【 最終章  ② 】

 国王フィリップによって衝撃の「世継ぎ宣言」が為されてから一週間。

 それは同時に、ロジィとジュストの結婚生活が一週間を迎えたということでもあった。


 新居の場は珊瑚宮パレ・コライユだ。挙式当夜こそメルヴェイユ宮殿に泊まったが、翌日からは珊瑚宮で起居していた。

 だが、閨房と食堂、応接間を往復するだけで、珊瑚宮の全体を把握するには至っていない。


 例の宣言のせいで珊瑚宮に、ジュストの大公叙爵と結婚を祝すという名目で貴族たちが殺到したからだ。

 宮廷内における利権争いを把握するという理由もあり、おいそれと追い返すことができない。


 ロジィは新米の大公妃として、彼らをもてなさなければならなかった。

 人前に出ることがあまり得意ではないロジィにとって、珊瑚宮の女主人として振る舞うことは重圧だ。


 ラルデニアにいた頃は、愛らしいレティが人々の注目を集めていたから、ロジィは慎ましく控えているだけでよかった。


 今は、貴族たちのお追従を受け流し、媚を売る相手に愛想笑いで応じて、王族らしく鷹揚と構えていなければならない。笑顔を取り繕うことに疲れて扇子を使えば「表情を隠して感じが悪い」と言われるのだ。

 四方八方から向けられる、悪意の籠もった視線にも笑顔でいるのは苦痛だけれど。


(あと半月くらいはこの調子ね)


 ルガールの世継ぎ問題は大陸でも重要な問題だった。それが急転直下で定まったのだ。

 渦中の人であるアルティノワ大公と、その妃が、耳目を集めてしまうのは仕方がないこと。

 ロジィは、そう思って諦めていたのだが、夫が殺到する貴族たちに白旗を掲げた。


 ――妻とゆっくり過ごしたい。


 メルヴェイユ宮殿に単身で乗り込み、国王へ謁見を取り付けるやいなや、そう言い放ったという。そして、さらにこう続けた。


 婚礼を祝してくれるのは嬉しいが、貴族が連日連夜、珊瑚宮に伺候するのは迷惑している。メルヴェイユで催しなどして、当面の間は珊瑚宮に人々が寄りつかないようにして欲しい。なぜなら。

 ――私たちは新婚なのです、陛下。我らの嫡子が未来のルガール王となられるのでしたらなおのこと、世継ぎ誕生にご助力いただいてもよいのではないでしょうか。


 国王フィリップから正式に「珊瑚宮を騒がせぬように」という王命を引き出したジュストは、晴れがましい表情で戻ってきた。

 そして、現在。


「こちらをお見せしたかったのです」

 ロジィはジュストに手を引かれ、珊瑚宮を探索していた。案内されたのは――図書室。


 こぢんまりとした部屋ではあるが、棚の隅々までびっしりと蔵書が収められ、天窓からは柔らかな陽射しが降り注ぐ。窓辺には座り心地の良さそうな寝椅子が置かれていて、のんびりと読書が楽しめそう。


「本がお好きでしょう?」

「……はい。――はい!」


 読んだことのある題名、まだ手に取ったことのない題名。目に飛び込んでくるすべてが感動だった。背表紙の触り心地にうっとりしてしまう。


 ラルデニアの城館にも図書室はあったが、あれは領主としての威厳を保つための小道具に過ぎなかった。一見すると隙間なく蔵書があるように思えるが、その実、本が「あるように見せかけた」背表紙だけの書棚も、いくつかあった。騙し絵の技巧で背表紙を描いた板を嵌め込んであるのだ。けれど、この図書室はすべてが本物だった。


「全部読むのに何年かかるかしら……」

「では、姫が飽きることのないように、少しずつ蔵書を増やしましょう」


 後ろからするりと腰に腕が回され、こめかみにジュストの唇が触れるのを感じる。

 婚礼を挙げてから、ジュストは、躊躇わずにロジィに触れるようになった。まるで、レティを溺愛していたベリエ公のような振る舞い。


「百科全書や法律学なども集めなければいけませんね。……ああ、財政学も」


 耳元で囁かれて、ロジィは首を傾げた。貴婦人の教養には必要のない学問だが、なぜ?

