6.外山住宅、気怠さ、嶋井
その後、陽介から総一郎に、今までの経緯が話された。そこには怜が今まで知らなかったことも含まれていた。
怜を見つけ、助けたのは実は陽介ではなく、正確には
怜は納得した。こんな意地の悪そうな人間が、自分から進んで面倒を抱え込むわけがない。もしも彼が犯罪者まがいの人間だったとしたら、なおさらだ。
朝比奈という女のことは、総一郎も元々知るところだったらしく、特に質問を差しはさむこともなく、ふんふんと頷きながら話を聞いていた。
陽介は総一郎にひととおりの経緯を話し終えると立ち上がり、雨漏りの溜まった空き缶をさっきと同じように取ってまわり、縁側から庭に水をまいた。
総一郎があきれ顔で言った。
「陽さん。ちょっとこの家、あんまりにもぼろぼろ過ぎませんか? 何ですかこの雨漏りの量は。どうしていっつもこんな酷いねぐらを選ぶんですか? 空き屋なんて腐るほどあるんだから、どうせもぐるならもうちょっとましな所にしましょうよ」
「お前にはどうでもいいだろう」陽介は無愛想に言った。「それよりお前さっき、こいつの住んでたところがわかったって言ってただろう。だったらとっととそれを報告しろよ」
「ああ、そうでしたっけ」総一郎はごそごそと鞄の中をまさぐり、一枚のメモ書きを取り出し、陽介に手渡した。陽介はその紙に目を走らせると、「見ろ」と言って怜に放った。怜はメモを読んだ。
新宿区百人町 区営外山住宅 三〇三号室
「読めるだろう?これがお前の住んでいた家の住所。それから末尾に書いてあるのは、さっきこのお調子者が言ってた、お前の名字だ」
「私の住所って、これがですか?」
「そうだ。何度も言わせるなよ」面倒臭そうに陽介が言った。
「でも、私は自分の身許を現すようなものは何も持っていなかったって、陽介さんは言っていたじゃないですか」
「あったんだよ、ちょっとしたものがな。でもって、それを使ってこいつに調べさせたっていうわけだ」陽介は総一郎を指し示した。総一郎は心持ち得意げな微笑を浮かべていた。
怜はもう一度その紙片に目を落し、一字一句を舐めるように見てみる。
新宿区百人町 区営外山住宅 三〇三号室 嶋井
わからない。まるで覚えのない言葉の並びだった。
怜は名字と言われた文字を、口に出して呟いてみた。
「嶋井」馴染みのない響きだ。もう一度呟いてみる。「シマイ」違和感は変わらず、実感もない。
いや、正確には違った。ごくわずかではあるが、どこかで聞いたことがあるような感覚と、まるで知らないという感覚の両方があった。そしてそのどちらの気持ちも、疑わしく感じた。
混乱している怜の側で、男二人は別の話をはじめていた。
「それで結局朝比奈はどうしたんだ? 連絡はとれたのかよ」
「いやそれが、全然駄目なんですよ。まるで連絡がつきません」
「なんだそりゃ。人にこんな面倒なもん押し付けておいて、返事まるでなしかよ」
二人の話し声を耳にしながら同じ文字を延々と見詰めているうち、怜はどうしようもない疲れに襲われていくのを感じていた。
駄目だ。怜は呟いた。頭が考えるのを拒否していた。
今すぐまた横になって眠ってしまいたいという欲求がやってきたとき、唐突に総一郎の声が耳に飛び込んできた。
「怜さん。ねえ、怜さん」
「ああ、はい」気怠い声で怜は答えた。
「せっかくこうやってお会いしたんだから、何か怜さんについてのことを知りたいんですがね。どうか話しちゃあくれませんか?」
「え、でも」怜は戸惑う。「私は、陽介さんが言ったように、今、何も憶えていなくて、だから、お話できるようなことは何も――」
欠伸をしながら、陽介が言った。
「夢の話をすりゃいいだろう」
「夢?」
「そうだ。お前がときどき言っている、眠るたびに見る、妙な井戸の話さ。話してやりゃあ、この野郎も適当に満足することだろうよ」
怜は総一郎の顔を見た。彼は黒眼の大きな目を更に大きく見開いて、満面に期待の色を浮かべていた。
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