよかったの」


 でも、最初から「ラルデニア相続人」と指名されていたことが赦せなかった、と、レティは言った。


「普通は先に肖像画を送ってくるでしょ。それを見て、わたしが気に入らなかったらお姉さまが結婚すればいいのに。お姉さまを指名するなんて、わたしを馬鹿にしてるわ」

「ルガールはラルデニアの土地が欲しかったのよ。わたしではないわ」

「わかってるわ。どんな男もわたしに会えばすっかり虜になるもの。お姉さまの価値は相続権だけ」


 濁った光を瞳に浮かべたまま、レティは妖艶に微笑んだ。


「だから証明したの。お姉さまより先にルイ様に会って、夢中にさせて、わたしを欲しいって言わせたのよ」

「……真夏の夢を使って?」


 レティは、驚いたように目を瞠ったが、悪びれる様子を見せずに頷いた。


「お姉さまと違って、わたしは努力を怠らないのよ。わたしの魅力を増す薬があるなら、いくらでも使うわ」

 なのに、と。レティは挑むような視線で突き刺してくる。


「ルイ様の次はアルティノワ公ですって? わたしがどんなに努力しても手に入らない〈ラルデニア〉を持ってるお姉さまは、本当、ずるいと思うわ」


 ……ずるい。

 そう、なのかもしれない。ラルデニア伯の娘として産まれ、たまたま長女だったから相続権を得た。


 相続権を得ているから王族の妻として求められ、結果、アルティノワ大公ジュスト・ユジェーヌに愛してもらえた。

 セレスティーヌと、ローゼリアと。産まれる順が逆であったら、入れ替わっていた人生だ。


「わたし、ずっと、お姉さまになりたいのよ」


 ロジィの肩を痛いほどの力で掴んで、レティが押し倒してくる。のし掛かる彼女の顔で太陽が翳った。


「お姉さまはこれからアルティノワ公の奥さんになって、幸せに暮らすんでしょう? それで、産まれた子供は王冠を被るんだわ。ずるい。わたしがお姉さまになれば、その幸せはわたしのものでしょう?」


 冷たい指が首に添えられた。どろりと濁ったレティの瞳が、ロジィの抵抗の意思を封じる。


「お姉さまからルイ様を盗ったのに、まだ足りないなんて思わなかったわ。なんなの、あのアルティノワ公は。どうして、媚薬を使ってないお姉さまにあんなに夢中なの? どうして、わたしのことを好きにならないの?」


 ――どうして〈真夏の夢〉が効かなかったの。


 茶会に招き、二人きりで散策をして。そのときも〈真夏の夢〉を使っていたのに、アルティノワ公の態度が変わることはなかったと、レティは地を這うような声で言った。


「あの薬は誰にでも効くのよ。真面目な聖職者だっていちころだわ。それなのに、まるであの人、お姉さましか見えてないみたいだった。わたしのことをずっと冷たい目で見てたのよ。信じられない」


 ……それはきっと、相手が〈ジュスト様〉だったからだわ。


 ロジィを見ているようでいて、どこか遠くを見ているような、頼りないレティの双眸を見つめ返しながら思う。

 毒薬に慣れていると、あの人は言っていた。だから、媚薬の効能にも屈しなかったのだろう。


 けれど、それを知らないレティは「媚薬を跳ね返すほどアルティノワ公はロジィを愛しているのだ」と誤解している。


「お姉さまのどこがいいの。同じ顔なのに、薬まで使ってるのに、どうしてアルティノワ公はわたしを好きにならないの。世の中の男はみんな、わたしに夢中にならなきゃいけないのよ。お姉さまはラルデニアの相続権を持ってるんだから、それ以外は全部、ぜぇんぶ、わたしのものじゃなきゃ許さないわ」