 ロジィの頬に口づけを落とし、ジュストが笑みを零しながら言った。


「私たちの子は、ルガールを統治するのです。きちんと教育しなければ」

「……!」


 結婚披露の舞踏会でフィリップが言った「根回しの半分」とは、ジュストを大公に叙すこと。残りの半分とは、ベリエ公をグロリア王として送り込むことだった。


 ルガール王クロヴィス二世と、ダンベルク皇女マリア・エレンとの間に産まれたベリエ公が、どうしてグロリア王に即く資格を有しているのか。


 理由は単純だった。ベリエ公の祖父リシャール二世の母は、グロリア王女ファナ。ルガールではフランソワ二世妃ジャンヌの名で知られる女性だ。

 グロリア王国は女王が認められているため、リシャール二世には母を通じてグロリアの王位継承権があった。


 継承権は代々の嫡子に引き継がれるので、現王であるフィリップ一世にも、その異母弟ベリエ公ルイ・フランソワにも、当然ながらグロリアの王位継承権がある。

 グロリア王の子として認められなかったアルティノワ大公ジュスト・ユジェーヌよりも、はるかに正統な継承者だ。


「フィルが名付け親になりたがるでしょうね」

「陛下の御代を引き継ぐのです。名を賜ることは光栄でしょう」

「私と、姫の子どもなのに」


 ロジィの肩に顎を乗せ、ジュストはふて腐れた声で呟いた。

 圧倒的な美貌を持つ貴公子なのに、こうして甘えてくる仕草は幼くて、思わず笑みがこぼれる。……愛しいと、思う。


「……では、長男だけを陛下に名付けていただきましょう」

「長男だけ?」


 する、と、頬をすり合わせながら、ジュストが首を伸ばして顔を覗き込んできた。それにロジィは「ええ」と頷く。


「長男はルガールの王になります。ですから、陛下から名を賜るのは、その子だけに」

「……他の子は?」


 啄むように唇を重ねられた。図書室で口づけするのは、あまり褒められた振る舞いではない。

 ロジィは、そっと彼の唇に手を添えて、口づけを中断してもらった。


「ジュスト様が望まれる名を」

「たくさんあるのですが」


 悪戯っぽく輝く蒼の瞳に見つめられて、ロジィは、ほんのりと頬を染めた。

 名付けたい名前がたくさんある。――それはつまり、多くの子宝に恵まれたいという意味。


「……努力します」


 ベリエ公が、そして、ベリエ公の母であるマリー王太后が、ルガールの王位を「諦めた」理由は明らかにされていない。


 だが、彼らは国王フィリップとの話し合いによって納得し、以後、全面的に協力するという誓約をしたのだという。そしてそれを、言葉だけでなく行動によって実践した。


 あれだけ頑なにメルヴェイユを出ようとしなかったマリー王太后が、ロジィたちの婚礼と同時に宮殿を退去したのだ。先王の妃は宮殿を立ち去るという慣例に従って。目に見える変化だった。


 当初、王太后宮に決められていた珊瑚宮がアルティノワ大公邸になってしまったため、別の離宮が王太后宮になった。この宮殿に比べると優美さに欠ける宮殿だが、王太后は文句を言わなかったという。


 そして、昨日。王太后宮から珊瑚宮に〈婚礼の祝い〉が届いた。

 華やかな装飾が施され、かつ、安全面を考慮して頑丈に作られた――ゆりかご、だった。

 世継ぎの誕生を心待ちにしている、という、王太后の心からのメッセージ。


「一人目は娘でもよいですね。きっと、私の白薔薇に似て美しい貴婦人に育つでしょう」

「……ジュスト様に似たほうが美しい姫に育つと思います」

「おや。ローゼリアは私を美しいと?」


 海色の瞳が楽しげに細められる。彼の輝くばかりの金髪は、曾祖母譲りなのだという。

 現王フィリップの祖母に当たるその女性は、リシャール二世の二人目の王妃マルグリット。


 大陸一の美貌を謳われたマルグリットにまつわる恋愛譚は、もはや伝説だ。彼女をモデルとして描かれた詩集や歌劇も多い。

 ジュストは、そのマルグリット王妃にそっくりなのだと、ベリエ公が言っていた。


「初めてお目に掛かったときからずっと、素敵な殿方でいらっしゃると……」

「嬉しいことを仰る。私は、初めてお姿を拝したときからずっと、瑞々しい花びらに触れてみたいと思っていましたよ」


 洗練された仕草で唇が奪われる。メルヴェイユ育ちの貴公子は皆、口づけするのが手慣れていると思う。待って、と、貴婦人の作法として求められる、形ばかりの抵抗すらさせてくれないのだから。


