第37話

 焼かれていく肉を見ながらビールを飲む。狩村から「食べて」と勧められたが食欲は失く、酒を入れるだけで事足りた。

 グラスは既に三つ空けた。一杯だけのつもりだったが、いざ着席してしまえば自然と酌が進むものだ。


「でも、クリスマスに一人でこんな店入るだなんて寂しいんだ。村瀬君」


「……」


 この女は自分を棚に上げて何をいっているのだろうかと癇に障ったが面倒なので黙ってビールを飲み続けた。

 酒を入れる度に傷心が疼くが、飲まなければ生きてはいけない。酒だ。酒が欲しい。酒をください。酒を……


「すみません。ビールを」


 店員に四杯目のビールを頼む。酒は飲めるが、焼ける肉を見ると血と脂が穢れているように思え、空腹であっても、理性があるうちは口に入れる気にはなれなかった。


「それにしても、クリスマスってのは嫌ね。街に溢れているのはカップルばかりで、路上占いなんて見向きもされないんだから。もう自棄酒よ」


 聞いてもいないのによくもまぁベラベラと喋る。疎ましい限りだ。おかげで酒が進む。

 俺はそのまま狩村の多弁駄弁を聞き流し更にビールを四、五杯煽った。酩酊といわぬまでも、気が変になる程度の酒量ではある。そうなると目の前で焼かれる薄汚い肉片がご馳走に見え、「つまむよ」と言って口に含んだ。すると酔って味の要領は得なかったが食べれぬものではなかったので、店員に「これください」と指示を出し、そのあとまたビールを頼んだ。それからはもう止まらず、ビールと肉を交互に進めていき、抱いていた美意識が消え失せてすっかりと気前のいい晩餐となってしまっていたのだった。


「なんだ。占い代ケチってたのに、今日は豪勢ね」


 嫌味とも皮肉とも取れるような狩村の小言であったが、酔って喰らう刹那の感情が気を大きくさせていたのか一笑に伏すに留まった。平素なら頭にきて無口の抗議をしていただろうが……酒とは人を寛容にするものだ。

 また、それだけならまだよかったのだが、失恋からの捨て鉢も合わさり血迷いが増して、金をドブに捨ててやる気概でうっかりといらぬ台詞を吐いてしまったのだった。


「いやあの時は悪うございました。なに。最近、アルバイトを始めたものでして、少しばかり懐が暖かいのです。そこで、お詫びと言ってはなんですが、五千円お支払いいたしますので、僕の事を占ってはいただけないでしょうか。恋愛運でもなんでもいいので……」


 途中まで声に出してハタとした。これでは金を払うから見世物になれと言っているのと同じではないかと冷静になったのである。


「……村瀬君」


「お、すみません。今のは……」


 さすがの狩村も怒ったことだろう。ここは素直に謝罪を申さねばならねと項垂れる。


「本当に占っていいのかしら」


「……」


 ……要らぬ心配だったようだ。元より狩村は久方ぶり会った同窓の仲間に押し売りをしてくるような低俗な人間である。欲の突っ張った面を叩かれたとて、皮が厚いものだから何とも感じぬのだ。


「ねぇ。いいのかって聞いているのだけど。とはいえ、今更冗談だなんて言わせないんだから」


「えぇ、本当です。よろしくお願いします」


 呆気に取られ閉口氏てしまった俺も悪いが僅かの間も置かず催促をしてくるとは意地の汚い。見上げた守銭奴根性である。


「よし。なら前金で……はい。五千円。確かにいただきました。それじゃ、恋愛運を占ったげるわね」


 狩村は陽気に唾を飛ばしながら脂の付いた手で俺の身体をいじり倒し、うんうんとそれらしく頷いた後にメモ帳に何かを書いて、それから鞄から賽を出してテカテカとした卓の上で振り、それでまた頷きながら今度は羅針盤を取り出して、メモを睨みながら右往左往して盤を傾け、最後はキープしている焼酎を瓶ごと飲んで、筆を大雑把に走らせページを破りそれを俺に寄越したのであった。

 俺は新妙な顔つきを作ったつもりで、渡された紙片を見る。そこに書かれていたのは……


「……北北西」


「そ。北北西。それが貴方の吉方よ」


 あまりの突拍子のなさになんだ。やっぱりいい加減じゃないかと乾いた笑いが出たが、どうやら狩村の方は本気で述べているらしく、血走った目が俺を捉えていた。


「すぐに行った方がいいわね。逃すと次まで長いわよ」


「はぁ……」


「ほら、早く。行った行った」


「え、しかし……」


「いいから行きなさい! ほらお金払って店を出る! 早く!」


「え、え、あの……」


「すみません! 一旦お会計! この人が払います! じゃあ、また機会があれば」


「ちょっと……」


「はい。それでは八千五百六十円です」


「あ、はい……」


「じゃあね。村瀬君」


「……」



 追い出されるようにして店を出ると、くるぶし近くまで積もった雪の冷気が靴越しから伝わり一瞬で凍えてしまった。狩村を呪いながら、恨めしく店の戸を睨む。おそらくあの守銭奴は、後から「金を返せ」と言われるのを嫌がり無理やり退店させたのだろう。つくづく狡い人間である。