 ぐ、と。レティの冷たい指先に力が掛かる。ロジィの喉に指が食い込む。


「……グロリアの王冠はあなたのものよ、レティ」

「――……え」


 ロジィは腕を持ち上げて、レティの頬を優しく撫でた。


「地上の王になれるのは神に選ばれた特別な御方だけ。ベリエ公は、その一人に選ばれたのだわ」

「ルイ様が……?」

 ぼんやりとしたレティの瞳は幼子のようで痛々しい。


「わたしの子は、確かにルガールの王冠を戴くかもしれない。でも、わたしがルガールの王妃になることは絶対にないのよ」


 アルティノワ大公の王位継承権は与えられないままだからだ。

 彼は〈王位継承者の父〉であって〈王位継承者〉ではない。ジュストが戴冠できないのだから、その妃であるロジィの頭上に王妃の冠は輝かない。聖別を受けることはない。


「王国を統治して王冠を戴く祝福を得るのは、わたしではなくて、あなただわ。レティ」

「……そんなのは当然でしょ。わたしはお姉さまとは違うの。だから、わたしはお姉さまになりたくて……」

「レティ、よく考えて。もし「わたし」になってしまったら、グロリアの王妃になることはできないのよ?」


「グロリアの王妃になるのはわたしの〈権利〉よ」


 ぴしゃりと言い返されてロジィは口を噤む。黙り込んだロジィを見て満足そうな微笑を浮かべたレティは、頬を撫でていたロジィの手を叩き落とした。


「お姉さまになりたいんじゃないの。お姉さまが……そう、いなくなればいいの」

「な……」


「お姉さまがいるから、アルティノワ公はわたしを見ないのよ。お姉さまがいるからラルデニアはわたしのものにならなかったんだわ。だから、お姉さまがいなくなれば、世の中の全部、わたしのものよ」


 怒鳴るわけではない。叫ぶわけでもない。淡々と語っているからこそ、常軌を逸している様子がありありと伝わってくる。


「……お姉さまがいなくなれば、ラルデニアはわたしのものだわ。ルガールがラルデニアを手放したくないなら、わたしの子を次のルガール王に決めるでしょう?」


「ならないわよ」

 ロジィは地面に身を横たえたままなので、背中に振動が伝わってくるのを感じた。馬の蹄だ。


 護衛役が様子を窺って近づいてきている。彼らは凄腕だとベリエ公が保証してくれた。レティが暴れそうになったら飛んできてくれるはず。

 だから、ロジィは怖がらずに踏み込んだ。


「わたしはアルティノワ大公と婚礼を挙げたわ。わたしに万一のことがあった場合、権利は大公に委譲されるのよ」

「な……に、言ってるの? お姉さまがいなくなれば、次はわたしでしょ!?」


「女子の相続権は婚姻と同時に〈夫と共有〉するのよ。男児が誕生して無事に成人すれば、母は所領と統治権を息子に譲るの。……だけど、子が幼かったり産まれていなかった場合は、夫に移るのよ」


 ロジィが独身で命を落としたなら、相続権はレティに移行したかもしれない。現領主ロベール四世には子が二人しかいないのだから。

 けれど、ロジィは結婚した。その瞬間からアルティノワ大公はラルデニア伯領の共同相続人と見なされ、ゆくゆくは共同統治者となることが承認されたのだ。


「今、わたしが死んだら。ラルデニアはアルティノワ大公のものになるだけよ」


 それは南方諸侯も承諾している事項だった。……もし、ルガールが卑怯な手段を選ぶなら。

 アルティノワ大公と婚礼したその日のうちに、ロジィは暗殺されていただろう。過去には、ロジィと似たような立場の姫君が急死する例は多かったから。


「お姉さま、わたしを騙そうと……」

「あなたを騙してどうするの。わたしが死んだらラルデニアがアルティノワ大公のものになるのは真実だわ」


 婚姻直後の急死は「よくある話」で、怪しまれないように少しずつ毒を盛り、一年以内に病死させてしまうこともある。

 ジュストが幼少の頃から毒を盛られていたというのは、まさに、それに関連する話だった。体が毒に慣れたという話には驚いたけれども。


「嘘よ!」


 悲鳴のような声だった。ロジィの首から離した手で頭を掻きむしり、レティは血走った瞳を向けてくる。


「嘘よ嘘よ。お姉さまさえいなくなれば全部わたしのものになるの。そうじゃなきゃ嫌よ」


 グロリアの王妃になることと、ルガール王の母になること。その両方を得たいとレティは叫ぶ。

 それは、無理だ。婚姻相手は一人だけ。離別、あるいは死別によって、二人目、三人目を得ることはあるかもしれない。


 だが、同時に二人と婚姻関係を結ぶことは不可能。ルガール王の母になりたいのなら、ベリエ公との婚姻を解消して、アルティノワ大公妃になる必要がある。その場合は、グロリア王妃の地位を諦めるということだ。


