第4話

 あてがわれた寝室は、ラバウルに赴任していた時の基地を思い出させた。それというのも、上等な布で織られたハンモックを寝床として宛がわれたからだ。ラバウルの基地には寝台などなく、ハンモックを寝床代わりとしてつかっていた。蚊帳はついていたがボロボロに破れており、とてもではないが使い物になるものではなかった。

 それが今はどうだろう。同じハンモックでも肌ざわりそのものが違う。麻と似た植物で織られたハンモックは織目もきめ細やかで、上等な絹のように咲夜の体を包み込んでくれるのだ。おまけに蚊帳の代わりに周囲を覆う蔦の葉は、故郷の森を思わせ心を穏やかにさせてくれる。不満と言ったら彼ら空の民の居住区が丸い蔦で編まれたものであるせいで、足をつける場所がないぐらいか。

 それともう一つ。

 隣に吊るされたハンモックになぜかシエロがいることだ。蒼いハンモックに身を横たえるシロエは、一糸まとうことなくその身を蒼い布に託している。

 褐色の肌を惜しげもなく見せる彼女の胸がふわりと揺れて、思わず咲夜は唾を飲み込んでいた。

「どうなさいました? マレビト様」

 赤い眼を優しげに細め、シロエは体をこちらへと向けてくる。彼女の胸が勢い良く揺れ、咲夜は思わずシロエから視線を放していた。

「いや、何でもない」

「恥ずかしがることはありません。私の身は、あなたに捧げれたものなのですから」

 背後でシエロが起き上がる気配がする。彼女の手がそっと自分の頬をなでてくるが、咲夜は彼女に顔を向けることができない。

 飛行機乗りは男ばかりだ。基地や空母に勤務することになれば女生との接触は極端に減る。内地の町に行けば海軍専用の慰安所もあるが、最近では戦局の悪化を受け閉まっていることが殆どだった。

 むしろ海軍航空隊の人間は、下宿と呼ばれる懇意の家に休日泊めてもらい、そこで家族同然のもてなしを受けるのが自然な休日の過ごし方となっている。休日に女に会いにいくものは皆無といってもいい。

 そんな生活を長年してきた咲夜にとって、シロエの裸体は刺激が強すぎるものだった。平静を保つために金玉を握ってみるが、自分の息子は素直に反応してしまっている。

 シエロはこのルケンクロを司る巫女だ。彼女は自分たちを救ってくれるマレビトと結ばれる運命にあるという。

 つまり、シエロと咲夜は夫婦の関係になるために同じ場所で眠っている。それが何を意味するのか、女性との接触を断たれていた咲夜にも十分わかっていた。

「私では、不満ですか?」

 不安げなシエロの声がする。思わず顔を向けると、心細そうに眼をゆらす彼女と眼があった。長いまつ毛に縁どられた眼が、灯の明かりを受け不安げにゆらめいている。

 その眼が、ずっと会っていない女性のことを思い出させてしまう。

「故郷に、大切な人がいるんだ」

「奥様ですか?」

「いや、小さい頃に結婚の約束はしたけれど、本人は覚えてないだろうね。ただ、帰ってきてほしいってそう言われたんだ。手紙の中でね」

 まだ十代の中頃だった咲夜は、貧しい実家を支えるために海軍に入ることを決意した。次男である自分が家にいつまでもいることはできないし、不況に喘ぐ世の中で軍に入ることは自然の成り行きだといってもいい。入ってから、飛行機乗りになれると知った驚きようは今でも鮮明に思い出すことができる。