「……不謹慎です。勉学に励む図書室でこのような」

「愛しい薔薇をいつでも味わいたいものですから」

「……。――では、薔薇茶をご用意しましょうか?」


 にこやかに甘い台詞を囁かれ、言葉に詰まったロジィは頭を振り絞って切り返したのだが。

「いいえ。我が腕で咲き誇る白薔薇が一番です」


 ――お姉さまが、婚約者から愛してもらえるなんて、どうして思えるの?


 いつか、レティに言われた哀しい言葉。ロジィ自身、夫とは仮面夫婦で生活するのだと覚悟していたのに。


「白薔薇は、私に口づけてくださらないのですか」

「背が届きませんもの」


 なるほど、と、微笑んだジュストは、さっと膝をついた。両腕も、さっと広げて、ロジィを迎え入れるポーズ。


「どうぞ」


 彼が屈んでくれれば、ロジィでもその唇を奪うことはできるけれど。……今、ここで?


「図書館です」

「いかなる場所であろうとも、夫婦が愛を確かめるのに憚ることはありませんよ」

「あるでしょう」


 たとえば国王との謁見中に口づけをするだろうか。するわけがない。

 ここが図書館――ということを差し引いても、魂を吸い取られそうな美貌の持ち主に顔を近づけるのが気後れしてしまって、ロジィは固まる。

 宝石のような蒼い瞳と見つめ合ったまま動けないでいたら――。


「するのか、しないのか、さっさと決めろ。義姉上」


「!?」

 図書館の扉に寄りかかったベリエ公がいた。ロジィは飛び上がったが、ジュストは涼しい顔で立ち上がる。


「気を利かせて遠慮したらどう?」

「約束の時刻を忘れるほど妻に夢中とは。陛下が大喜びしそうなネタだ」

「庭で待っていればいいのに」

「おまえの従者が困っているから、わざわざ私が呼びに来てやったんだ。もう少し頭を使って妻を愛でろ」


 呆れたように肩を竦めるベリエ公に続いて、ロジィとジュストも図書室を出る。

 ジュストが、殺到する貴族たちを追い払ったのは、ベリエ公を招待するためでもあった。


 王冠に見捨てられたベリエ公が珊瑚宮に出入りするとなれば、格好のゴシップネタになってしまう。それを避けるために衆目の視線を珊瑚宮から逸らした上で、ベリエ公を招いたのだ。


 向かった珊瑚宮の裏庭には、テーブルと椅子が設けてある。テーブルには茶器や、菓子類を盛った皿が用意され、ささやかな茶会の準備がされていた。


「あとは私がやる」


 ベリエ公に座るよう促し、ロジィのエスコートをしてから、ジュストは控えている従者を下がらせた。

 彼らは一礼すると、声が届かない範囲まで移動してから、背筋を伸ばして控える。護衛の役目は果たすが、主人の会話は耳にしない、という誠実な勤務態度。


 ティーポットには薔薇茶の茶葉が入っていた。ロジィが湯を注ぐのを見ながら、ジュストが口火を切る。


「それで、具合は」

 問われたベリエ公は表情を曇らせた。

「なかなか薬が抜けない」


 ――薬。


 ぽつりと落とされた言葉に、ロジィは目を伏せる。

 幼い頃から、レティは感情の起伏が激しい子だったが、それには〈理由〉があったのだという。


 大陸の上流階級には嗅ぎ煙草という嗜みがある。粉を入れる小箱は「嗅ぎ煙草入れ」と言い、金銀で装飾されて、細密画を施されたり宝石を象眼されたりするため、贈答品としての側面もあった。