「全部は無理だわ。すべてを得ることはできないのよ」


 グロリアとルガール。どちらかが相手の属国にでもならない限り、二つの王冠を頭上に戴くことはない。

 そうした意味を込めて言ったつもりだったが、レティには、自身を否定されたと聞こえてしまったようだった。


「王冠は無理でもアルティノワ公は違うでしょ」

「……え?」

「お姉さまがいなくなればアルティノワ公も気が変わるわ!」


 わたしに夢中になるはずよ――と。叫んだレティが手を振り上げた。殴るつもりだろうか。

 咄嗟に頭を庇おうと両腕を持ち上げて、ロジィは瞬いた。振り上げたレティの手が、銀色に光っている。


(手、じゃないわ……ナイフ!?)


 いつの間に取り出したのか。どこに隠し持っていたのか。

 レティは短剣をしっかりと握り締めている。陽光を軽やかにキラリと反射する刀身は綺麗だが、この状況で目にすると震えが走るほど恐ろしい。


 仰向けに押し倒されているロジィに、覆い被さるようにレティが乗っているから、身を起こすことができない。……逃げられない。

 近くにいるはずの護衛役が駆け寄ってくるのが先か、レティの握る短剣がロジィに突き刺さるのが先か。


(――――ッ)


 覚悟を決めて、きゅっと両眼を強く瞑ったら。

 乾いた銃声がした。


 たった一発。それと同時に、レティの小さな悲鳴が聞こえて、のし掛かっていた重みが消えた。


「!? レティ!」


 慌てて起き上がったが、レティには掠り傷一つ、ついていない。

 彼女の両手は何も持っていなくて、ナイフはどうしたのかと周囲を見回すと、かなり離れたところに転がっているのが見えた。


 レティはすばしこい。あのナイフを放っておいたら、また握られてしまう。

 ロジィは自分にできる精一杯の動きで急いで立ち上がり、ナイフのほうへと走ろうとして、レティの大声に足を止めた。


「何するのよ!」


 レティが叫んで睨み付けた先。漆黒の馬に跨がった護衛役がいる。馬上から腕を真っ直ぐ伸ばして、こちらに向けて構えているのは――短銃。


 一発だけ聞こえた銃声の正体は、あの短銃が発したものだ。レティが振り上げたナイフだけを正確に弾き飛ばしたのか。

 なるほど、ベリエ公が言うように凄腕の護衛役だ。


「邪魔しないで!!」


 猛犬のような気迫で叫んだレティが、休ませていた自分の馬に向かって駆け出す。その隙に護衛役がロジィの傍らへと馬を走り込ませた。


「――ッ」


 護衛役が腕を伸ばして、ロジィの体を軽々と引き上げる。ロジィは一瞬で馬上の人になっていた。


「お怪我は」

「ええ、大丈……――!?」


 そこから先は言葉にならなかった。ロジィを抱えて馬を乗りこなしている、短銃の扱いも見事な〈護衛役〉は――。


(ベルローズ!?)