 茜と二人、戦闘機を見た記憶がそのとき蘇ってきたのだ。

 飛行機乗りになろう。そう決め、操縦練習生の試験を受けて合格したのだ。その時の嬉しい気持ちを咲夜は手紙にしたため、故郷にいる茜へと伝えた。

 咲夜が飛行機に焦がれていることを知っていたのは、戦闘機を共に見た彼女だけだったから。

 ——どうぞ飛行機で、帰ってきてください。

 手紙の返事には島の近況と、そんな言葉が書かれていた。

「お慕い申し上げているのですね。その方を」

 シエロの優しい声が耳朶を叩く。彼女はそっと起き上がり、咲夜の手をとっていた。その手を自分の胸に彼女は押しあててみせる。

「シエロっ!」

 柔らかな胸の感触が掌に伝わり、咲夜は思わず声をあげていた。そんな咲夜にかまうことなく、シエロは微笑んでみせる。

「どうぞ、その方だと思って私を抱いてください。それが、ルケンクロの巫女である私の役目です」

「それは――」

「できませんか?」

 咲夜の言葉は、シエロによって遮られる。彼女の顔を見ることが出来なくて、咲夜は彼女から顔を逸らしていた。

「私たちは自分たちの目的のために、あたたたちをここに呼んだ。あなたたちから居場所を奪った。それを補う役目を巫女たる私が持つのは当然のことです」

 目的のために自身を犠牲にする。どこかで、聴いたことがある言葉だった。熱心に耳を傾けた言葉といってもいいかもしれない。

「シエロは、それでいいのかい」

「はい。私を育んでくれたルケンクロのためなら喜んでこの身を差し出します。マレビト様のお役に立てる。これほどまでに、光栄なことがあるでしょうか」

 赤い眼を輝かせ、シロエは微笑んでみせた。彼女は咲夜の手を愛しげになで、そっと頬にその手を添えてみせる。

「あなたは私たちを救ってくださるお方。そのお方にお仕えできるなら、これ以上嬉しいことはございません」

 一緒だと思った。

 彼女は、自身の故郷たるこのルケンクロのために咲夜に身を捧げようとしている。それはまるで、祖国日本のために戦っていた咲夜の姿そのものではないか。

「君の気持を受け取ることはできない」

 自然と言葉が口をついて出てきた。日本は今、敵である米国に本土を脅かされている。沖縄に上陸した彼らは沖縄市民すらも巻き込み、残虐非道なおこないによって沖縄本土を蹂躙している最中だ。

 特攻し散華した飛行予備隊の生徒たちの姿が頭をよぎる。彼らは敵の進軍を少しでも遅らせ日本本土を守るために死んでいった。

 そんな彼らのもとに、自分もいくはずだった。

「俺たちの国は今、敵に蹂躙され未曽有の危機期を迎えている。一刻も早く、俺は祖国に戻らなくてはいけないんだ。君たちの気持ちは分かるが、協力することはできない」

 自身との発言に、胸が痛くなる。

 自分たちと同じく敵に蹂躙されているシエロたちを救いたい気持ちはある。だが、そのあいだにも日本には米軍が上陸しようとしているのだ。

 日本が中心となり白人の手からアジアを取り戻す。そのような理想を持った大東亜共栄圏の名のもとに、日本は資源の豊富な東南アジアに進出した。

 白人たちの植民地であったこれらの地はすでに取り戻され、開戦によって輸入が制限されている日本の物資は乏しくなる一方だ。

 それは、戦火が長引くにつれ減っていく兵力も同じであった。ガダルカナルを巡る作戦で日本は優秀なパイロットを多く失い、物資の不足により戦闘機の生産すらままならない。

 今や日本の戦闘機はその数もわずかであり、米飛行士たちと対等に戦えるパイロットの数も少なくなっている。開戦前は三年以上の月日をかけて育成してきたこれらの人員を即座に補うことは、もはや不可能に近い。

 そんななか生まれたのが、特攻という名の一撃必殺の戦法だった。

 特攻はパイロットの育成も必要最低限でいい。飛ぶことさえできれば、あとは敵のもとに突っ込んでいけばすべてが終わるのだ。飛行士の命と引き換えに、特攻は甚大な被害を敵にもたらすことになる。

 その特攻機すら、最近では探索レーダーによってこちらの接近を予測することが出来る米軍により、撃ち落されることが多くなってきた。

 一時は大東亜圏として日本の傘下に入っていた絶対防衛圏の島々も今は敵の手に落ち、日本の領土である沖縄にまで迫っている。

 祖国の人々が全力で戦っているのに、自分は何もできないことほど悔しいことがあるだろうか。

「俺たちは君たちの力にはなれない。申し訳ないが、俺たちをもとの世界に帰してくれないか?」

 咲夜の言葉にシエロの顔が曇る。彼女は俯き、小さく言葉を発した。

「それはできません。ルケンクロの導きは世界の理。それを変えることはできないのです」

「ルケンクロは、君たちの神は運命すらも操っているというのか?」

「ルケンクロただ見つめるだけ。そして、必要なものをそこに呼び寄せる。あなた方は、ルケンクロにしか見いだせない役割のためにここに呼ばれた。それが終わらない限り、あなたがたはもとの世界にはもどれない」

