3.全生活史健忘、逆行健忘、嘘人
怜はこの部屋の、この布団の上で目覚めた。
痛む頭に手を当て、身を起こし辺りを見回すと、何もない部屋の中、壁から崩れた漆喰が畳のない剥き出しの床の上に散らばり、その上に埃が積もっているのが見えた。畳代わりだろうか、寝ていた布団の下には何枚もの青いビニールシートが敷かれていて、身体を動かす度にがさがさという耳障りな音を立てた。
外からは激しい雨風の音が聞こえていた。どうやら昼間らしかったが、部屋の中も外も夜のように暗かった。朽ちる寸前の窓枠の上に突き出して見える黒い瓦の端からは、雨水がまるで滝のように流れ落ちていて、古びた瓦を今にも屋根から根こそぎ押し流してしまうのではないかと心配になった。庭には丈高い雑草が茂り、外側にいくほどに高く、視界を遮るように立ちはだかっていた。それでも頑張って雑草の隙間を覗くと、ブロック塀らしき灰色の壁が目に入ってきた。
何なのだろう、ここは。どうしてこんな荒れ果てた場所に。
突然、不安に襲われた。
必死になり前後関係を思い浮かべようとするが上手くいかない。起こってくる苛立ちを抑え無理に考えつづけようとすると、額が焼け付くような嫌な感覚とともに、急にどっと全身から力が抜け、綿が水を吸ったような怠さがやってきた。
気づくと目の前に、鴉のように黒いコートをまとった男が一人立ち、にやにやと嗤っていた。
「そんなに怖がるな。とって喰うわけじゃねぇから安心しろ」と男は言いさらに、「あんた名前は何て言う? でもってどこに住んでいる?」と訊ねてきた。
どう答えればいいのかわからない。大体この男を信用しても良いものだろうか。困ったあげく、しどろもどろになりつつ自分の名前さえも言えないことを白状すると、男は「へえ」と言った後いきなり、幾つかの質問をしてきた。
一から百まで数えさせて、それをまた逆に一まで数えさせたり、五十音を暗唱させたり、簡単な暗算をさせられたりと、妙な質問ばかりだった。後になって知ったのだが、答えられないもののほとんどは常識と自分自身に関する記憶についてだったようだ。
「全生活史健忘。逆行健忘だな」
すべての質問を終えたらしい男が、ぞんざいに言い放った。
「やれやれ。そんな厄介持ちだなんて知ってたら、拾うんじゃなかったぜ。つまりあんたは記憶喪失さ。自分に関して頭の中がからっぽになっちまってる状態なんだ。正確に言うと、貯金はあるんだが、引き出せなくなっちまってる状態だけどな。個人生活史だけじゃなく、結構な量の常識や知識までなくしちまってる。まあ、言葉も喋れるし文字も読める。短期記憶にも支障がねぇ。数の数え方にも支障がねぇようだ。だからたぶん飯の食い方とか、便所の使い方もわかるだろう。よかったな」
「お前は道に行き倒れていた」男は語った。「雨が降りはじめたころ、路地の真ん中に、鴉に啄んでくださいとでも言わんばかりに、大の字になって倒れていたんだ」
もし話が本当だとすると、男は恩人だった。
名を訊ねると、ようやく男は自分のことを陽介、とだけ名乗った。上の名前はと訊くと、鼻で息を吐いた。
「俺は
「嘘人?」
「嘘に人って書いて嘘人って読むんだよ」陽介は投げ出すように言った。
「嘘人というのは、職業なのですか?」
「職業、階級全てに通用する属性だ」
「つまり、嘘をつく人、という意味ですか?」
陽介は首を傾げ、「さあ? まともな頭を持った連中はそんなふうに言うな。だが俺はそう思っていない。まあ、見解の相違っていうやつさ。あるいは俺がまともじゃないだけだ。気にするな」
わかったようなわからないような説明だった。だが「まともでない」という部分はわかった。要するにこの男は、社会から脱落した人間なのだろう。身にまとったあのぼろを見れば、陽介が「普通」というカテゴリにくくられる人間ではないだろうことが、自明のように思われた。
そして彼は、「怜」という便宜上の名を授けた。なぜなのか由来を訊くと、「さあな、何となくさ」と短く言って肩をすくめただけだった。
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