第3話


 背骨には、ルケンクロ内部に続く吊り橋がいくつもかけられていた。吊り橋はルケンクロに生える植物を乾燥させて作られているらしい。まるで草履のようにきっちりと編みこまれた吊り橋は急な坂を形作っていた。

 一行は、シエロを先頭に吊り橋を降りていく。竜の骸だというルケンクロの中は、一面の緑に覆われていた。白い骨という骨の合間を色鮮やかな深緑や、背骨から丸い蔦で作られた球体が吊り上げられている。

 シエロ曰く、吊るされた球体はシエロたち空の民の居住区だという。ルケンクロ《竜の遺骸》と呼ばれる竜骸はこの世界に無数に浮かんでおり、シエロたち空の民の居住区となっている。

「私たちは始まりの竜であるルケンクロたちの涙から生まれた一族なのです。この世界には空と海しかありませんでした。そこにルケンクロたちが生じ、あまたの生命をその涙から生み出していった。ルケンクロの背に零れた涙は私たち空の民となり、海に落ちた涙は海の民となったのです。私たちルケンクロの末裔は、今日まで交わることなく空と海両方の世界で生きてきました」

 吊り橋を降りながら、シエロはこの世界の成り立ちについて話してくれる。坂を形作っていた吊り橋はやがて緩やかな斜面を描き、竜の腹部にあたる場所へと続いていく。

 そこは、びっしりと木の根で覆われた場所だった。周囲には七夕飾りのように蔦で作られた球状の居住区が吊るされ、その中央には白骨化した竜の骸が横たえられていた。

 竜の骸は蔦と根で覆われ、長い期間この場所にあったことを推測させる。

 その竜の遺骸に、降り立つ一頭の青い竜がいた。鞍をつけたその竜は、シエロを乗せていた竜だ。薄い膜の張った翼を動かし、蒼い竜は骸の上に降り立つ。竜が翼を広げる。青黒い静脈がまるで羊歯の葉のように翼を覆う膜に広がっていた。その様は、蔦に覆われたルケンクロの内部のようだ。

「ベルダっ!」

 吊り橋を駆け、シエロは竜へと駆け寄っていく。竜は嬉しそうにシエロに甘えた声を投げかけ、彼女のもとへと降り立っていく。ベルダと呼んだその竜の首にシエロは抱きついていた。

「よかった。怪我してない? ベルダは慌てん坊さんだから……」

「きゅん」

 ベルダの首を抱き寄せ、シエロはベルダの顔を覗き込んで見せる。彼女の言葉に応えるように、ベルダは弾んだ鳴き声を発してみせた。

「ベルダが私たちをここまで導いてくれたのよ」

 咲夜の前方を歩いていたレイが、シエロに声をかける。彼女は吊り橋を降り、ベルダとシエロのもとへと駆け寄っていた。シエロは驚いた様子でベルダを見上げる。彼女の竜は甘えた声を発し、金の眼を瞬いてみせた。

「ベルダ。ここまでひとりで逃げてきたの?」

「ああ、君をのせて必死になって俺たちをここまで連れてきてくれた」

 レイの後に続き、咲夜はシエロたちのもとへと赴く。シエロはぎゅっとベルダの首に顔を埋め、眼を瞑った。

「ありがとう。ベルダ」

「きゅん……」

 相棒である少女に、ベルダは優しく鳴いてみせる。その姿を見て、彼らを襲ってた竜の姿が咲夜の脳裏をよぎった。

 黒く干からびた体を持つそれは、まるでここに散乱する竜の遺骸そのものだ。その竜たちが、自分たちがここに呼ばれた理由でもあるのだろう。

「君たちは、何と戦っている?」

 鋭い言葉が喉から発せられる。

 咲夜の言葉に、シエロは顔をあげていた。彼女は咲夜に顔を向け、悲しげに眼を伏せてみせる。

「空と海。二つの世界は決して交わることはありませんでした。それがこの世界の理であり、秩序だったのです。それを、海の民が犯した。私たちは、ルケンクロの末裔である彼らと戦っているのです」

 ベルダのから手を放し、シエロは竜の骸へと昇っていく。白い陽光が彼女の肌を輝かせ、生温かな風が彼女の腰布を翻らせる。竜の骸に上った彼女は赤い眼を伏せ、厚い唇をそっと開いた。

 シエロの唇から、歌が紡がれる。

 どこの国の言語とも違う、咲夜の知らない言葉で綴られた歌だ。

 その旋律は物悲しい。シエロの歌は蔦で覆われたルケンクロの内部で反響し、咲夜の耳朶に悲しげに響き渡っていく。

 それは、海へと落ちていった戦友たちの悲しみの声のようであり、彼らを失って涙する遺族の声のようでもあった。

 回りながら落ちていく、戦闘機。音がしなくなって落ちていく、仲間の機体。自分が側にいながら敵機の機銃を浴びて、翼を蜂の巣にされた機体は錐もみ状態になりながら海へと落ちていった。