 嗅ぎ煙草が、名称どおりの「嗅ぎ煙草」なら、それほど問題はなかったのだが。

 ラルデニアは交易で栄えている領地だ。各国から様々な品が流入する。その中に、常習性と依存性の高い〈薬草〉が紛れていることもあった。


 多くは、毒草や薬草の栽培に長けているフィオーレで育てられたもの。布地を染色する際に色落ちを防ぐ目的で使用されたり、絵の具に混ぜて使用されたりする。


 そうした使用方法であれば人体に害はないのだが、その〈薬草〉を煙草代わりに使用すると、精神に異常を来してしまうのだ。

 ――そして、驚くべきことに。


「おまえは?」


 ロジィが淹れた薔薇茶を、ジュストがベリエ公へと差し出す。「いい香りだ」と呟いたベリエ公は一口飲んで、頬を緩めた。お気に召したらしい。

 焼き菓子を彼に勧めながら、ジュストは案じるように続けた。


「あれから問題はない?」

「平気だ。頭痛もないし、これといった不調もない」

「それほど多量に吸わされてないのがよかったんだろうね」


 レティは、ベリエ公にも「使って」いたというのだ。その――〈薬草〉を。

 元来、ベリエ公が怒りっぽく、周りの者たちに手を上げる性格だったことは事実。我が儘で癇癪持ちで、周囲は手を焼いていたと。


 だが、母后の言いつけに従わない――という行動を取ることはなかった。

 そのため、マリー王太后の命令でラルデニアに赴いていながら身勝手に「婚約者の妹」と婚礼を挙げたことに、ジュストは、ずっと疑念を抱いていたのだという。


 それを確かめるきっかけになったのは、例の四阿事件。

 ベリエ公が、セレスティーヌの言動を疑い始めたのが引き金となり、彼らは水面下で手を組んだという。


 そして、審問会当日。ジュストと、ベリエ公と。双方に盛られた〈睡眠薬〉が決定打になったのだと、ジュストはロジィに語った。婚礼の翌日のことだった。


        * * *


 ――姫にはおつらい話となるでしょうが、知っておられたほうがよい。


 珊瑚宮に移って、閨房に案内され、ほっと一息ついたとき。ロジィを寝椅子に座るよう促したジュストは、そう言って口火を切った。


「ベリエ公が、姫ではなく妹君を望んだのは、妹君を見初めたからではありませんよ」

「……どう、いう、意味でしょうか……?」


 一目で「美しいセレスティーヌ」に心を奪われ、強引に求婚した。――それがすべてだったはず。


「心を奪われた、という表現は、一面では正しく、一面では間違いです」


 真相はこうだ、と、ジュストは言った。

 香水のように薬草の香りを身に纏わせ、ハンカチにも香りを染みこませて、セレスティーヌはベリエ公の前に現れた。


「彼女の登場と同時に漂う芳しい香りが天上のもののようで一瞬で思考を奪われた――と、ベリエ公が証言しているので間違いないでしょう。使われたのはフィオーレの〈真夏の夢〉です」


「……真夏の夢?」


「端的に言えば媚薬のようなものです。惚れ薬とでも言いましょうか。自身の魅力を増し、相手を陶酔させる効能がある薬です。恋の駆け引きの小道具として一時期、メルヴェイユでも盛んになりましたが、依存性が高いことから使用禁止に」


 しかし、秘やかに使用している貴婦人や貴公子はいるだろう、と、ジュストは補足した。


「……レティも、そうだったと……?」

「そうでなければ、いくらベリエ公でも婚姻という重大局面で、ああまで大胆不敵な行動は取りません」


 ベリエ公がセレスティーヌに「一目惚れ」したのではなく、彼が自身に恋情を抱くような薬を使用して、いわば卑怯な手段でもって「姉の婚約者を横取りした」というのが、あの婚姻の真相だとジュストは言った。


「それと、もう一つ。ベリエ公に確認しました。結婚後も常習している、と」

「!?」

「ベリエ公が妻にメロメロなのは、純粋な愛だけではなかったということです」


 真夏の夢は、身近にいる人物を魅了する効能を持つ一方、香りによって興奮するため攻撃性を増すという側面も持つ。


 以前、ベリエ公が執拗にロジィを殴りつけたのは、レティによって〈真夏の夢〉を嗅がされていたからだとジュストは言った。

 四阿でのセルマン伯との一件も、おそらくは、それを利用してセレスティーヌが操っていたのだろうと続ける。


「ベリエ公から四阿で、ラルデニアでの生活について色々と訊かれたでしょう?」

「はい」


 あのときは、レティの幼少期を知りたいのだろうと、思っていた。

 どんな性格だったのか、何を好んでいたのか、そうしたことを知って、よりいっそう愛情を深めるのだろうと。


「あの頃にはもう、王弟妃を疑っていたそうです」

「!」

「奔放で、天真爛漫な性格を愛しているのは事実でも、裏切りは赦せないと」

「……では、ベリエ公の態度が軟化されたのは」

「中和する薬を渡したからです」


 毒に慣れているジュストは、解毒薬にも詳しいのだという。ベリエ公から話を聞いたジュストは、それがどの薬草によって生じた症状かを瞬時に把握。セレスティーヌには悟られないまま、ベリエ公を薬草の魔手から逃したのだと。


