第5話
岩礁に、僅かばかりの砂がたまった小島。その小島に咲夜は泳ぎ着いていた。片腕には、眼を閉じたままのレイを抱いている。血に塗れた衣服は海水をすって濡れそぼり、彼女の体を冷やしていく。
「レイ……」
震えた声で砂浜に倒れる彼女に声をかける。だが、レイは身じろぎ一つしない。
「レイっ!」
体を起こし、彼女を抱き寄せる。だらりと、レイの首は力なく垂れさがる。そんな彼女の頭を支えながら、咲夜はレイに語りかけていた。
「頼む、レイ。眼を開けてくれ、レイ……」
レイは応えない。込み上げてくる嗚咽をこらえながら、咲夜はレイを抱き寄せる。この世界に自分以外の日本人が来ていたなんて思いもしなかった。
しかも相手はあの紫電改だ。その乗り手は恐らく戦友である陽介。
飛び方を見ていれば分かる。まるで狩りをする狼のように獲物であった自分を必要に付狙う姿は、ラバウルで多くの敵を撃墜した陽介を彷彿とさせた。
「俺は、陽介のためにここに呼ばれたのか?」
そう考えるとすべての辻褄が合う。敵が何らかの理由で陽介をこの世界に呼び寄せ、その陽介に対抗するためにシエロたちが自分を召還したとしたら。
それは、咲夜にとって最悪の事態ともいえた。特攻で祖国のために死ぬことすら許されず、見知らぬ世界で戦友の命を奪わなければならないかもしれない。
しかも陽介はなんのためらいもなく自分を襲ってきたのだ。彼は確実に、自分を殺そうとしていた。
轟音が上空から鳴り響いてくる。驚いて、咲夜は顔をあげていた。
漆黒から薄い水色に姿を変えようとしている空を、横切る大きな生物がいる。巨大な骨の竜。ルケンクロが咲夜たちのいる孤島へと近づいてくるではないか。
けれど、そのルケンクロは昨日、咲夜たちが導かれたシエロたちのそれとは大きく違っていた。白い竜の骨の間を、黒い血管を想わせる管が無数に走っている。緑に覆われたルケンクロと違い、その竜骸は死体のような腐臭を放っていた。
そこから一頭の竜が放たれる。
シエロたちを襲っていたあの黒い竜だ。竜には鞍がつけられ、そこに一人の男を乗せていた。着ている服こそ違えど、自分と同じ東洋人の顔立ちをしたその人物を咲夜が忘れるわけがない。
「陽介……」
彼は漆黒を思わせる黒い外套に身を包み、長く伸ばした髪を銀の髪飾りで纏めていた。銀糸が織り込まれた黒い手綱を巧みに動かし、陽介は自身の乗った竜を孤の浅瀬に着地させる。
見ると、彼の前方には一人の少女が乗っていた。褐色の肌を黒い衣服で包んだ少女だ。彼女は翻る深緑の髪をおさえながら、じっと金の眼を陽介に向けていた。
「紫電改……」
恐らく彼女は、レイのように人の姿をとった紫電改だ。やはり陽介は、自分と同じように何らかの理由がありこの世界の人間に呼ばれたのだろう。
彼は空の民と敵対する海の民に呼ばれたのだ。
陽介は膝づいた竜から降り、自分の前方に乗っていた少女に手を差し出す。少女は陽介の手をとって、島の砂浜へと着地した。そっと彼女を抱き寄せ、陽介は咲夜へと顔を向ける。
「久しぶりだな。咲夜っ」
先ほどまで自分を殺そうとしていた人物が、屈託のない笑みをこちらに向けてくる。彼が何を考えているのか全く分からず、咲夜は瞠目していた。
そんな咲夜の態度など意に介さず、陽介は少女を伴ってこちらへとやってくる。
「できることならお前とは、死ぬ前に一戦交えたいと思っていた。まさか、こんな形で夢が叶うとはな」
「俺は、夢の方がよかったよ」
レイを抱きなおし、陽介は嘲笑を顔に浮かべてみせる。
特攻に行く自分を守ってくれた戦友が、今度は自分を狩る死神として現れた。その悪夢のような現実から眼を背けられるなら、それほどいいことはない。
そんな咲夜の前に、陽介は何かを投げてきた。朝陽に照らされるそれは一丁の拳銃だ。飛行士が護衛用という名目で持たされる自決用の拳銃。
敵の捕虜になるぐらいなら名誉な死を遂げよ。その言葉を体現した咲夜たちの持ち物だ。
「死ぬか、ここで?」
冷たい陽介の声がする。
陽介の言葉通りだ。自分は彼との戦いに敗れ、敵の眼前に身をさらしている。戦いに明け暮れる祖国に帰ることもできず、望まぬ戦いに身を投じることを求められている。
——飛行機で、帰ってきてくださいね。
手紙に書かれた茜の言葉を思い出す。今ここで命を絶てば、その魂は茜のもとに帰ることができるだろうか。
空を見あげる。
朝焼けに輝く空は、美しい桜色をしていた。茜とみた夕焼けの空のようだ。その空を、自分は腕の中にいる少女と共に飛んでいた。
もしこのまま敵の手に落ちれば、レイはどうなるのだろうか。
レイを渡すことはできない。
咲夜は、目の前に落ちる拳銃を拾い上げていた。そっと手で拳銃についた砂を払い、撃鉄をおろす。そしてその銃口を、咲夜はレイのこめかみに押しつけていた。
「やめろっ!」
鋭い、陽介の声がする。驚きに咲夜は顔をあげていた。陽光に眼を輝かせる陽介が自分を睨みつけている。
「お前は、まだ大日本帝国の亡霊に憑りつかれているのか?」
「亡霊?」
大日本帝国が亡霊とはどういうことだろうか。咲夜を見つめながら、陽介は長く息を吐く。彼はそっと目を瞑り、言葉を発した
「日本はアメリカに負けた。もう、俺たちの故郷はどこにもないんだよ」
「嘘だ……」
「察してはいただろう。補充されない飛行機に、死んでいく俺たちの仲間。そして、祖国のために命を捧げていった戦友たち。お前も、その中の一人だったはずだ」
陽介の言葉が耳朶に突き刺さる。
開戦直後から、海軍の上官たちは米国とまともに戦える年数はせいぜい二年だと話していた。予科練にまでやってきて、熱心に米国との戦いがいかに難しいものであるか熱弁をふるう海軍の上官たちもいた。
開戦前、日本は石油のほとんどを米からの輸入に依存していた。それは、米国が輸入を止めれば、戦艦や軍用機などを動かせなくなるということを意味している。
戦争をしかける国に資源を依存していたので話にならない。日本は、仏印の駐留をきっかけにアメリカに石油の輸入を止められた。
それに対抗するために日本は真珠湾攻撃によって米艦隊に打撃を与え、同時にタイ、マレーを経由して石油資源が豊富なシンガポールを占領したのだ。
白人からアジアを開放する大東亜共栄圏の思想は、見方を変えると資源得獲得を視野に入れた、植民地解放戦争とも言い換えることができる。
だが、戦況が悪化すると同時に日本に協力的だった東南アジアの人々は、日本人の敵として立ちふさがるようになる。彼らにしてみれば、日本人である自分たちもまた白人と変わらない支配者でしかなかったのかもしれない。
「本当なのか?」
乾いた口からようやく声を絞り出す。けれども、彼の厳しい表情がそれを現実だと教えてくれていた。顔を逸らす咲夜に、陽介は声をかける。
「ついてこい。お前を敵の使者として迎えよう。それなら、死ぬ必要はないだろ?」
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