「帰れないってことか……」

 そっと咲夜の手を放し、シエロは静かに頷いてみせる。

「ごめんなさい……。それでも、私たちにはルケンクロの導きが、あなた方が必要なのです」

 悲しげに彼女は眼を歪め、言葉を続ける。そんな彼女の眼がこちらにむけられることはない。シエロはぎゅっと自身の片腕をもう片方の手で握りしめ、強く唇を噛みしめた。

「だから私はこの身をあなたに捧げます。それが、私のできることだから」

「シエロ……」

 咲夜はそっとシロエへと手を伸ばす。瞬間、周囲が大きくゆれる。

「きゃっ!」

 シエロの身が咲夜の体に覆いかぶさってくる。咲夜は急いで彼女を抱き寄せ、大きくゆれる丸い住処を見回した。ぬっと入り口から蒼い竜の鼻先が入ってくる。

「ベルダっ」

「きゅんっ!」

 シエロに名を呼ばれ、ベルダが顔を覗かせる。咲夜が入り口の外に顔を向けると、ベルダの体には人の姿をとったレイがちょこんと乗っていた。

「レイっ、これは……」

「あなたの寝床はこっちだって、ベルダが言ってる」

 冷たいレイの声が耳朶に突き刺さる。先ほどまでのやりとりを見られていたのだろうか。なんだか気まずくなって、咲夜はレイから顔を逸らしていた。

 レイはベルダの体を伝って住処の中に入り込んでくる。ぐらぐらとゆれる住処の中をずんずんと突き進み、レイは咲夜とシエロの間に立ちふさがった。

「ごめんなさい、シエロ。咲夜は私と一緒に寝るから」

「えっ」

 困惑するシエロに背を向け、レイは咲夜の片手を両手で握りしめてみせる。

「咲夜は、こっち……」

 ぷくっと頬を膨らませ、レイは桜色の眼で咲夜を睨みつけてきた。その様子が何とも愛らしく、咲夜は苦笑を顔に滲ませていた。




「結局、俺の寝床はレイの中か」

 ——悪い。しょっちゅう私の中で寝てたくせして。

 ルケンクロの背の上に零戦があった。飴色の機体には桜があしらわれ、遠目から見ると桜吹雪が舞っているようだ。

 レイの機体だ。咲夜はそんな愛機の側に立ち、レイとの会話を楽しんでいる。レイと共にシエロのもとを去った咲夜は、レイによってルケンクロの背に連れてこられていた。レイは戦闘機の形に戻り、咲夜に自分の中で寝ろと迫ってきたのだ。その言葉を聞いて、なんだか咲夜は懐かしい気持ちを抱いていた。

 レイの調子が悪く、作戦中に小島に不時着して夜を明かしたことなら何度かある。そのたびに、自分は明日死ぬのではないかという不安が胸に去来した。

 だが、ひとたび眼を瞑ると安らかな眠りが咲夜を待っていた。今にして思えば、愛機の中で寝ることに自分は安心感を抱いていたのかもしれない。

 レイは人ではない。だが、戦場を駆けるかけがえのない仲間であることは確かだ。その仲間が、自分を守ってくれているように思えたのかもしれない。

 ——私の中は嫌?

「あの上等な布の上に比べると、固い眠りづらいかな」 

 翼に飛び乗り、咲夜はレイの風防をなでてやる。

 ——いつもぐっすり寝てたくせに……。

 不満げなレイのつぶやきが耳朶を叩いて、思わず咲夜は苦笑していた。そっと風防を開いて、操縦席の中に入り込む。風防を開けたまま、咲夜はレイに語りかけた。

「しばらくは君の中で眠るつもりだったよ」

 夜空を彩る綺羅星を見つめながら、咲夜は静かに口を開く。

 ——すぐに逃げられるものね。

 レイは特に驚くこともなく、返してきた。彼女もまた、自分と同じ気持ちらしい。

「シエロたちは、俺たちを救世主だと思っているみたいだな。こっちにしてみると、ただの迷惑な話でしかないんだが」

 ——助けるといっても、私たちだけで何ができるというのかしら。

 レイの言葉はもっともだ。自分たちは空の民の敵である海の民の正体すらわからない。そればかりか、この世界がどのようようなものなのかすら把握していないのだ。十字の形をした天の川や地球に似た衛星なんてものは、咲夜たちの生きていた地球にはなかった。

 もしかしたらここは、地球から遠く離れた生き物の住めるなの惑星なのかもしれない。その可能性もあるが、伝説上の生き物であるとされる竜がいるとはどういうことなのだろうか。