「どうしたものか……」


 寒さに酔いが少し覚め、腹も膨れた事から幾らか冷静さを取り戻した。もはや女を買う欲はなく、途方にくれるばかりである。


「北北西……」


 手にしっかりと握られていたメモ用紙を見つめ呟く。


 駄目でもともとだな……


 狩村を信じるわけではないがここにいても始まらないと、俺はスマートフォンを取り出し(この際白井さんと一美いちみからの着信を確認できたが当然無視をした)、今日まで一度しか起動しなかったコンパスのアプリを表示させ、新雪に足跡を残しながら針の指す方向に従って歩いていった。

 だが、どれだけ進もうと女どころか人影も見られず、溜め息混じりに辿り着いたのはジムの近く。自室まで目と鼻の距離。狩村の占いは帰れという啓示だったのではないかと落胆。そんなものだろうと覚悟はしていたが、少しばかり期待していた自分に腹が立った。


「……帰ろう」


 一人ごちる。女は寝取られ、ギターは破損し、不衛生な肉と薄い酒を飲み、挙句に当たらぬ八卦に大枚を叩いて、結局ただ帰宅するだけの散々な日であった。これから先もこうした無益な毎日が続くと思うとやるせない。一先ず憂慮すべきは明日。白井さんと一美にクリスマスパーティーへ顔を出さなかった弁明を述べねばならぬわけだが、あの二人の顔を思い出すと嘔吐しそうになるため、とりあえず、今日は早々に帰宅し何も考えず眠ると決めた。

 あぁ、まったく憂鬱で仕方がない……



 踏み荒らされた雪の道を見ながら歩く。枯れた悲しみからは涙も出ない。

 もう疲れてしまった。俺は何故生きているのかと。どうしたら楽に死ねるのかというような事を考えながら肩を落とし芋虫のように帰路を辿る。何もかもが、どうでもよかった。何もかもが、嫌になってしまった。何もかもが、辛く、苦しかった。


 虚ろに覇気なく行く事しばらく。静寂を劈く悲鳴が上がるのを耳にする。何事だろうかと、覗いてみれば、公園で男に囲まれる、明らかに夜の商売をやっているだろう女がいた。出勤前だか後だか知らぬが、気の毒な事だと俺は通り過ぎようとした。しかし……



 本当にそれでいいのか。



 安い正義感が俺を咎める。

 見捨ててしまって本当にいいのかと良心に問いかける。




 お前は本当に知らぬ顔をして帰るのか。




 俺がいってどうする。相手は複数だし、そも喧嘩などした事がない。しゃしゃり出たところで返り討ちだ。




 本当にいいのか。




 いいに決まっている。不幸な事件だ。可哀想だがどうしようもない。犬に噛まれたと思って、泣いてもらうしか……


 本当にいいのか。


 俺は揖良ゆうらを強姦しようとした屑だ。格好をつける資格がない。


 本当にいいのか。


 いいさ。それでいいんだ。俺はヒーローにはなれない。黙って見過ごせばいいんだ。それでいい。それで……


 本当にいいのか。


「……」



 冷たい風が吹いている。

 女の悲鳴と、男の笑い声が聞こえる。

 血が沸騰していく。

 身体が熱い。熱い。熱い。熱い!


「いいわけがないだろう!」



 俺は声を出し男達へ向かって駆けた。芯から冷えきった身体がギシと音を上げるのを聞かぬふりして、声にならぬ叫びを上げて猪突猛進に突貫をした。

 そして殴られた。何度も何度も、本気で殴打をされていった。


 ほら。やはり駄目じゃないか。


 冷たい地面に横たわりながら自嘲する。あぁ。帰ればよかった。そう思いながら、腹に刺さる蹴りに耐えかね悶絶。このまま死ぬのかなと、弱気なのか諦観なのか分からぬ感想が浮かぶ。

 いや、いっそ死のうと思っていた。このまま暴力を受け続け、雪の中で血の花を咲かせ果てようと思った。


 だがそうはならなかった。



 男達の悲鳴と同時に暴行が止まり、代わりに呻き声が聞こえた。何が起こったのかと、起き上がろうとした瞬間、声を掛けられる。


「大丈夫かい」


 朦朧としながらもしっかりと聞こえる力強い声。その声の主を、俺は知っていた。その人物は……

 

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