「王弟妃が癇癪を起こしやすいのも、薬草を濫用している影響でしょう」


 媚薬だけに留まらず、レティは、様々な毒草や薬草にも手を出していたらしい。

 ミミが、ジュストに睡眠薬を盛ったり、ロジィに致死の毒を飲ませようとしたりしたことも、薬によってレティに操られていたからだろうと。


 ジュストの調べと、ロジィの証言。それらから真実を探り当てたベリエ公は、懇願という名目でレティを部屋に閉じ込めた。

 ――セレスティーヌから薬の影響を取り除くために。


        * * *


「療養させて一ヶ月半か。……まだしばらくは掛かるだろうね」


 薔薇茶を香りを楽しみながら、ジュストはベリエ公に言った。

 ラルデニアで生活していた頃から、つまり、十代の前半から常用していたとなれば、薬草から足を洗うのはなかなかに難しい。


 しかも、療養を始める直前まで使っていたのだから、禁断症状が出て大変だろうと、ジュストは苦い声で言う。それに頷いたベリエ公が、困り果てた表情で呟いた。


「物を投げる、女官を殴る、大声で叫ぶ……昨日も女官がふたりほど寝込んだ」

「薬の影響を受けている人間は、か弱い貴婦人だったとしても常人では考えられないような暴れ方をする。男を近づけたくない気持ちはわかるけど、女官では無理だと思うよ」

「陛下に衛兵を借り受けようかと思ったが、そこまですると大事になるだろう?」

「……ああ。人の口に戸は立てられないからね」

「王弟妃が手負いの獣だと知られたら面倒だ」


 穏やかな雰囲気でジュストと会話するベリエ公は本当に別人だった。

「メラニエ夫人は」

 ジュストに問われ、ベリエ公の表情に少しだけ明るさが戻る。


「そちらは順調に回復しているようだ。刃物を怖がるのは相変わらずだが」

「静かな環境で療養させて、薬に触れなければ、通常に戻れると思うよ。そのまま隔離してあげて」

「わかった」


 素直に頷いたベリエ公が、困ったような照れたような顔で、ロジィを見た。


「なんなんだ、さっきから」

「……え?」

「無意識なのか。厄介だな。ジュストの機嫌が悪くなっていることに早く気付いてくれ!」

「?」


 言われた意味がわからなくて夫に視線を向けると、宗教画から抜け出たように麗しい大天使が、にこやかに微笑んでロジィを見ていた。……ご機嫌だけれど。


「言いたいことがあるなら言えと以前にも言っただろう! 黙って見つめていないでさっさと尋ねたらどうだ!?」


 怒鳴られて、ロジィは固まった。ベリエ公の怒鳴り声が怖かったからではない。心当たりがなかったからだ。


「……見つめて、いました……?」

「そこまで熱心に見つめる貴婦人はこれまでにいなかったぞ」

「…………それは、失礼いたしました」

「謝罪はいい! おまえが私を見ているとジュストの視線が痛い。頼むから、言いたいことがあるなら早く言ってくれ」


 ロジィは、そっとテーブルに視線を落とした。ベリエ公に尋ねたいことはある。

 だが、それは非常に不躾な問いかけだ。婉曲な物言いを作法とするメルヴェイユで、そこまで踏み込んだ話をするのは非常識。迷っていたら、助け船はベリエ公から出された。


「ここは珊瑚宮だ」

「……はい」

「メルヴェイユの作法には縛られない。……そうだろう、ジュスト」


 話を向けられた珊瑚宮の主人は、ほんのりと笑みを浮かべてティーカップを持ち上げる。


「連絡なくフィルが来たら追い返す」

「……だそうだ。国王であっても勝手に踏み込むことは許されない。この宮殿はジュストとおまえのものだ。自由に過ごす権利がある。で、何が訊きたい」


 降り注ぐ陽射しは、夏とは違って柔らかな光だ。吹き抜けていく風に冷たさは感じられず、庭で茶会を開くにはうってつけの季節。


「ベリエ公は」

「うん」

「……レティを、変わらず、愛しくお思いですか」


 あれだけ盲目的に注いでいた愛情が、媚薬を使った〈偽り〉から生まれたものだと知らされて、ベリエ公は何を思ったのだろう。