 人の創造した生物が、別の惑星で生きている。そんなことが現実に起こりえるのだろうか。

 ——ここはもしかしたら、あの世なのかもしれないわね。

 レイの笑い声が耳朶を叩く。

「あぁ、そうかもしれないな」

 自分たちはもうすでに死んでいて、あの世であるこの場所にやってきているのかもしれない。そうであったらどんなにいいだろう。

 自分とレイは、祖国のためにこの命を捧げることができたのだから。

 蒼い衛星を眺めながら咲夜は苦笑する。あの星はもしかしたら地球ではないだろうか。この世界はあの世で、自分たちは生きていた地上の世界をここから眺めている。

 咲夜はそんな蒼い星を横切る陰影に気がつく。それは豆粒ほどの大きさの竜たちだった。竜の群れは旋回を続けながら、こちらへと向かってくるではないか。

 ——下手ね。あんなに明るい衛星を背にして近づいてきたら、バレちゃうのに。

「敵か」

 ——どうする。多分ここに来るわ。退避しても私たちには行く当てがない。そもそも、このあたり一帯の地理すらわからない。

 レイの言葉に咲夜は素早く座席の位置を調節していた。主スイッチを切ると、レイがエナーシャーを回してくれる。エナーシャが最高回転数に達したところでメインスイッチと引き手を引き、スロットルレバーを開けていく。

 プロペラが勢いをつけて回っていく。風は向かい風。操縦桿を押しながら昇降舵を下げる。機体が浮いたところで操縦桿を引き、あて舵を行いながら左旋回を続けて上昇していく。

 こちらに向かってくる竜たちよりも高度を高めにとる。風防から眼下を覗くと、ルケンクロへと向かう竜たちの眼が白く瞬いているのが見えた。

 夜間の飛行はそれだけで困難を伴うものだが、これであれば狙い撃ちしやすい。咲夜は愛機を右旋回させながら静かに高度をさげ、竜たちの背後へと回っていた。

 ゆらゆらとゆれる竜の尻尾が風防ガラスを叩き割りそうだ。それほど近くにいるというのに、竜たちはこちらの存在にすら気がつかない。

 咲夜はさらに機体を竜に近づけ、7.7ミリ砲を竜の翼めがけて撃ち出していた。

 竜の翼は弾の閃光に照らされながら穴をあけていく。攻撃を受けた竜は鋭い悲鳴を上げ、体をこちらへと向けてきた。

 皺に覆われた醜い竜の顔が咲夜に向けられる。咲夜は怯むことなく、開けられた竜の口へと20ミリ砲を繰り出していた。肉片を散らばらせながら竜は海へと落ちていく。

 仲間が襲われたことに気がついたのか、他の竜たちがこちらへと顔を向けてきた。竜たちはいっせいに嘶きながら、火球を吐き出してくる。機体を急上昇させ火球を回避した咲夜は、そのまま機体を垂直にし、20ミリ砲を真下にいる竜に浴びせていた。竜の脇を通り過ぎながら、咲夜は海へと急降下していく。そのまま機首を左に滑らせ上昇。こちらに腹を見せている残りの竜に、咲夜は20ミリ砲を放っていた。

 腹を撃ち抜かれ、竜は悲痛な声をあげながら暗い海へと落ちていく。咲夜はその様子を見つめながら蒼い衛星を背にし、ルケンクロへ機首を向けた。ルケンクロに向かいつつ周囲に注意を向ける。

 暗くてよく見えないが、敵の影らしきものは見えない。安堵したその瞬間、咲夜は上空の闇が濃くなったことに気がついた。

 ——咲夜っ!

 レイの叫び声が聞こえる。咲夜は上方へと顔を向ける。そこにあるはずのないものを認め、咲夜は瞠目していた。

 零戦と同じ低翼の翼と、暗がりに浮かび上がる鯨のような胴体。深緑に塗られた機体の翼には美しい日の丸が描かれている。

 紫電改。特攻に向かった咲夜を、奄美大島上空まで送り出してくれた友人の愛機。それが、日本ではないこの場所に浮いている。

「陽介……」

 ここにいるはずのない友人の名を口にしてしまう。

 ——咲夜っ!

 レイが自分を呼ぶ。我に返った時にはもう遅く、上空にいたはずの紫電改はどこにもいなかった。

「どこだっ!」

 風防を越しに咲夜は眼を凝らして紫電改の行方を追う。瞬間、後方から衝撃音が聞こえた。

 ——きゃあぁあ!