 海のように深い蒼の瞳。品のよい鼻筋。鋭利な顎。そして異国的な黒髪。

 麗しの貴婦人だ。艶やかなローブではなく、衛兵のお仕着せに身を包んでいるけれど。


 ベリエ公は凄腕の護衛役と言っていたのに。どうして、宮廷を去ったはずのベルローズがいるのかしら。


「私に掴まって」


 短く告げると、ベルローズはロジィを抱えたまま器用に馬を操った。どうやらレティは愛馬に剣をくくりつけていたようで、それを抜いて攻撃してきたようだった。


 ――ようだった、というのは、ベルローズが巧みに馬を操作してレティの攻撃を躱したからだ。

 まるで馬に乗ったままダンスをしているかのように、ベルローズはレティを翻弄する。彼女の剣がロジィや、ロジィを乗せている馬に届くことは一度もなかった。


「もうすぐベリエ公が来ます。それまで我慢してください」


 ロジィをしっかりと抱き締めると、ベルローズは池の周縁を馬で駆けた。……が、レティはしつこかった。

 こちらが馬で逃走を図っていると理解するやいなや、自分も馬に乗って追いかけてきたのだ。


 チッ、と。ベルローズが舌打ちをした。貴婦人にあるまじき粗野な態度。今は衛兵姿なので貴婦人ではないが、宮廷一の美姫だった頃を知っているので、少し驚いてしまう。


「ったく、何やってんだよ、ベリエ公」

「!?」


 麗しの薔薇とは思えない乱暴な言葉遣いに目を丸くすると、ベルローズは、ふわりと笑みを浮かべた。


「大丈夫。姫のことはお守りしますから」

「で、でも、レティは乗馬が上手いので、きっとすぐに……」

 追いつかれる、と、伝えるよりも早く。

「黙って。舌を噛みますよ」


 ベルローズは馬を速めた。振動が激しくなり、景色がめまぐるしく変化していく。ちょうど、そのタイミングでレティを呼ぶベリエ公の声が聞こえた。――ものすごく遠くから。


「……やっとか。だから乗馬の訓練をしとけって言ったのに」


 涼しい声で呟きながら、ベルローズは手綱を引いて馬の速度を遅くする。ロジィを抱き締めたまま背後を振り返ったベルローズは、「なんとかなったかな」と軽い口調で言った。


「あ、の……」

「本当にお怪我はありませんか」


 くるっと顔を戻したベルローズに、いやに真剣な表情で問いかけられ、ロジィは慌てて頷いた。

 ほっとした表情で息を吐くと、ベルローズは馬の腹を軽く蹴る。


「だから嫌だったんです。王弟妃の精神はまだ不安定なのに姫と二人きりにするなんて。まったくベリエ公は妻に甘い」


 ぶつぶつと文句を言いながら、ベルローズは馬を歩ませた。宮殿裏手の〈春の泉〉からずいぶんと離れたところに来ているようだが、ここはメルヴェイユのどこなのだろう。


 きょろきょろと馬上から周囲を見回せば、メルヴェイユ宮殿の正面に戻ってきているのがわかった。国王執務室の窓が見えて、ロジィは、ベルローズの腕を掴んだ。


「陛下が淋しがっておられました」

「……は?」


 唖然。


 その表現がぴったりな顔で、ベルローズはロジィを見た。

 何を言い出すんだろう、この人――という、ベルローズの視線を受け止めて、ロジィは言葉を続ける。


「寵姫としてお仕えすることが叶わなくても、寵臣として陛下をお支えすることは可能なはずです。どうして宮殿に戻っていらっしゃらないのですか」

「私はずっとメルヴェイユにいますが?」

「嘘を仰らないで。お姿を見るのは今が初めてです」


 ベルローズは、口を閉ざした。「……薬を盛られたのか?」と、小声で呟いてから。


「私が誰だかわかりますか?」

「もちろんです。ベルローズ公爵夫人でしょう?」


「へ……?」


 間の抜けたベルローズの表情は初めて見るもので新鮮だった。

 だが、今は珍しい反応に感動している場合ではない。彼が貴公子の姿で宮廷に戻って来たら、説得しなければとずっと思っていたのだから。


「ご結婚なさったことは陛下より聞き及んでおります。国王寵姫ラ・ファヴォリットのお勤めが叶わなくなったとしても、これだけの腕前をお持ちなのです。陛下の身辺をお守り申し上げるなり――」

「いえ、あの、姫!? ベ、ベルローズは、貴婦人ですよ!? 私のどこを見てそのような――」


 ……ああ、そうだったわ。

 ベルローズ本人は、ロジィが〈秘密〉を知っていると、知らない。


 男装しているのに〈ベルローズ〉だと断言されたら困ってしまうだろうし、認めるわけにもいかないだろう。ロジィは、信頼してもらえるように真面目な表情で頷いた。


「大丈夫です、ベルローズ公爵夫人」

「何が!?」

「わたくし、ベルローズが殿方だと、存じ上げておりますから」

「!?」


 零れ落ちんばかりに見開かれた蒼の瞳。言葉もなく、わなわなと震えるだけの唇。

 漏れてはならない〈秘密〉に言及されて、どれほど衝撃を受けていることか。彼の心情が手に取るようにわかるロジィは、自分は味方だと理解してもらいたくて必死に言葉を紡いだ。


「わたくしが体調を崩して介抱してくださったことがありましたでしょう? そのときにはもう、お美しいベルローズ公爵夫人が殿方でいらっしゃることは存じておりましたわ」


「――ッ」


「陛下は素晴らしい方でいらっしゃいますね。ベルローズ公爵夫人が殿方でいらしても、あれほどまでに熱烈に愛を捧げておいででした。この地上に、なんと尊い愛情が存在するのかと、わたくし感動しておりましたの」


