7.夢、蝉、あだ名
怜が完全に眠りに落ちたのを見届けると、総一郎は座ったまま、うん、と天井に向かって背を伸ばし、もう一度、布団の上の彼女の顔に視線を落とした。
短めの髪に、白い、儚げな顔立ち。
眠りに落ちてすぐのせいか、今のところ表情に悪夢の気配はないように見えた。
総一郎は溜め息を一つつき、彼女がたどたどしく話してくれた、その「井戸」についての説明をもう一度思い返した。
――ともかく、すべてが本物じみていて、まるで本当にその場にいるみたいなんです。目覚めた後、実際に自分がそこに行ったことがあるんじゃないかって、本気で思ってしまうような――と前置きをして、彼女は話しはじめた。
細くて狭い、薄暗い露地があって、曲がりくねりながら、延々とつづいているんです。
前を誰か女性が歩いています。私は彼女に手を握られて、先へ歩いていきます。
道はどんどん狭く暗くなっていきます。でも空はそれと反対に、物凄く、鳥肌が立つくらいに紅くて綺麗なんです。
道はまだつづいていき、このままどこまで行ったら終わるんだろう、と思いはじめたとき、目の前が開けるんです。でもそこは普通の道や庭なんかじゃなくて、四方が全部壁で囲まれた、四角い、箱の底みたいな場所なんです。
真ん中には、とても大きくて深い井戸みたいなものがあります。井戸をのぞいている私の頭の上では、ひっきりなしに鴉が大声で啼いています。
だんだん脚がすくんできて、私は井戸から目を上げて、後ろを振り返るんです。するとそこには、その、私の前をずっと歩いていた女性が、肩をぶるぶると震わせながら、後ろ姿で立っているんです。
それを見ているうち、私は何だかたまらなく怖ろしい気持ちになっていって――
可哀相に、と総一郎は思った。この娘は相当壊れているらしい。眠るたびに妙な光景に襲われていたのでは、さぞかし辛くて仕方がなかろう。
実際この話をしている間、本人はとても辛そうな表情をしていた。いや、そもそも何であろうと、ものを喋るということ自体、本当は気が進まなかったのかもしれない。
最初から気怠げではあったが、話が「震える背中」のくだりに差し掛かる頃には、長い瞬きとともに頻繁に口ごもるようになった。やがて話し終えると、陽介に勧められるまま横たわり、すうとそのまま眠り込んでしまった。
可哀相なことをしてしまった。総一郎は思った。話でも聞いてやれば気も明るくなるかもしれないと思ったのだが、かえって消耗させてしまったようだ。こんなことでまた熱が上がられたりしたら、自分としても気が重くなる。他人を明るくするというのは、なかなか難しいものだ。
考えつつ目の前で眠り込んだ少女の白い貌を眺めていると、玄関の方で物音がした。
総一郎は一瞬身を固くしたが、それがぬかるんだ泥を踏みしめる人間の足音だと知ると、当面の家主である陽介にかわって腰も軽く立ち上がり、玄関に相手を出迎えた。
玄関先には、彼の最も苦手とする男が立っていた。男は黙ったまま扉の手前に立ち、上目遣いで上がり框に立つ総一郎を見上げていた。
蝉は奥目の男だった。いつも伏し目がちにし、なにか重い物でも背負っているかのような苦しげな表情を浮かべていた。今の身分になってからおそろしく苦労したあげく、辛気くさい面差しになったのだ、という噂もあるが、本人に言わせれば生まれつきとのことだ。
蝉は、話すときは一拍間を置いてから簡潔に、短い文を使って、一定の速度の低い声で喋った。話す内容を頭の中で組み立て、用意してからそれを口にしているのだろうと思わせる喋り方だが、やり取りに付き合わされるのは、総一郎の最も苦手とするところだった。愛想がないうえ遊びもない。
陽介は違った。陽介もまた十二分に愛想の良くない男だが、総一郎から話しかけたときに嫌というほど返ってくるあの意地の悪い軽口は、ある意味とてもわかりやすいものだ。実際話していると、妙な充実感を感じることさえある。
さっき出会ったばかりの娘、怜も無口なようで、すこぶるわかりやすい。彼女のように、「たった今自分は戸惑っています」と表情で逐次知らせてくれるのなら、相手を笑わせようとする総一郎の苦労も大いに報われる。
だが蝉は手に負えない。話をしていると大いに調子を狂わされる。頼まれもしないのに、相手を楽しませようと一生懸命にふざけているのが、いかにも間抜けに思えてくるのだ。
蝉が別に恰好をつけたり、勿体ぶったりしているのではないことは、総一郎も知っていた。実際、偏屈な陽介などよりよほど、仲間内でも信頼できる男として通っている。
だが、総一郎にとっては苦手な相手だった。腹の中でげっそりしつつ、それでも総一郎が冗談交じりの挨拶をすると、蝉は言った。
「久しぶりだな。
いつもと変わらない喋り方だった。総一郎は嫌になる。
黒眼というのは総一郎のことで、鴉というのは陽介のことだ。仲間内で使うこういった通称を、総一郎は好きになれなかった。
蝉に対してももちろん、通称ではなく本名で呼びたいのだが、本人がそれを教えてくれない以上こちらも「蝉」と呼ぶしかない。
家主を呼びに奥へ引き返そうとすると、いつの間に来ていたのか、背後からぬう、と陽介が現れた。
「なんだ、蝉かよ。随分遅かったな。今、奥には病人がいるんだ。悪いがここで話だ。適当にそこらに座れ」と言い、陽介は上がり框に腰を下ろした。
蝉はちら、と辺りを見回すと、比較的埃の積もっていない倒れた下駄箱の上を選び、さらにまた丁寧に埃を払ってから腰を下ろした。
総一郎は、面倒から解放されたのを幸いと、出てきた部屋の入り口まで戻って座り、奥で眠る怜の顔と庭の様子とを交互に眺めながら、二人の話に耳を傾けた。
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