「レイっ!」

 レイの悲痛な叫び声が耳朶を叩く。被弾したと気がときには遅く、猛烈な銃声が後方から轟いていた。とっさに咲夜はブーストを全開にし、全速力でもって急降下を開始する。

 翼がたわみ不穏な音をたてながら強風に翻る。

 強力な重力が咲夜を襲い、体を操縦席に押しつける。絞めつけられるような頭痛。体が押しつぶされるような苦痛が全身を駆け巡っていく。

 後方を確認。紫電改は離れることなく咲夜の後方を追尾している。

「レイっ! 大丈夫か!? レイ!」

 レイに話しかけるも、返事はない。とっさに機体を確認すると、風防ガラスに弾痕が認められ、補助翼の上部が吹き飛ばされているのが認められた。発射された弾丸が補助翼を吹き飛ばし、操縦席を貫通して風防ガラスに穴をあけたのだ。

 一歩間違えば死んでいた。

 ぞっと背筋に寒いものが走るのを感じながらも、咲夜は機体を横滑りさせ紫電改飛んでくる弾丸を躱していく。

 止まれば、堕とされる。

 それが分かっているからこそ、速度を緩めることはできない。海面すれすれを飛びながら、咲夜は紫電改を振り切ろうとする。

 もし相手が陽介だとしたら、自分のようにこの世界に来てまだ日が浅いはずだ。この海域一帯の地理も頭に入っていない。

 本土防衛のために建造された紫電改は零戦を上回る格闘性能を持つが、飛行距離が短いという弱点がある。どこかに紫電改を乗せてきた、空母のような存在がこの海域近くにはいるはずだ。その存在から紫電改が遠く離れることはまずない。

 未知なる存在を仮定し、咲夜は逃避を続ける。大破した補助翼が風圧に負け、零戦を覆うジェラルミンが音をたてながら剥がれていく。

 このままでは機体が持たないかもしれない。そう思った瞬間だった。紫電改が唐突に機体を反転させ、旋回しながら上昇していくではないか。

「助かったのか?」

 風防越しに去っていく敵機を見つめながら、唖然と咲夜は呟いていた。瞬間、咲夜は自身の握っていた操縦桿がなくなっていることに気がついた。

 ぎょっと眼を見開く咲夜の周囲で、零戦の機体内部が銀の燐光を発しながら明滅を始める。機体を構成する部材は瞬く間にに光の粒子へと転じていく。乗っていた操縦席も光の粒子となり、咲夜は暗い空に一人放り投げだされていた。

 海に落ちていく自分の側に、飴色の髪を翻す少女がいる。桜色の眼を固く閉じたまま、血まみれの彼女は海に落ちようとしていた。

「レイっ!」

 叫ぶが、レイが言葉を返すことはない。宙を泳ぎ、咲夜はレイに近づいていく。

視界が、綺羅星を映しこむ海面を捉える。レイを抱きしめた咲夜の体は暗い海へと落ちていった。




 夕光に照らされた南国の空を、二機の戦闘機が駆け抜ける。一つは飴色の機体に、桜の花をあしらった零戦二十一号。もう一機は、深緑色に塗られた零戦二十一号機。飴色の機体に乗る咲夜は、敵の射撃を軽やかに避けながら機体をバンクさせて空を滑る。

 もう一機の陽介の機体はそのバンクに応じ、咲夜の背後へと向かってきた。

 そんな二人を敵基地に置かれた機関銃が追いかけていく。桜色の夕空に光の軌道を描く弾丸を掻い潜りながら、二人の戦闘機は螺旋を描いて上空へと昇っていく。

 ポートモレスビーの基地で話題になったラエの坂田一飛兵の小隊よりも、凄いことをしてやろう。そう、昨晩二人で話し合い、咲夜と陽介は空爆を終えた敵基地の上空で空中ショーを演じようと二人で決めたのだ。

 95式戦闘機の時代に一世を風靡した、源田サーカスにでもなってみようか。そんな冗談を電波の悪い無線で話し合いながら、空爆機の護衛を終えた二人は小隊長のもとを離れて、悪ふざけに興じることにしたのだ。

 この後、二人が小隊長や基地の司令にこってりと絞られたのはいうまでもない。怒られながら、二人は笑い合っていた。そんな二人を見つめながら、上官たちはそれにしても見事な空中ショーだったと二人を褒めたのだ。

 その夜は、陽介と一緒に上官たちからいただいた煙草を存分に味わった。

 チェリーに、光に、ホマレ。

 味わいの違う煙草は、遠い故郷を離れた二人の疲れを優しく癒してくれた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る