第35話

 気が付けば繁華街にいた。道行くカップルが「素敵」だの「綺麗」だのと戯言をのたまっており耳を覆いたくなる。


一美いちみ……一美……」


 人賑わう夜の街角で女の名を落としながら覚束ぬ足取りの自分は、客観的に見れば全く不審者でしかないだろうという自覚はあった。しかしこの落胆は何とも仕様がなく、たちどころに精神へと作用する事から、全身に回る薄弱の毒に由来する奇行を止める術はなかった。

 臓腑の内から溶けていくのではないかと思うほどの悪心と倦怠感が正常な思考を奪っていき、俺を腐らせていく。一美が略奪され、俺の細胞は死滅しようとしていたのだ。


 人に話せば「馬鹿を言うな」と大いに笑うに違いない。しかし、手の届かなかった花が掠め取られていった時の絶望は同じ目に遭った人間にしか分からないだろう。砂を食む思いというのはまさにこれこの事。意中の女から哀れみと嘲りを手向けられどうして正常でいられようか。ましてや童貞消失の祈願を無残にもへし折られたのだ。感情の混沌に意気が呑まれ亡失するのもやむなき事であろう。俺は今宵、屈辱の焼印を押され、男としての威厳が、存在価値が、綺麗さっぱりと損なわれてしまったのだ。


 どうすればいい。どうすれば俺は生きられる。混濁とした思考の中で、俺は如何にして消失感から脱却できるかと頭を悩ませた。



「……あぁ、そうだ」


 答えは思いの外早くに出た。


「そうだ。代わりだ……一美の、代わりだ……」


 俺は失われた男性の輝きを取り戻す必要があった。そのためには、新たな女に狙いを定め抱かねばならない。

 脳裏に浮かんだ相手は揚羽あげはだった。本日はクリスマスだがスタジオは空いており、彼女のレッスンが開催される予定である。ならば行かねばならない。

 俺はレッスンに参加し、飲みに誘い、そのままヤるのだ。夜の街に溶け、なし崩しの享楽に身を投じるのだ。揚羽とヤるのだ。揚羽とヤるのだ。揚羽とヤるのだ。


 再び駆ける。サンタクロースや雪だるまのオブジェを蹴倒し、手を繋ぐカップルを引き裂き、待ち合わせをする男女の肩に追突しながら遮二無二猪突猛進。走り、急ぎ、息を切らせ、追われるようにして道を行く。最短距離を辿るべく踏み入るは淫猥に染まる裏通り。建ち並ぶ色茶屋に出入りする男女のなんと羨ましく怨めしい事か。しかしここを突き抜ければスタジオまで目と鼻の距離である。ならば行かねばと意を決し足を踏み入れる。薄く下品なネオンに照らされる一角は心細く息苦しい。だが直だ。ここを脱すれば、今抱いている鬱屈も悲惨も終わる。

 あと数歩。数分の距離を抜ければ、この場にひしめく不徳の者たちの仲間に入れるのだ。あと少し。あと少し……



 その時俺は見た。

 家屋から出てくる男女の姿を。

 傍を歩く男に腕を絡ませはにかむ女を。

 その女の顔を。よく知っている、その顔を。





 「あら。雪が降っていますね。いい夜だこと」


「寒いだけさ。早く行こう」


「まぁつれない。いけずは昔から変わらないんだから……」


 


 話を弾ませ去っていく二人。女の肩に掛かっているのはギターである。俺が見慣れている、ケースに入ったエレキギター……


 そう。それは、いつもスタジオで目にする、想い人がもつギターであった。




「……揚羽」



 吐き出すように女の名を呟く。

 同時に膝から崩れ落ち、その拍子に俺が持っていたギターが地面に落ちた。鈍い音が、シンシンと降る雪に呑まれる。


「揚羽……揚羽。揚羽!」


 蹲り声が聞こえぬよう袖を噛んで唱えるのは今しがた背を見送った女の名前。氷結する手前のアスファルトは酷く冷たかったが、流れる涙は怨恨の熱を持ちながら俺の頬を伝った。痛みとともに頭の中が軽くなっていく感覚。脳から感情だけが抽出され神経を伝わっていく。

 わななく四肢。窒素寸前の過呼吸。身体中の感覚が衝動に支配され意識が虚つけ、憎しみだけが明確となり、俺は自分でも知らぬうちに立ち上っていて、何をするのか分からないまま、ただ自分がこれからどうするのか、待ち構えていた。


 手にはケースから出されたギターが持たれていた。

 Happy Christmasを口ずさんでいた。

 ネックを握る拳に力が入っていた。

 端に立つ、電柱を眺めていた。

 力が、入っていた。

 力が入っていた。

 力が入っていた!


 絶叫と破壊音が雪の結晶を震わせ砕いた。俺はギターを電柱に叩きつけていた。


 二度、三度と繰り返す狂逸。飛散する純白のボディの残骸。根元から折損されるネック。切断される一弦二弦。シルバーのブリッジ。全てが機能を失い無機物の死骸となった。俺のギターは死んだのだ。今ここで!



 人が見ていた。だが知った事ではなかった。俺は疎らな野次馬の影を抜け駅へ行き電車に乗って隣町で降りた。


 こうなればもう揖良ゆうらしかいないと、石川堂へ侵入し、店内で押し倒して既成事実を作るしかないという覚悟だった。


 あの愚鈍で自意識の低い馬鹿な女ならばなにをしてもいい。事後に一言好きだとでも吐いておけば何とでもなるだろう。

 

 蛮行が肯定されていく。最低限の倫理、道徳が抜け落ち、俺の徳はもう消えてしまった。残るのは女を犯したいと思う一心一念。それだけのために息を吸い、それだけのために生きていた。

 駅に着き電車を降りて、雪の増す中、あの不気味な一角を歩き向かう。あのくたびれた薄汚い本屋で最低の所業をしてやると、鼻息荒く、肩を上下させ進んだのだ。



 石川堂に辿り着くと始めて頭に積もっていた雪を落とした。

 凍てついた髪が指に触れ一瞬冷静さを取り戻し、忘れていた五感の刺激が回復した。視野が広がり、冬の香りに気が付き、喉の渇きと、手足の冷たさに震え、そして、静寂が支配する中で、異物のように紛れる声を聞いた。


 なんだろうかと思った矢先に理解した。

 その声は、聞かぬ方が良かったものであると。




 それは覚えのある、知っている者の声であった。


 それは目の前に立つ、小さな荒屋から伝わっていた。


 それは女の、今から犯そうとしていた女の、快楽に溺れる嬌声であった。




「揖良ちゃん。本当に好きだねぇ。助平だねぇ……」


「違います……そんな事……」


「違わないよ。揖良ちゃんは助平なんだぁ。あぁ。堪らないねぇ」


「……っ」




 歳をとった男の声に弄ばれる揖良の声。二人の関係がどういったものなのかは分からない。ただ一ついえるのは、俺は、彼女を抱く事が出来なくなったという事である。


「あ、あ、あ、あぁ……」


 揖良の喘ぎと共振するように声が漏れ、膝をついた。

 誰もいない街角で、抱くと決めた女が壁を隔てた先で他の男に抱かれる様子を聞きながら、俺は必死に嘔吐に耐えていた。

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