 シエロの物悲しい歌に呼応して、悲しげな獣の嘶きがルケンクロの内部に響き渡る。吊るされた丸い棲家をゆらしながら、小さな竜たちが顔を覗かせルケンクロの中を飛ぶ。

 竜たちの嘶きを旋律に、シエロは歌を奏で続ける。 

 それは、空に散っていった者たちに捧げられた鎮魂歌のように咲夜には聞こえた。

 この広間に集められた竜の遺骸は、シエロたちの敵である海の民に殺された竜たちの亡骸なのだろう。ここは墓所。シエロたち空の民と、彼女たちと共に暮らす竜たちの墓所だ。

 シエロはそんな彼らの魂を鎮めるルケンクロの巫女なのだ。彼女は歌を締めくくり、言葉を発する。

「多くの血が海の民との戦いで流れ、多くのルケンクロと同胞たちを私たち空の民は失いました。そんな悲劇を終わらせるために、私たちはマレビトたるあなたたちを呼んだのです」

 

 

 

 どうも自分とレイは、この世界を救う救世主として呼ばれたらしい。そんな御伽噺のような話を、どう説明すればいいのだろうか。

 大きな葉に乗せられた果実をじっと見つめながら、咲夜は夢物語のようなこの世界を俯瞰することしかできない。隣には、自分の愛機であるという飴色の髪を持つ少女が座り、自分の周囲にはこのルケンクロに暮らす褐色の肌を持つ人々が集っている。

 ココナッツのような果実を割った容器に彼らは濁った飲み物を注ぎ、自分たちの周囲に集う小型の竜にもその飲み物を分け与えている。

 咲夜も勧められて口に含んでみたそれは、果実酒のようだった。このルケンクロの内部には彼らの腹を満たす果実がたわわに実っているという。

 自分たちをここに導いた少女は広間の中央に鎮座する、竜の骸の上にいる。

 玲瓏とした鐘の音が、咲夜の耳朶に響き渡る。シロエの手首に嵌められた腕輪が、鈴のような音を発しているのだ。

 夜の闇の中、シロエの肌は松明に照らされ、赤々と燃えていた。空を想わせる蒼い紗を翻しながら、シロエは体を回す。

 一回転。二回転。シロエが舞う姿は、さながら零戦が旋回をする姿のようだ。そんなシロエの周囲を、ベルダを先頭にした、色鮮やかな竜の一団が飛んでいる。黒々とした静脈の浮かび上がる翼を翻し、ベルダは羽音をたてながらルケンクロの内部を仲間たちと共に巡っていく。

「編隊機みたい……」

 隣のレイが口を開く。彼女は顔をあげ、桜色の眼を輝かせながら飛び舞うベルダたちを見つめていた。ふと、悪ふざけをして陽介と米軍の基地の上で宙返りをした時のことを思い出す。

 夕焼けの美しい南国の空の下。陽介を小隊長にした咲夜たちの編隊は、何度も零戦で美しい弧を描いてみせた。ラエに勤務する坂井一飛曹兵の真似をしてみせたのだ。ラエでも腕利きの飛行機乗りである坂井一層兵は、敵基地を空襲する爆撃機を守るために直掩隊としてモレスビーの敵基地上空で部下たちと共に優美な宙返りを決めてみせた。

 ちょうど、自分たちの基地に来ていた敵機を撃退したばかりの咲夜は、その様子を愛機の座席から眺めていた。自分たちもあんな風に飛んでみたいものだと、その夜、陽介と語り明かしたものだ。そしてそれを実行に移した自分たちは、上官からしこたま怒られることになった。

「やってみるか?」

 レイに声をかける。彼女は飴色の髪をゆらし驚いた様子でこちらを眺めてきた。少女の姿をしているが彼女は戦闘機だ。飛びたいという思いは、飛行機乗りになりたいと願った自分と同じなのかもしれない。

 だからこそ自分は、レイと共にこの場所に導かれたのかもしれない。

「きゅんっ!」

 ベルダの鳴き声が咲夜の耳朶を叩く。上へと顔を向けると、旋回する仲間の群れから離れベルダがこちらへと向かってきていた。咲夜たちの周囲にいた空の民が慌てて立ち退いていく。彼らのいなくなった場所にベルダは降り立ち、そっと背中を咲夜たちに向けた。