「……いえ、あの……」

「ベルローズ公爵夫人が宮廷を去られてから、陛下がどれほど淋しがっておられたか。リジオン教でも「神と愛の前では、すべてが平等」と教えております。どうか、陛下のためにも戻っていらして……」


「ちょっと落ち着いてください、姫!」


 がしっと両肩を掴まれる。黒髪蒼瞳の麗人は間違いなく〈ベルローズ〉だが、手に込められている力の強さは男性のもの。……やはり〈彼〉なのだと、ロジィは深いところで納得した。


「宮廷一の貴婦人だったのですよ、ベルローズは。男性などとそのような……」


 美しい顔に、ひきつった微笑みを浮かべて、ベルローズはロジィを説得しようとする。

 だが、ロジィはそれを端的な言葉で跳ね返した。


「わたくし、見ましたから」

「何を……!?」

 震える声で尋ねられて、ロジィはほんのりと頬を染める。

「ローブの前身頃が開いておられて……」


 そう小さく答えると、ベルローズは一瞬だけ沈黙してから「胸が平らだったからか」と、ぼそりと言った。


「……ええ、その、失礼なことを……」

「なるほど。……姫はベルローズの秘密をお知りになったのに、ずっと黙っておられたのですか」


 ――ベルローズの秘密。

 ついに、当人が、女装していたと認めた。


「当然でしょう。国を揺るがす大事です。……それに、きっと特別な事情がおありだと思ったのです」

「特別な」

 ロジィは、深く頷いた。


「陛下は、すべてをなげうってベルローズ公爵夫人を愛しておいでだったのですわ」

「――――」


 ベルローズの顔が、ものすごく不味いものを食べたときのように、歪んだ。


「偉大なる愛の前で性別を問うなど愚かなことです。わたくしは、陛下のお姿を拝見して、それを学びました。ですから、ベルローズ公爵夫人も――……」

「ローブ姿ではないのに、今の私が〈ベルローズ〉だとわかった理由は?」


 ロジィの言葉を遮るようにベルローズが言った。どうしてそんなことを尋ねられるのかわからなくて、きょとんと瞬いたが、素直に答える。


「ベルローズ公爵夫人は、蒼い瞳と黒髪が印象的な貴婦人でいらっしゃいましたから」

「黒髪……」


 ベルローズは、苦い表情で自身の黒髪を指に絡めた。そんな乱暴に扱ったら髪が傷んでしまうだろうに。


「ベルローズ公爵夫人が宮廷を去られてからずっと、お待ちしていたのです」

「待っていた?」

「寵姫としてお戻りになることはないでしょうから、きっと、黒髪の貴公子姿で戻っていらっしゃるのだと思って。今のお姿のように」


 黒髪の貴公子――と、ベルローズはぽつりと呟いた。そして、はっとしたように、その蒼の瞳を瞬かせる。


「その、黒髪の貴公子のことを、姫はどのように思っていらしたのですか?」

「どのように?」

「ベルローズについてでも結構です。たとえばローブや、小物や。そうした服飾について、何か印象をお持ちでしたか」


 ベルローズの服飾について語れることは唯ひとつだ。

「趣味のよい方だと」

 答えた途端、ベルローズの表情がわかりやすく華やいだ。


「姫はベルローズに憧れていらした?」

「え、ええ……」

「好ましくお思いで?」

「そう、ですね……」

「その黒髪の貴公子に会いたいと?」


 次々に質問を重ねられ、その問いかけが、まるでロジィがベルローズに恋をしているように聞こえる内容で、言葉に詰まる。――なぜなら。


「陛下のためですもの!」


 ロジィが〈黒髪の貴公子〉に会いたいと思っていた。

 そう伝えてしまったら、国王陛下と愛を競うことになってしまう。そんな畏れ多いことをしたいわけではないのだ。


 ベルローズが去ったあとのフィリップが、とても寂しそうだったから。

 あれほどの深い愛に立ち去られてしまったら、きっと立ち直れないだろうと心配して……。


「よく、わかりました」


 ベルローズは低い声で呟いた。どこか怒っているようにも聞こえる声。

 ロジィの答えが彼の機嫌を損ねてしまったのだろうか。だとしたら謝罪しなければと視線を上げると、彼はメルヴェイユ宮殿を険しい眼差しで睨み付けていた。


「姫が仰る〈特別な事情〉を陛下から、直接、きちんと、すべて、説明していただきましょう!」




 


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