第36話

 夜の街の光が冷たかった。

 石川堂を離れ、歩いている合間にポツポツと見える家庭の明かりが降り積もる雪以上にこの身を凍えさせる。俺以外の人間が皆楽しくクリスマスを祝っていると思うと、どうしてか社会から疎外されているような気持ちとなり、自尊や自愛といった自己肯定の念がひしゃげ崩れていくのである。

 思い返してみればクリスマスなど一度たりとも喜ばしいと思えた事がなかった。子供の時分は、母は知らぬ間にどこかへと消え、父は疲れ切った顔をして惣菜のチキンを買って帰ってくるのが常であり、俺が「ありがとうございます」と父に義理を述べると、偉そうな面をニヤけさせ「プレゼントだ」と万札を寄越してくるのである。暖かい家族団欒も夢を届ける聖ニコラウスもありはしない。空調の温もりと生暖かいチキンと、物質主義が極まった糞の塊が与えられるだけであった。

 親元を離れてからも父親と金がないだけで同じ事をしていた。暖房を入れ、安いチキンを買って食べる。それだけだった。

 退屈ではあったが、いつかは自分の女が自動的に作成され、雛形めいた、一般的な聖夜を遅れるだろうと信じていた。何事も都合良く、望むままに上手く生きていけるだろうと考えていたのだ。

 それがどうだ。今の俺は食事も取らず、女は奪われ、寒空の下目的もなく歩き、野良犬然としてクリスマスを過ごしているではないか。何一つとして都合よくなどいっていない。それどころか年々荒み、悪化しているのが現実である。意味もなく意義のない人生を経てきた人間の末路がこれだ。救いなどなかった。朽ちて死ぬのを待つしかないのか。あぁ、苦しい。苦しい……




 定まらぬ足取りであったがひとまずは駅まで辿り着いた。しかし電車に乗る気にはなれず、俺は尚も道を進んだ。

 家族やカップルが行き交う大通りの煌めきといったらない。大荷物を抱えたサラリーマンが、幸せそうな顔をして小走りで去っていく様のなんと現実離れしている光景だろうか。今も昔も今まったく縁のない至福に殺意を覚える。このままあのサラリーマンを背後から殴りかかり、首を絞め、火をつけられたどれだけ美しく燃え上がるだろうか。俺の空虚をどのように照らしてくれるだろうか。振り返り、サラリーマンの後ろ姿を眺めながら立ち尽くし悪逆の計画を練るもすぐに飽き、前を向き直してまた歩き始める。できるわけないのだ。そんな腹積もり、決まるわけがないのだ。女一人抱けない人間が、悪に走る決意など、できようはずがないではないか。

 結局俺ができることは空想と妄想の類だけである。自らの中で全てが完結する虚しい人間が俺だ。誰にも愛されず、誰も愛することができない血肉の入った袋が俺なのだ。


「あ、あ、あ、あ」


 そう自覚すると、呻きなのか、笑いなのか、嗚咽なのか判断しかねる奇妙な声が出た。感情が混濁し、沈み、何が正しいのか分からなくてなっている。


 どれだけか経過し、ようやく見知った場所へ出た。そこは俺が住む街の駅裏であった。高架下のホルモン屋や立ち飲み屋。そのさらに奥にある、いかがわしい店が目につく。いずれも即物的で思慮の浅い俗な構えであったが、それらは地を這いつくばる俺の見すぼらしさと見事に合致しており違和感なく、写真に収めればきっといい画になることであろう。それを想像すると、途端に自らの身の丈がどれほどのものかと実感できた。俺は底辺で精神的にも物質的にも下級の人間であり、二十五にもなって何もない、これからも何も起こり得ない虫なのだと、己を認知できたのだ。


「少ない金で安い酒に呑まれて、不味い女を買えばいいのさ。それがお前の精一杯だよ」


 耳に聞こえるのは俺の声だった。紛れも無い俺自身の言葉であった。


「いや、しかし……」


「どだい無理なんだよ。お前に普通の人生だなんて、幸福だなんて、女だなんて。お前はもう、そういう生き方ができる道から踏み外しているんだ。ならばもう、相応に振る舞うしかないだろう」


「だが……」


 寒さのせいか疲れのせいか、口がうまく開かない。いや、反する余地がないのだ。俺は俺の言葉にまさしく論破され窮したのだ。そして、心中にある俺の望みは俺の言う通りなような気もしなくもなかった。俺は目の前にある安いホルモン屋で動物の内臓を焼いて食い、売春婦を抱くのが自分にとって正しい選択のように思えてしまった。浮浪者のように意味もなく練り歩き、下卑た笑いを上げながら立小便でもするのがお似合いなのではと思ってしまったのだった。

 それが本来の俺なのであれば是非もないと、肉の焼ける音に連れられ、ホルモン屋の、脂で汚れた安い引き戸を開けた。すると火煙に包まれ、一瞬むせそうになり口を覆った。


 ここで食事をするのか……


 煙も散々だが店内の汚れもまた酷かった。壁が所々黒く変色しており、卓や椅子も脂や酒が染み付いていて異様な模様を作っているのだ。特別衛生観念が高いわけではないのだが、いつ清掃されたのか分からぬような店で物を食べるのはさすがに遠慮願いたいと忌避意識が生じる。


 しかし、よくこんな場所に人が集まるものだなと周りを見るとなるほどと納得がいく。ここで肉を喰らい酒をあおる連中は皆、俺が先まで描いていた底辺像よりも更に不潔で意地汚く、また卑しい。酒や肉を口からこぼし、爪楊枝で掘り出した歯垢を噛み締めるような連中だったのだ。

 そうした人間にはこの掃き溜めの居心地が良いのだ。濁った水で育った魚は清流では生きていけない。人間も同じなのである。


 俺はどれだけ落ちぶれても彼らのようにはなれないと直感した。彼らは真の意味でのドロップアウターであり、人に蔑まれようと、白眼視されようと意に介さない無法の徒なのだと理解したのだ。名ばかりではあるが大学を出て、真っ当な常識を持つ俺には(揖良を強姦しようとしたとはいえ)辿り着けない境地にこいつらはいるのだ。


「いらっしゃい。空いてる席に座ってね」


 汚れ切った面でニヤと笑う店主がそう言う。素知らぬ顔で退店するつもりであったが、もはや逃げる事はできなかった。萎縮してしまった俺は、どこか一人になれる場所がないかと周囲を見る。が、どこも垢舐のような人間がひしめいており、どこへ座っても、どうしても隣と密着してしまう構図であった。

 斯様な店に入るんじゃなかったという後悔ばかりが湧いてくる。だがいつまでも挙動不審に立ち尽くしているわけにはいかない。現に、一向に席へ座らぬ俺を見て何人かがヒソヒソと話しを始めたのだ。このまま嘲笑され続けるのは堪え難い。どこかに座らなければ、どこかに……




「村瀬君。こっちよ。こっち」


 ふいに俺を呼ぶ声がした。屋号も知らない店でいったい誰だと目を向けると、隅にある狭いテーブル席には、あの同級生でありインチキ占師の狩村が肉を焼きながらこちらに手招きをしていたのだ。


「あ、狩村さん……どうも」


 どうやら狩村は一人のようであり、俺はしめしめと彼女の対面に座りビールを注文した。

 狩村の顔は化粧が落ちたうえに脂まみれで、できそこないのピカソのように崩れていたのだが、それには触れないことする。

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