4.疲労、精神の病、二本脚
降りつづく雨音を聞きながら、この数日間のことを思い出しているうち、怜の体から徐々に怒りが抜けていくのが感じられた。
陽介のことを許したわけではない。記憶を思い出す試みと同じだ。何度も繰り返すうち、ただ疲れ、面倒になってしまったのだ。
怜は疲れていた。頭はものを考えることを拒否し、身体は動くことを拒否し、五感は感じることを拒否していた。
耳に雨音が染みこむように入ってくる。緩慢な、絶え間なくつづくその響きに、怜の思考は再び、ぼやけていく。
次第に首をもたげてくる睡魔に、再び眠りの淵へと落ちていきそうになった怜は、おい、という陽介の声に現実に引き戻された。
「今度こそ、正真正銘、あんたについて本当のことを教えようか?」
怜は口ごもった。また例の「冗談」を披露して、はめるつもりではないだろうかと。
騙されまいぞと心に警戒を言い聞かせつつ、陽介に向かって頷いてみせた。陽介はいつもより心持ちゆっくりとした口調で、話しはじめた。
「あんたはな、病気だったんだ」
「病気?」
「ああ。他人なら気にも留めないような、些細な、どうでもいいことにやたら拘り、思い悩む、精神の病だった。自宅で独り、どこにも出ることなく引きこもって暮らし、定期的に治療という名目で心理衛生保健所という所からの訪問治療を受けていた。だが一向によくならない。毎日のように幻覚を伴う発作と、他人からの迫害妄想に悩まされる。いつまでたっても治らないのは当然だ。実はこの病気には根治療法がない。保健所員の言っていることは、最初からただの気休めだったんだ。保健所員の訪問目的は、治療じゃなかった。頭のおかしいあんたに対する監視だったんだ。あんたの症状は次第に悪化していった。やがてははっきりとした妄想まで持つようになり、とうとうある日――」
「止めてください!」怜はついに遮った。「どういう意味なんですか? 私が以前狂っていたとでも言うんですか?」
「『以前』じゃない。『今も』かもな」陽介は笑った。まるで悪びれていない。
「陽介さん」怜は怒りに震える声で言った。
「何だ?」
「嘘人というのはもしかして、嘘つきで意地が悪い人っていう意味なんですか?」
陽介は少し口を噤んだ。怜は、流石に陽介が堪えたかと思ったが、すぐに違うと悟った。陽介はにーっという音が聞こえてきそうなくらい口を左右に吊り上げ、
「嘘つきかどうかは知らねぇがな。少なくとも他の嘘人は、俺ほど意地悪じゃあないようだな」と言って、また嗤った。
「ふざけるのはやめてください! 冗談にもなっていないことを、もういいかげんにしてください!」
「わかったわかった」陽介がひらひらと手を振った。「悪かったな。もう言わねぇよ。まあ忘れて、好きなだけ休んでくれよ」
怜は憤然とする気持ちを抑えようと、雨の庭に眼をやった。
ふと、何か黒いものが草叢の中に見えた。
細長い、棒のような二本の脚が、雑草の合間の地面に立っていた。
鳥か何かの脚だろうか、と思い、視線を脚から上に上げていった怜は、驚きのあまり眼を見開いた。
脚の上にあるはずの鳥の体が見当たらないのだ。
釘付けになったように見詰めているうち、黒い脚だけの生き物は、鳥そっくりのゆっくりとした足取りで濡れた地面を踏みしめ、生い茂る草の向こうへと消えていった。
何だったのだろう、今のは。怜は陽介の様子を窺った。
陽介は腕組みをしたまま壁に寄り掛かり、相変わらず庭を眺めたままだ。特に変わったものを目撃したような素振りはない。
なぜだ。あれは私にだけ見えた物体だというのか? 怜は、にわかに動悸が早まり、全身から汗が噴き出すのを感じた。
胴体が無く、脚だけなんて、そんな生物がいるわけはない。あれではまるで幻覚ではないか。もしかしたら陽介が話の前に断りを入れたように、今度ばかりは本当の話だったのではないか。この頭は狂っていて、結果としてあんな幻覚めいたものが見えるのではないか?
煩悶に陥りはじめた怜を現実に引き戻すように、突然廃屋の玄関先から大きな物音が響いてきた。
怜はびくりと布団の中で身体をこわばらせた。雨風以外に大きな音がこの屋敷でしたのは、はじめてだった。
さらにがさがさと何か表面の硬い布地を脱ぎ捨てるような音がした後、荒っぽい、一歩ごとに床の埃が舞い上がるのが目に浮かぶような足音が、近づいてきた。
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