「きゅんっ!」

「乗れってっ」

 レイが弾んだ声でベルダの想いを伝えてくれる。ただ、小さなベルダに咲夜は乗れそうもない。思案した末に、咲夜はレイにこう告げていた。

「レイ。ベルダと一緒にルケンクロの上空に行ってくれるか。俺は君たちを追いかけるから」

 そっと咲夜は立ちあがり、レイに声をかける。何か言いたげなレイを残して、咲夜は蔦に覆われた広間を駆けていた。

「ちょ、咲夜っ!」

 吊り橋に続く蔦の階段を駆け上がり、咲夜はルケンクロの背骨へと向かっていく。夜の帳が降りた背骨は暗く、けれども空を覆う綺羅星によって明るく照らされていた。

「天の川が二つある……」

 地球を想わせる蒼い衛星の背後で二つの白い天の川がぶつかり、歪んだ十字架を形作っている。とてつもなく明るい南十字星のようだ。

 けれども、地球に流れる天の川は一つ。空で銀河同士がぶつかっているこの光景は、咲夜のいた世界では見られない光景だ。

「ここは、本当にどこなんだろうな……」

 十字架の天の川を見つめながら咲夜は呟いていた。天の川の前にある蒼い天体は、地球のように生物の住む水の惑星なのだろうか。

 その場所にも、地球のように争いがあるのだろうか。

「咲夜っ!」

 空からレイの声が降ってくる。声の方へと視線を巡らせると、ベルダに乗ったレイがこちらへと手を振っていた。レイはベルダから飛び降りてみせる。あっと、咲夜が声を上げる中、レイの体は銀の輝きに包まれ、飴色の零戦へと変わっていた。

 桜のあしらわれた零戦は、ルケンクロの背へと優美に着地する。咲夜は零戦の翼に飛び乗り、風防を開けて操縦席に入り込んでいた。

 風上をたしかめて昇降舵を下げながら、尾部を浮かび上がらせ機体を水平する。機体が浮き上がった瞬間、操縦桿を引き寄せ、咲夜は零戦を夜の空へと放っていた。主脚と尾輪を収納しながら、零戦は左旋回を繰り返し上昇する。

 先ほどまでいたルケンクロが、瞬く間に小さくなっていく。ルケンクロは、宴の灯を受けて暖かな輝きを夜の闇に放っていた。

——綺麗……。昔もこうやって基地の側を飛んだわ……。

 優しげなレイの声が心地ちよく耳朶を叩く。敵の基地を爆撃に行った帰り、暗いジャングルに浮かび上がる基地の明かりを見るだけで咲夜は安堵することが出来た。まるで、故郷の家に帰ったような気持ちになったのだ。

 我が家である基地に帰れば、仲間であるみんなが待っていてくれる。その仲間が、帰ってこない日もあった。一人、一人と減っていき、ラバウルを去るころには武器である戦闘機すらまともにない状態だった。

 そんな中で自分たちは戦ってきたのだ。戦わなければ、ならなかったのだ。

 それなのに――

「どうして俺は、ここにいるんだ……」

 名誉ある特攻によって祖国を守るはずだった自分は、見知らぬ世界に呼ばれてしまった。ここでも咲夜を呼んだ人々は、咲夜に戦いを求めている。

 ——咲夜……。

 レイの声が聞こえる。どこか寂しげなその声を聴いて、咲夜は我に返っていた。

 ——今は飛ぶことを楽しみましょう。

 優しい彼女の言葉に、咲夜は小さく頷いていた。機体を横に滑らせながら、咲夜は夜空を飛ぶ。そんな咲夜を追いかけ、灯に輝くルケンクロから竜の影が飛び出してくる。ベルダを筆頭に、ルケンクロから飛び出した竜たちは、咲夜を追って旋回を始めた。

 竜たちの目が白い燐光を放って夜闇を輝かせる。その光の帯は咲夜の乗る零戦を追い、まるで流れ星のごとく夜空に軌道を描いていく。

 咲夜は、その光景を美しいと思った。そして、この美しい世界にも争いがあるのだ。

 自分は、レイと共にその争いに巻き込まれようとしている。

 ——大丈夫よ。咲夜は私が守る。

 レイの声が聞こえる。

 ——今度こそ、私が守るから。

 まるで、咲夜の不安を宥めるかのように彼女は言葉をかけてくれる。その言葉を、咲夜は遠い昔に発したことがあった。

 ——茜は、俺が守るから。

 小さな幼馴染の手を握りしめ、故郷の島を飛んでいく戦闘機を見送ったのはもういつの頃の話になるだろうか。それと同じ言葉を自分の愛機が発している。

「あぁ、俺にはレイがいる。大丈夫だ……」

 操縦桿を優しくなでながら、咲夜は機体をバンクさせ速度をあげる。風防ガラスの向こう側で、綺羅星が銀の尾を引きながら通り過ぎていく。まるで、宇宙空間を飛んでいるようだ。

 ——綺麗ね。

「あぁ、とっても綺麗だ」

 流れる星空を眺めながら咲夜は呟く。

 争いがあるはずのこの世界は、残酷なほどに美しかった。

 ふとルケンクロの上に無数の人影があることに咲夜は気がつく。空の民の人々が明かりを手に持ち、ルケンクロの背に集っていた。彼らは明かりをゆらし、こちらへと合図を送ってくれている。

 機体をバンクさせ咲夜は彼らに応える。

 ——そろそろ行く?

 レイの言葉が心地よく耳朶を叩く。その言葉に、咲夜は静かに頷いていた。




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