 ずっと、それが気になっていた。レティは今でもベリエ公の〈愛妻〉なのだろうか、と。


「訊きたかったことはそれか?」

「はい」


 不躾な問いだとわかっている。それでも、薬によって不安定な妹が、夫から見捨てられるようなことになったら、ますます傷ついてしまうのではないかと心配だった。


「神に愛を誓った相手を愛さない理由などないだろう」

「……偽りでも、ですか」

「誓った愛は真実だ。私は〈妻となる女性を愛すること〉を神の御前で誓約して婚姻した。私の〈妻〉はセレスティーヌ・ブランシュで、それ以外に存在しない。妻を愛するのはリジオン教徒として当然だ」


 ベリエ公の言葉はロジィが望んでいた「答え」ではあるが、あまりに模範的な返答で不安になる。

 すると、苦笑を浮かべたジュストが言葉を継いだ。


「ベリエ公は、姫と同じ考えの持ち主ですよ」

「……わたくしと同じ?」

「婚姻を禁じられていた私と違って、ベリエ公は引く手あまたでした。結婚した相手を無条件で愛するよう教育されていますから」


 神に誓った以上、相手の性格や容姿がどうであれ、配偶者を愛するのが務め。

 重要なのは婚姻によって生じる利権であり、愛するのは相手の血筋と財産である――というのが、王侯貴族の価値観だ。


 だが、結婚相手を愛するように努力しても、真実、相手を愛せるかどうかは、わからないこと。


「……わたくしは、ジュスト様に嫁げたことを幸せに思っておりますが、ベリエ公が後悔されているのではないかと……」

「よかったな。義姉上はおまえの妻になれて幸せだそうだ」


 にやりと笑って、からかうようにジュストに向かって言ってから、ベリエ公はロジィを見た。


「別に後悔などしていないぞ」

「ですが……レティは薬草を使ってベリエ公のお心を得ました」


 王族に対する不敬罪を問われても言い逃れができない所業だ。ベリエ公が、それを理由にレティを遠ざける可能性はあった。


「おまえ、馬鹿か」

「え」

「いくら媚薬を使われたからって、大して好みでもない相手を妻にすると思うのか?」


 おまえと婚姻するためにラルデニアに行っていたんだぞ――と、ベリエ公は言い添える。


「……ベリエ公にとってレティは理想の貴婦人だったということですか?」

「好みだったと言っている!」

「今さら照れてどうするの、ベリエ公」


 テーブルに頬杖をついたジュストが、呆れたような眼差しをベリエ公に注いだ。


「ああいう妖艶で小悪魔みたいな姫君に弱かったじゃない、昔から」

「――ッ」

 ベリエ公を絶句させると、ジュストはロジィに視線を移す。


「我が儘な人間は自分以上に我が儘な相手に弱いものです。奔放な姫に振り回されるのがお好みのようで、ベリエ公の恋人は似たり寄ったりの姫君ばかり……」

「余計なことを言わなくていい!」

「とりわけ、王弟妃の奔放具合は図抜けているので、まず飽きることはないでしょう」

「黙れと言っている!!」


 顔を真っ赤にして叫んでいるが、ジュストの発言を否定することはなかった。

「よかった」

 レティは、今でもベリエ公に愛されているのだ。ちゃんと。


 結婚し、得られるはずがないと思っていた愛情を夫から与えられて、愛されることの尊さを知った。

 だから、レティも、同じように夫から愛され続けて欲しいと思う。


「私からも訊きたいが、あれだけのことをされて、まだセレスティーヌを妹だと思っているのか」

「当然です」

「毒を盛ったんだぞ」

「ジュスト様が助けてくださいましたから」

「助からなかったら?」


「それでも」


 レティが妹であることは変わらない。たとえ、敵味方に分かれる相手に嫁いだとしても。

 言葉で説明することは難しい。理屈ではなく、セレスティーヌはロジィの妹なのだ。

 恨まれていても、命を狙われているとしても。ロジィが彼女を〈敵〉だと思うことはないだろう。


「あの子は、わたくしの、たった一人の妹ですから」

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