2.怜、陽介、廃屋、頭に棲む蟲

「黄金虫によく似ているのさ」


 雨音の合間に声が聞こえたような気がして、熱で重くなった頭をれいは持ち上げた。

 雨に濡れた庭の雑草を背にし、今にも腐り落ちそうな縁側の上に、陽介ようすけが裸足で立っていた。


 一昨日から変わらないぼろぼろの擦り切れた服に、ぼろぼろの黒いコートを、痩せた体の上に着込んでいる。その上には、無精髭に覆われてはいるが、見ようによっては若く精悍な顔があり、怜の方を向きにやにやと笑っていた。


 コガネムシ。怜は胸の内でゆっくりと呟いた。そうだ、陽介と話をしていたのだった。だが、それは何の話だったか。

 しばし思い出そうと試みる。だが熱と目眩に邪魔されてうまくいかない。手掛かりを求め薄暗い部屋を見渡しても、あるのは剥きだしの床板を覆うために敷かれた青いビニールシートや、今座っている綿のはみ出た汚い布団だけで、どこにもそんな虫などいない。


 怜は仕方なく陽介の言葉をそのまま繰り返した。


「コガネムシ、ですか」


 怜の気のなさにすぐ気づいたらしく、陽介は縁側から部屋の中に戻ってくると、不機嫌そうに両眉を寄せた。


「何だ。相変わらずまた呆けてたのかよ。仕方ねぇ、もう一度喋ってやるよ。コガネムシっていうのはな、小さくて楕円形の、堅い殻を持った甲虫さ。成虫は身体全体を鎧みたいな硬い殻に覆われていて、表面には金属みたいな綺麗な光沢がある。あれとそっくり同じ、よく似た形と大きさの、外を殻で被われたやつが、人間の脳の中にいるんだ。ほら」


 陽介は後ろを向いてみせると、伸び放題の髪をかき分け、後頭部の下の方に手をやってみせた。


「背中を触ってみると、背骨がごつごつ出っ張っているのがわかるだろう。それの一番上、頸にある突起から指三本分くらい上、両耳の大体中間に、コガネムシがひっそり棲んでいるんだ」


 陽介にならい、怜は自分の頭に手を当てた。だがよく場所がわからない。わかるのは頭と首筋が熱で火照っていることだけだ。


むしっていうんだよ。起源を辿ればさっき言ったコガネムシ同様、ちゃんと自立した昆虫だったんだ。だが今では人間の体内で一つの器官みたいに振る舞うようになっている。共棲ってやつに似てるな。人間は蟲にねぐらをやる。蟲は見返りにちょっとしたことをする。誰の頭の中にも一匹ずつ棲んでいて、ほんのわずかずつ主人の余分な記憶を喰っているんだ」


「記憶?」


「ああ。今のあんたの悩みの種の、記憶さ」


 陽介は口の端を吊り上げ嗤うと、音もなくその場に腰掛け、爪の先でかりかりと表面のささくれ立った床板を引っ掻きはじめた。


「記憶ってのはな、つまり脳の中の神経細胞のことさ。外から加わった体験を、神経細胞の接続で記録しているわけで、自体が体内に保存された過去みたいなもんだな。で、蟲は神経細胞を喰う。でも喰われた当の主人は、まるで気づかない。幸いにも奴らが喰っているのは、主人にとってもあまり必要のない嫌な記憶なんだ。普段から意識しないようにしてきた記憶だから、忘れちまったところで本人には何ともねぇわけだよ」


 陽介は首を左に傾げた。話すときによくするこの男の癖だった。


「実はこうやって記憶をついばまれるのは、人間にとって悪いことじゃない。考えてもみろ。生きるほどに人間は過去を溜め込んでいく。その中には忘れたいような、嫌なものが沢山あるんだ。蟲は、脳の中の嫌な記憶をせっせと喰ってくれる。おかげで人間は、毎日精神の平衡を保ち、すっきりと暮らしていけるってわけさ。よくできたもんだと思うだろう?」


「そうですか」


 またしても気のない怜の相槌に、ふん、と鼻を鳴らすと、陽介は再度かりかりと苛立たしげに床板を引っ掻いた。だがふいに床を掻くのを止め、人差し指を怜の目の前に立てて言った。


