第38話


 肩を叩かれ見上げれば、コートに覆われていても分かってしまう逞しい鋼の体躯。露出している太い拳は男達の血に染まっている。


 仁王が如きその威風。修羅が如きその異様。覚えている。知っている。忘れるはずのない存在。そう。彼女の名は。


「は、花ちゃん……」


 ジムで出会った。チャリングクロスで接客をしたあの土木業に従事する怪女。花ちゃんであった。


「おや、見知った顔だけど、名乗った覚えはないんだけどね。カフェの店員さん」


「あ、申し訳ありません……お連れの方が、お名前をお呼びしていたもので……僕は、村瀬と申します」


「いいさ。それより、ほら、立てるかい」


「あ、ありがとうございます」


 非礼を詫びると、花ちゃんは分厚い手を俺の前に差し伸べた。それを握ると、実に頼り甲斐のある弾力を感じた。心身に優れた、紛う事ない強者の手である。

 しかしその温もりを堪能する間もなく俺はひょいと身体ごと持ち上げられてしまい彼女の対面に立たされたのだった。まじと見る花ちゃんの姿は雄々しく凛々しく、そして気高くそびえている。


「軽いね。どうも。ジムに通っているんだろ。ちゃんと鍛えてるのかい。あんた」


「え、あ、はい……あ、いや、ジムには、最近通い出したばかりで……」


 どうも花ちゃんはジムで俺を邪険にした事も覚えているようで、それが、なんだか認められているような、人間として認知されているような気がして、妙な話ではあるが、嬉しかった。胸が弾み、先までのていたらくが馬鹿らしくなった。こんな気持ちになるのは初めての事で不思議であった。

 そして更に不思議な事に、何故だか、この人の事を知りたいと、この人の話しを聞きたいという欲求が芽生えたのである。

 俺はその欲求を抑えられなかった。


「あの……」


「なんだい」


「その……の、飲みに行きませんか。これから」




「……正気かあんた」


「はい」


「……」


 花ちゃんはジッと俺を見て黙ってしまった。しくじったのだろうか。無理もない如何に筋骨ただならぬ規格外の化物とはいえ性別は女。顔見知りの男に、いきなり軟派な誘いを受ければ気分も害そう。急いて仕損じた。俺は平手の一発でも飛んでくるかと覚悟を決めた。



「面白いなあんた。袋にされたってのに、出てくる言葉が酒の誘いか。中々胆力があるね。気に入ったよ。行こうか、飲みに」


 豪快な笑みが開花した。その破顔に繊細さや可憐さといった女の美徳は見られなかったが、人徳が、器が、心意気が、今まで会った誰のものよりも一際煌き、その灼熱の覇気に、俺の矮小な心はさっぱりと焼き尽くされてしまった。


「はい……ありがとうございます……ありがとうございます!」


 出るは感謝の言葉であった。それが示すのは、暴漢から助けられた事についてなのか、同じ酒の席に座っていただける事へなのか自分でも分からなかったが、「大袈裟だな」と笑う花ちゃんの豪快な声が、ともかく染み入るのだった。


 そうして俺達はそのまま近くの居酒屋へと入り、酒を飲みながらお互いの事を諸々知っていった。そして、気がつけば……





 眼が覚める。いつもの万年床とは違い、深く沈むベッドの感覚。身体の至る所に痛みがあるが、それよりも、隣に感じる人肌に意識がいく。

 浅く焼けた立派な肢体は意外と行儀よくベッドの枠に収まっている。しずと聞こえる寝息が狂おしく、愛おしい。


 俺と彼女は昨夜、一つとなった。

 当初そんなつもりは毛頭なく、酒の肴のつもりで、俺がこれまで何を思いどうしていたのか身の上を話すと、彼女は大きく笑い、「そんなにヤりたいなら相手をしてやるよ」と言ったものだから、こちらとしても「是非に」という運びになった次第であった。もしかしたら冗談のつもりだったのに、俺が本気にしたために引っ込みがつかなくなってしまって、起きたら「間違いだった」と唾を吐くかもしれない。

 しかし俺は彼女と酒を飲み、言葉を交わし、肌を重ねた事で、彼女に、春夏秋冬ひととせ百花ももかに恋心を抱いてしまったのだった。




 俺は惚れやすいのかもしれないな。


 百花の横顔を見てふとそんな風に思ったが、今胸に湧いたこの気持ちはまぎれもない誠の深愛であるわけだから、気にしないようにした。


「まぁ、なんとでもなるか」


 俺は一言そう漏らし、ベッドの軋みに耳を傾けて今一度夢の中へ誘われるまま目を閉じた。

 

 今後の事は、また、起きたら考えよう……


 

 微睡みに溶けていく心地よさに、俺は確かに安堵を感じていた。これがきっと、幸福というものなのだろう。

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