5.総一郎、自己紹介、突き出された掌
部屋にやって来たのは、背の高い猫背の男だった。
怜も驚いたが、男の方も相当に驚いたようだった。
男は、布団の上で半身を起こし見上げる怜の姿を視て、しばらくの間、下顎を上下させつつ突っ立っていた。やがて雨の雫を滴らせながら、ぎくしゃくと布団の横まで歩いてきて、巨大な黒い鞄を胸に抱えたまま、どたりとそこに腰を下ろした。たった今意識を取り戻しました、というように唸った後、落ち着きなく眼球を動かしてから、なにか言い訳でもするかのようにやっと眼をそむけ、ようやく最初の言葉を発した。
「え、ええっと、やだな、そのう、前、前ですよ、ほら」
怜は気付き、寝乱れていたシャツの前を合わせた。恥ずかしさよりもむしろ、可笑しさの方を感じていた。
男はなぜか感心したような様子で、もう一度怜の顔を存分に眺めた後あははと笑い、その後も黒目の大きい子供のような顔をくしゃくしゃにし、したたる雨粒を拭こうともせず、あきれるほど長く笑っていた。軽薄だが、下卑てはいない。陽介を鴉とするなら、この男はどことなく人懐こい犬のようだった。
男は掌を掲げ、何の意味があるのかひらひらと空中に漂わせながら話しはじめた。
「いやあ、びっくりしましたよ。あの意地悪で天邪鬼な陽さんが世話してるんだから、てっきり野郎だろうと思ってたら、何とまあ、可愛い女の子じゃありませんか。この間は玄関口でバイバイだったから、ちっともわかりませんでしたがね、何というか、絶対に反則ですよ。一体どうなってるんですか? 陽さん」
「陽さん」というのは陽介の愛称なのだろう。陽介は男を見ようともせず相変わらず外を眺めていた。
男は陽介の反応を気にするそぶりも見せず、えへへへ、とまた子供のように無邪気な声を出しながら、持ってきた鞄に手を突っ込み、中から青いタオルを引っ張り出し、ようやく濡れた髪と顔を拭きはじめた。陽介は依然として男の無遠慮をとがめるでもない。よほど慣れた二人なのだろうか、と怜は思った。
男は自分のことを、「
総一郎は、いささかサイズは小さく汚れてはいるが、それでも陽介より幾分かまともな洋服然としたものを着ていた。長めの髪もきちんと整えてある。物腰は一見おとなしいが、全体をつづけて見ていると、動作が妙に大降りで、いちいち誇張されているように見えた。
怜が何も言わずに観察していると、彼はまたえへへ、と笑い、それに「どうも」と付け加えた。
はあ、と怜は答えた。ほかにどう言ったものかわからなかった。
しかし彼はそれでも、充分に満足した様子でうんうんと大袈裟に二度頷き、あははは、とまた笑った。陽介の嗤笑とは正反対の、陽性の笑いだった。
「いやあ、それにしても綺麗なお嬢さんだ。こんなところでずっと寝てて、陽さんに襲われたりしませんでしたか?」
「おい」陽介がぞんざいに言った。「お前さっきから何やってんだ。用事を果たしてとっとと帰れ」
総一郎は頬を膨らませ、「何言ってるんですか陽さん。これは予定外の邂逅だったんです。それをまたそんな、無粋な台詞でもって邪魔して」
そう言うとまた、くるりと怜の方へと向き直り、「ところで、お嬢さんのお名前は何て言うんですか? 聞かせてくださいよ」
「陽介さんが、怜って名前をつけてくれました」
「陽さんがつけてくれた?」
「記憶喪失で自分の名前も住所もわからなくなってるから、便宜的に俺がつけたんだ。というか、だからお前にこいつのことを調べるよう頼んだんじゃねぇか。ちゃんと人の話聞いてんのかよ」
ああ、と総一郎は思い出したように、「いやすいません。そうでしたねぇ。そうそう、確かに住んでいる所は見当がついたんですがね」
「だったら表札でもって、本当の名前の見当もついたんじゃねぇのか」
「いや、そりゃそうなんですけどね。でも表札には小っさく名字が一個書いてあるだけなんですよ。でもって僕は、女の子は下の名前で呼ぶ主義なもんですから。だから、下の名前で呼んでもいいでしょう? ねえ、怜さん」
「は、はあ」怜は戸惑いながら答えた。「別に、構いませんが」
わあ、と嬉しそうに言うと、総一郎は改まった感じで、握手のつもりか右の掌を突き出し、無邪気ににっこりと微笑って言った。
「改めてよろしくお願いします。怜さん」
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