「一つだけ困ったことがある。稀に、変わり種の蟲がいる。そいつは頭の中で動くんだ」


「動く?」


「そうだ。もがく、と言った方が良いかもな。鬱とか強迫観念とか、精神に不安定を持っているやつに多いそうだ。そいつらの蟲は一日のうちある時間になると、物理的に活動をはじめる。頭の中でもがき、動き回るんだ」


 陽介はまた床を掻き、


「あんた、夕暮れになると妙な耳鳴りが聞こえないかい?」


 どうだろうか、と怜は思う。起きているときよりも眠っているとき、覚醒しているときよりも意識をぼやかせているときの方が多いため、わからなかった。


 でも待てよ。夕方、「きいん」という耳鳴りに混じって、がりがりという妙な音が聞こえてきたことがなかったか? 大きくはないが、耳障りな音が。例えば今、陽介が立てている音に似た。


「実はな。蟲が動くとき、宿主に身体症状が現れる。それが耳鳴りだ。蟲の動く音が、本人の耳に耳鳴りとなって聞こえているんだ。夕方に」


 ばかな、と怜は思う。だが不安がおこってくる。

 陽介は耳障りな引っ掻きを止めない。しだいにその音が、まるで蟲の這う音のように思えてきた。

 暗い暗い脳の中。

 隙間に、細い節足と、触角を持った甲虫がひそむ。

 甲虫は時折、かさかさと音を立てながら、脳のひだの間を、細く、先にぎざぎざのついた節足でもって身をよじり、ゆっくりとかき分けるようにして蠢き、這っていく。


 嫌だ。


 喉の奥から呻きが漏れた。頸の後ろにあてた手が、じっとりと汗ばんでいた。

 怜が目を閉じ身をよじっていると、いきなり笑い声が聞こえてきた。

 眼を開けると陽介が、くつくつと嗤っていた。呆気にとられている怜に、陽介が言う。


「あんた、いつまで頭の後ろをさすってるんだ? つくづく変わってるな。あっさり話を信じたのなら、相当面白いやつだよ」


「陽介さん!」瞬く間に怜の顔面が熱くなった。「もしかして騙したんですか? 私を」


「何言ってんだ、別に騙しちゃいねぇよ。まあ確かに馬鹿げたような話だがな、嘘と決まったわけじゃない。本当にそうなっているかもしれないだろう? 人間の頭の中には実は昆虫が棲んでいてって。奇怪でいいと思わねぇか?」


「いいかげんにしてください! また私のことをからかって、一体どういうつもりなんですか!」


「怒るなよ」陽介がまるで堪えた様子もなく言った。「どういうつもりも別にねぇよ。ただの冗談、暇つぶしさ。あとさっきも言ったけど、本当にあることかもしれないだろう?」


「本当にあるかもしれない、ですって?」


「ああそうさ。でもそれを真に受けて悩むあんたはやっぱり変わってる。どうやら相当でかい健忘を起こしてるらしいな。生活史だけじゃない。常識まで忘れてる。文句なしに、本物の記憶喪失だよ」


「私が、嘘をついていると思っていたんですか?」怜の声の震えはまだ治まらなかった。


「おお、恐ぇ」と、陽介が全然恐くなさそうに言った。「別に疑っちゃいなかったさ。言ったろう? 気が向いたんで試してみた。それだけだ。あんたが俺の洒落をどう聞くのか、興味があったもんでな。何、呆っとしてばかりのあんたも、いい暇つぶしになったんじゃないのか?」


 陽介はコートの裾をはためかせ、ふわりと立ち上がった。雨漏りを溜めるために床の上に置いていた空き缶を一つひとつ手際よく手に取ってまわると、縁側から庭に向け、中の水を一息にまいた。それから缶を元の位置に戻し、悠然と部屋の隅まで歩いていくと、音もなく腰掛けた。埃で汚れた足下を、ゆっくりと巨大な蝸牛(かたつむり)が這っていったが、まったく頓着していないようだった。


 怜は憎々しく陽介の姿を見つつ、思った。この男の歳は幾つなのだろう。少なくとも二十歳は過ぎているようだが、伸び放題に伸びた無精髭の向こうに時折見せる悪童のような表情は、それ以下の年齢を思わせた。


 怜の怒りに気付かないのか、気づいていても動じないのか、陽介は何をするでもなく外を眺めていた。

 雨、雑草、塵芥の山。数日前、道で倒れていた怜が陽介によって運ばれ、眼を醒ましたときから変わらない、庭の眺めだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る